【第11章】それぞれの帰り道(前編)


 雨が止んだあとの帰り道は、いつも少し、静かすぎる。


 通い慣れた通学路。横断歩道。薄暗い街灯。

 靴の裏に残った水たまりの感触だけが、現実感をかすかに引き留める。


 なのに、心はずっと遠くにいた。


 何かを忘れた気がする。

 何かを置いてきた気がする。

 でも、それがなんだったのか、どうしても思い出せない。


 ――いや、ちがう。

 気づいてるのに、気づかないふりをしてるだけだ。


 彼は知っていた。

 帰りたくなかったのだ。あの家に。


 


 部屋に灯りはついていた。けれど、明かりがあるからといって、そこが“家”であるとは限らない。

 湊の知る“家”は、ただ帰れと言われる場所であって、迎え入れられる場所ではなかった。


 玄関を開けた瞬間、重たい空気が喉にまとわりついた。


「……何時だと思ってんの?」


 声は静かだった。けれど、その静けさが何より恐ろしい。


「十八時半過ぎてるでしょ。何度言えばわかるの? 門限って言ったよね?」


「……ごめんなさい」


「ごめんなさいじゃなくてさ、なんで破るのって聞いてんの。ねえ? 聞いてんだけど?」


 怒鳴られていないのに、全身が震えていた。

 昔からだった。静かに怒るときほど、母親は手加減をしない。


「外で何してたの? まさか……またあの漫画? ねえ、まだあんな“くだらないこと”に時間使ってるの?」


「……ちがう。今日は、ただ」


「“ただ”? “ただ”って何よ。ふつうに暮らせって言ってるだけじゃん。そんなに難しいこと言ってる?」


 言葉が、全部棘だった。

 否定もできない。肯定もできない。

 なにか言えば、また火に油を注ぐ。


「ほんとにさ……誰に似たのか、あんたは」


 それだけを吐き捨てて、母親は台所へと戻っていった。

 夕飯は置いてあった。でも、口をつける気にはなれなかった。


 彼は音を立てないように部屋へ戻り、布団にくるまった。

 そのとき、頭の奥で声がした。


 ――“出ようよ、もう。こんなとこ”


 


 


 ◆  ◆  ◆


 


 翌日、ひよりは朝から何かに胸がざわついていた。


 窓の外は晴れていた。風もやさしい。

 だけど、胸のどこかで、風が立っていた。


 昨日、湊が「誰かと向き合いたい」と言っていた言葉。

 あの目は、本当だった。


 でも、その目の奥には、まだ“影”が残っていた気がする。


「……変だな。あの子が、来てない……?」


 教室の席。誰も座っていない。

 先生が「体調不良」と言ったけれど、ただの風邪に見えなかった。


 “なにか”が、始まっている。

 そう感じて、ひよりは無意識にスマホを握りしめていた。


 


 


 ◆  ◆  ◆


 


 伊吹は、昼休みに湊の家へ向かった。

 もともと、湊が母親とぶつかるときのことは、ある程度予測していた。


 何度も見てきた目だ。

 自分が言える立場ではないけれど、それでも、黙ってはいられなかった。


 インターホンを押しても、返事はない。

 だけど、2階のカーテンが揺れていた。


 ……いるな。間違いなく。


「……おーい、湊。いるんだろ?」


 しばらく沈黙が続いたあと、小さく窓が開いた。


 そこにいたのは、無表情の湊だった。

 表情が、ない。けれど、目だけが異様に赤かった。


「……もう、やめたいんです。全部」


「おい、話聞けよ。やめるってなんだよ、なあ――」


「俺、もう、だれかと一緒にいるのが……しんどい」


 伊吹は息を飲んだ。


 その一言は、彼が最も恐れていた未来だった。


 


 


 ◆  ◆  ◆


 


 夜。

 空気が不安定に揺れる中で、部屋の奥から――声がした。


 「タスケテ」


 それは彼の声ではなかった。

 それでも確かに、“彼”の中から聞こえた。


 「タスケテ……」


 痛みと、哀しみと、絶望と。

 すべてを濁した声だった。


 


 ――これが、“ユメ”の声だった。

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