第12話 お国入り編① 荒れた田の先に

宝永の大地震から三年。

ようやく幕府からお国入りの許しを得た吉宗は、江戸を発ち、紀州を目指していた。


「殿、もうすぐ紀州領に入ります」


吉宗は頷くと、ふいに言った。

「そうか。では籠から降りよう。村々の様子を、歩きながら見ていこう」


籠を降り、草むらを踏みしめたそのとき――

彼の目に飛び込んできたのは、荒れ果てた水田の光景だった。


かつての水田には、まだ枯れ草がまばらに残っている。塩を噛んだ土はところどころ白く、雨が降るたびに泥となって流れ、畦道を濁らせていた。


それでも、遠目には緑が戻りつつある。塩害で枯れた木を伐って植え直した若木が、風にそよいでいる。農家の男たちは、田に鍬を入れ、女たちは灰を混ぜた黒土を運んでいた。誰もが、黙って働いている――まるで声を出す余裕もないように。


農家の一軒に立ち寄れば、壁にかけられた竹札には「借米三斗・来年返済」と墨で記されていた。五右衛門風呂の脇では子どもが泣きじゃくり、老婆がそれを背負って土間で芋を蒸している。


吉宗の目には、飢えを堪え、家族を守るために働く人々の背中が焼きついた。


暫し立ち尽くしたのち、彼は駕籠を降り、畔に立つ男に歩み寄った。


「――大儀であるな」


男は泥まみれの手を止めて顔を上げ、目を見開いた。まさか直に言葉をかけられるとは思っていなかったのだろう。


「……恐れ多いことでございます」


吉宗は続けた。


「この三年、よう耐えた。お主らのような者の辛抱が、この国の根を支えておる。拙者にできることがあれば、必ず力としよう」


男は泥だらけの頭を下げ、しばし言葉を探すように口を噤んだのち、ぽつりと語り出した。


「……ありがとうございます。殿様が塩抜きのために人を遣わしてくださったおかげで、思うより早う田に手が入れられました」


男の目が、ちらと海の方を仰ぐ。


「ここいらは、海も近うて――あの時は、もうダメかと思うたんです。命は助かっても、畑は潮に呑まれ、どうしてよいか分からんで……」


声が震え、言葉が詰まる。吉宗は黙って、じっと耳を傾けていた。


「けんど……江戸から、殿様に雇われたちゅう男たちが次々にやって来て、『諦めるな』と声をかけてくれた。お上のことなど信じとらんかったわしらに……『殿様が頭を下げて頼んでくれたんだ』って、そう言うて、わしらのために働いてくれました」


男は目を赤くしながらも、かすかに笑った。


「……ありがたいことでした。あの言葉に、どれほど救われたか……」


男の頬に、涙が一筋、伝った。


「久通、この村で一泊することは可能か?」

「この村に、でございまするか……?」

「うむ。村長に、話を通してくれ」


「村長、殿がお泊まりになりたいと仰せです」

「お、お殿様が!? いやいや、そ、それは……とんでもないことでございます!」

「殿は、雨風を凌げるところがあればそれで良いと仰せです」

「し、しかし……」

「お主らの労をねぎらいたいのだ。どうか、頼む」


「……かしこまりました。村の中で、最もましな場所をご用意いたします」


「ふむ。感謝する」


そう言って、吉宗一行は村長の家へと向かった。


夕餉の支度を始めた頃、吉宗は台所へ顔を出した。

「おかみさん、私も手伝おう」

「え……お殿様……!?」

「この魚の内臓を取って、煮付けにするのだな」

「そ、そんな! そんなこと、お殿様に……」

「こう見えて、料理は得意なのだ。ふふ……はっはっは!」

(だって中身は主婦よ。料理なんて朝飯前! 節約のために全部手作りだったし。ケーキだって焼けるわよ)


その夜、

「お前、見たか。殿様が鍋の火加減を見ておられた」

「あんなお方、お目にかかったことありませんよ……」

「本当だ。あんな気さくな殿様初めてだ」



翌朝、吉宗はいつもより早く目を覚ました。


借りた家の軒先で、大工の手伝いをしていた青年と飯を分け合い、昼には土を運ぶ女たちと並んで畦を踏んだ。


「殿様が、土運びて……」と誰かが呟いた。


彼は黙って鍬を持った。力の使い方を知らず、最初は泥を跳ねさせただけだったが、やがて村の者と同じように汗を流していた。


「殿さまの手、まるで庄屋の爺さみたいじゃ」

子どもの言葉に、村人たちの笑いが弾けた。


その夜、囲炉裏の火の向こうで、老農がしみじみとこう言った。

「これで、この村は……もうひと踏ん張りできます」


囲炉裏の火が静かに揺れ、誰もがその言葉を噛みしめるように、黙って頷いた。


翌朝、吉宗は村人たちに深く一礼し、静かに出立した。

空は澄みわたり、稲の葉に朝露が光っていた。


――その背を見送る村人たちの瞳に、かすかな光が宿っていた。

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