第24話 ペルンへ向かう旅路

◆《夜明けの誓い ― ペルンへ向かう旅路》◆


 夜が明けた。


 灰色の空にかすかに朱が差し、鳥の声が宿の屋根を越えて聞こえてくる。ぬくもりだけが残った寝台の上で、ジュアンドは静かに目を覚ました。


 隣にいたはずのミゼリアは、すでに起きていた。窓辺で、朝焼けの光をぼんやりと見つめている。彼女の銀の髪が、光を受けてほのかに輝いていた。


「……目、覚めた?」


 振り返ったミゼリアの声は、昨夜とはどこか違っていた。震えも、戸惑いもない。だが、その代わりに静かな決意が宿っている。


「ああ。……少し、寝すぎたかもな」


 ジュアンドは、上体を起こし、ゆっくりと立ち上がった。昨夜のことが夢ではなかった証のように、彼の胸には、微かに涙の痕が残っていた。


「ミゼリア。昨夜のことだけど――」


「言わなくていい」


 彼女がふと、唇に人差し指を当てた。


「全部、胸の奥にしまっておく。……それでいいわ」


 彼女のその強がりに、ジュアンドは静かに微笑んだ。もうこの女は、自分のことを“壊れた兵器”だとは思っていない。少なくとも、今の彼の前では。


「……でも、一つだけ。今のままだと、お前は“ギルド”に殺される。黙ってはいられない」


「うん。わかってる」


 ミゼリアは、小さく頷いた。


「隷属の魔術。心臓に刻まれた呪印は、あれは……解けるものなの?」


 その問いに、ジュアンドは短く考え込むと、ゆっくりと答えた。


「完全にはわからない。でも、かつてエルフの里で、“契約呪術”について詳しいエルフが“公都ペルン”に住んでいると聞いたことがある」


「公都……ペルン」


「ああ。この公国の都だな、“知”の街ともいわれている。王族や貴族だけじゃなく、魔術師、学者、呪術士、あらゆる者が集う都。魔法の都とも呼ばれている。そこなら浄化できるかもしれない……可能性がある」


 ミゼリアは息を呑んだ。


 ペルン――それは彼女のような人間にとって、どこか遠く、神話のように語られる場所だった。力なき者が最後に頼る知恵の砦。そして、絶望した者が道を見つけるための、終着点。


「……行ける、かな」


 その呟きは、風に消えてしまいそうなほど小さかった。


「俺と一緒なら、行ける」


 ジュアンドの言葉は迷いがなく、力強かった。


「呪いを解いて、“暗殺ギルド”の束縛からお前を解放する。……それが、今の俺のやるべきことだ」


 ミゼリアは、しばらく黙って彼の瞳を見つめていた。まるで、本当に信じていいのかを確かめるように。そして、ゆっくりと頷いた。


「……うん、ありがとう。ジュアンド」


 彼女がそう言った瞬間、窓の外で鳥が一声、朝の合図を告げた。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 数日後――。


 二人は徒歩で、ペルンへ向かっていた。


 道は整備されてはいたが、泥濘と岩が散らばる旅路だった。だが、ミゼリアは驚くほど落ち着いていた。村を焼かれ、裏切られ、奴隷にされ、暗殺者に育てられた彼女が、今は平凡な旅人のように、ゆっくりと風景を眺めている。


