第10話 帰ること、叶わず

地震から、ひと月が過ぎた。


江戸でできることは、おおかた済んだ。

物資は送り、人手も手配し、僧たちの手で供養も始まった。


だが――


まだ、足りぬ。


報告書だけでは、見えぬものがある。

他人の口では、伝わらぬ声がある。


あの地に立って、私の目で、耳で、肌で知らなくては。


民の痛みも、苦しみも、そのすべてを。



「誰か、これへ」


書院の障子が音を立てて開き、側近がすぐに控えた。


「お国入りの許可をいただきに登城をしたい旨、幕府に伝えに行ってまいれ」


「はっ」


指示を受けた家臣は一礼し、足早に出ていった。


やがて日も傾くころ、戻ってきた家臣が報告する。


「殿、登城の許可がおりました。明日午前にとのことです」


「うむ」


吉宗は静かにうなずき、心を整えるように目を閉じた。



翌朝。


身支度を整えた吉宗は、粛然と江戸城へと足を運んだ。玄関番に登城を告げ、案内されて向かったのは、小広間の一室――控えの間だった。


障子を隔てた向こうでは、すでに誰かが謁見中らしい。低く響く声が、断片的に聞こえてくる。


吉宗は黙って、膝を正して座る。


部屋の空気はひんやりとしていたが、背中にはじっとりと汗がにじむ。待たされる時間は、短くはなかった。


(……早くしてくれ。今は一刻も惜しいのだ)


手元に持参した書状に目をやるが、既に何度も読み返したところで、字面はもはや頭に入ってこない。紀州の現状を訴える言葉が、墨の中でむなしく踊る。


やがて、奥から案内の声がかかる。


「紀州藩主、徳川吉宗殿――お通りを」


ゆっくりと立ち上がり、裃の裾を整える。



将軍綱吉の御前。


畳に両手をつき、頭を深く下げる。


「このたびは、上様におかれましてはご機嫌麗しく、ご壮健にてあらせられますこと、まことにお慶び申し上げます」


定型の挨拶が、口からすらすらとこぼれる。だがその裏で、胸の奥に熱が宿っていた。


すぐに本題を切り出す。


「……拙藩・紀州は、先の大地震により甚大なる被害を受けております。つきましては、この吉宗、国元に戻り、直ちに現地の復興指揮に当たりとう存じます。なにとぞ、お国入りをお許しくださいますよう、お願い申し上げます」


室内に、静寂が満ちた。


その沈黙の長さが、すでに答えを物語っているかのようだった――。


老中がひとつ咳払いをし、口を開いた。


「吉宗殿。お気持ちは痛いほどわかりますが……今、災害は紀州に限らず、日本各地に及んでおります。駿河も、土佐も、大きな被害を受けております」


将軍綱吉が重々しく頷いた。


「今は江戸にて、支援の調整と、政の均衡を保ってもらいたい。御三家の一角が動けば、各地の民心に与える影響は小さくあるまい」


その言葉に、吉宗はしばし沈黙した。


返す言葉がなかった。いや、言いたいことは山ほどあった。けれど、それは飲み込んだ。幕府に逆らえば、藩の名に傷がつく。


「……かしこまりました」


頭を下げ、吉宗は城を辞した。



江戸屋敷に戻ると、誰もがその表情から結果を察した。


「……却下だ」


ぼそりと漏らした言葉に、側近の加納久通が気遣うように声をかける。


「……殿。今は、仕方がございませぬ。いずれ……」


だが、吉宗は手を振った。


「分かっておる。幕府の言うことは正しい。民心の安定も、政の均衡も大切だ。だがな――」


その目が、にわかに険しさを増す。


「――日本のことは幕府がどうにかすればよい。だが、紀州のことは、我が責任であろうが」


拳が膝の上で強く握られる。


「こっちはこっちで、大変なのだ。家が潰れ、井戸が枯れ、食う物もない。死ぬか生きるかの瀬戸際だというのに、“均衡”だの“影響”だの……!」


その声は震えていた。怒りか、無力感か、あるいは――悔しさか。


「一刻を争うのだ……!」


吉宗は立ち上がり、奥へと歩き出す。


「もうよい。江戸に留まれというなら、ここからできる限りのことをする。物資を集め、人手を送り、知恵を絞って、紀州を救う」


「たとえ城に戻れずとも、我が民を、見捨てることなどできぬ」


その背に、家臣たちは深く頭を下げた。


藩主が、己の手で、民を救おうとしていた。


まだ若き吉宗。その瞳の奥に、すでに将たる者の光が宿りはじめていた――。

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