第10話 帰ること、叶わず
地震から、ひと月が過ぎた。
江戸でできることは、おおかた済んだ。
物資は送り、人手も手配し、僧たちの手で供養も始まった。
だが――
まだ、足りぬ。
報告書だけでは、見えぬものがある。
他人の口では、伝わらぬ声がある。
あの地に立って、私の目で、耳で、肌で知らなくては。
民の痛みも、苦しみも、そのすべてを。
「誰か、これへ」
書院の障子が音を立てて開き、側近がすぐに控えた。
「お国入りの許可をいただきに登城をしたい旨、幕府に伝えに行ってまいれ」
「はっ」
指示を受けた家臣は一礼し、足早に出ていった。
やがて日も傾くころ、戻ってきた家臣が報告する。
「殿、登城の許可がおりました。明日午前にとのことです」
「うむ」
吉宗は静かにうなずき、心を整えるように目を閉じた。
*
翌朝。
身支度を整えた吉宗は、粛然と江戸城へと足を運んだ。玄関番に登城を告げ、案内されて向かったのは、小広間の一室――控えの間だった。
障子を隔てた向こうでは、すでに誰かが謁見中らしい。低く響く声が、断片的に聞こえてくる。
吉宗は黙って、膝を正して座る。
部屋の空気はひんやりとしていたが、背中にはじっとりと汗がにじむ。待たされる時間は、短くはなかった。
(……早くしてくれ。今は一刻も惜しいのだ)
手元に持参した書状に目をやるが、既に何度も読み返したところで、字面はもはや頭に入ってこない。紀州の現状を訴える言葉が、墨の中でむなしく踊る。
やがて、奥から案内の声がかかる。
「紀州藩主、徳川吉宗殿――お通りを」
ゆっくりと立ち上がり、裃の裾を整える。
*
将軍綱吉の御前。
畳に両手をつき、頭を深く下げる。
「このたびは、上様におかれましてはご機嫌麗しく、ご壮健にてあらせられますこと、まことにお慶び申し上げます」
定型の挨拶が、口からすらすらとこぼれる。だがその裏で、胸の奥に熱が宿っていた。
すぐに本題を切り出す。
「……拙藩・紀州は、先の大地震により甚大なる被害を受けております。つきましては、この吉宗、国元に戻り、直ちに現地の復興指揮に当たりとう存じます。なにとぞ、お国入りをお許しくださいますよう、お願い申し上げます」
室内に、静寂が満ちた。
その沈黙の長さが、すでに答えを物語っているかのようだった――。
老中がひとつ咳払いをし、口を開いた。
「吉宗殿。お気持ちは痛いほどわかりますが……今、災害は紀州に限らず、日本各地に及んでおります。駿河も、土佐も、大きな被害を受けております」
将軍綱吉が重々しく頷いた。
「今は江戸にて、支援の調整と、政の均衡を保ってもらいたい。御三家の一角が動けば、各地の民心に与える影響は小さくあるまい」
その言葉に、吉宗はしばし沈黙した。
返す言葉がなかった。いや、言いたいことは山ほどあった。けれど、それは飲み込んだ。幕府に逆らえば、藩の名に傷がつく。
「……かしこまりました」
頭を下げ、吉宗は城を辞した。
*
江戸屋敷に戻ると、誰もがその表情から結果を察した。
「……却下だ」
ぼそりと漏らした言葉に、側近の加納久通が気遣うように声をかける。
「……殿。今は、仕方がございませぬ。いずれ……」
だが、吉宗は手を振った。
「分かっておる。幕府の言うことは正しい。民心の安定も、政の均衡も大切だ。だがな――」
その目が、にわかに険しさを増す。
「――日本のことは幕府がどうにかすればよい。だが、紀州のことは、我が責任であろうが」
拳が膝の上で強く握られる。
「こっちはこっちで、大変なのだ。家が潰れ、井戸が枯れ、食う物もない。死ぬか生きるかの瀬戸際だというのに、“均衡”だの“影響”だの……!」
その声は震えていた。怒りか、無力感か、あるいは――悔しさか。
「一刻を争うのだ……!」
吉宗は立ち上がり、奥へと歩き出す。
「もうよい。江戸に留まれというなら、ここからできる限りのことをする。物資を集め、人手を送り、知恵を絞って、紀州を救う」
「たとえ城に戻れずとも、我が民を、見捨てることなどできぬ」
その背に、家臣たちは深く頭を下げた。
藩主が、己の手で、民を救おうとしていた。
まだ若き吉宗。その瞳の奥に、すでに将たる者の光が宿りはじめていた――。
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