「……見て、ジュアンド。ひまわりが咲いてる」


 二人の前には、小さな農村が広がっていた。夏の陽光を浴びて、ひまわりの黄色がまばゆく咲いている。


「あんなに高く伸びるんだな。俺の知ってる花の中でも、あいつは……前を向いてるって感じがする」


「前を向く、か」


 ミゼリアはその言葉を噛みしめるように繰り返した。


「……私も、前を向けるようになるかな」


「なるさ。……いや、もう向いてる。昨日までのお前は、そんな花に目を向けることすらできなかったんだろ?」


 その言葉に、ミゼリアはくすっと微笑んだ。


「……やっぱり、あんた、変な人ね」


「そうか?」


「ええ。だって普通、暗殺者に殺されかけて、それでもその人を助けようなんて、思わないわ」


 ジュアンドは肩をすくめた。


「でも、お前は“もう殺さない”って決めただろ?」


「……うん。もう、誰も殺したくない」


 その小さな言葉の中には、強い決意と、償いの覚悟が込められていた。


 ◇ ◇ ◇


 ペルンの街が、遠くに見えたのは、それからさらに三日後だった。


 丘の上に広がる巨大な城壁都市。石造りの街並みに、魔導灯が明るく灯っている。高台には、白い尖塔のような学術院がそびえ、そこから光が空へと伸びていた。


「……あれが、ペルン……」


 ミゼリアは息を呑んだ。その景色は、まるで空想の世界そのものだった。


 人間と魔族、賢者と罪人、すべてが交わり、共に生きる都市――ペルン。


「ここなら、きっとお前を救ってくれる術を知る者がいる。そうだろ?」


「……うん」


 ミゼリアは、そっと頷いた。


 そして、二人は関所を抜け、夕暮れの石畳を踏みしめながら、都市の門をくぐった。


 この街で待ち受けているものが希望か、それともさらなる試練かは、まだ分からない。


 だが確かなのは、ふたりの間に結ばれた絆が、すでに新たな旅路を支える力になっているということだった。


 ──夜の鎖は、少しずつ解けはじめている。



◆《束の間の安らぎ ー ペルンの夜、ふたりの灯》◆


 ペルンの夜は静かだった。


 昼間の喧騒が嘘のように収まり、石畳を踏む音すらも柔らかく聞こえる。灯籠に灯された魔導の明かりは、まるで星屑のように街並みに散りばめられ、旅人や市民をやさしく照らしていた。


 ジュアンドとミゼリアは、城壁の内側にある古い宿に腰を落ち着けていた。名前は《百合の羽根亭》──歴史ある建物で、木の梁と石壁が年月を語り、柔らかなラベンダーの香りが漂う落ち着いた宿だ。


 「……ようやく、一息つけたわね」


 ミゼリアが浴衣に身を包み、窓際に腰掛けながら呟く。


 その声音には、幾日ぶりかの安堵が含まれていた。緊張の旅路。恐怖、告白、そして希望。あまりにも濃密だった数日間の感情がようやくほどけ、今、彼女の顔には柔らかい表情が戻っていた。


 「お前がこうして落ち着けてるなら、ここに泊まった価値はあるな」


 ジュアンドは、寝台の脇に置かれた水差しから二つの杯に水を注ぎ、一つをミゼリアに手渡す。


「ありがとう……」


 彼女は両手で受け取り、一口、冷たい水を口に含んだ。


 ふと、窓の外に目をやると、ペルンの街並みが淡く揺れている。高台の学術院から放たれる白光が、空へと静かに立ち昇り、夜の帳に消えていった。


 「ねぇ、ジュアンド……明日から、冒険者ギルドで動くんだよね?」


 「そうだ。ペルンのギルドは、魔術系の依頼や情報が豊富らしい。きっと“隷属の呪印”についても何か掴める」


 「……そっか」


 言葉少なに頷くミゼリアの瞳には、微かな揺らぎがあった。


 ジュアンドはそれに気づき、静かに立ち上がると、窓辺にいる彼女の隣に腰を下ろした。


 「……怖いか?」


 ミゼリアは、少しだけ俯いて答えた。


 「うん……怖い。解けなかったらどうしようって。わたし、また誰かを殺さなきゃいけなくなるかもしれないって」


 ジュアンドは、何も言わずに彼女の手をそっと握った。


 その手は、驚くほど冷えていた。けれど、彼女自身が気づかぬうちに震えていた指先が、ジュアンドのぬくもりに触れると、次第に落ち着いていく。


 「大丈夫だ。俺が、お前を殺し屋になんて戻させない」


 ジュアンドの声は低く、けれどどこまでも確かだった。


 その言葉に、ミゼリアは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


 彼は、信じられる。


 その確信が、恐怖をわずかに押し戻してくれる。


 「……ねぇ、ジュアンド」


 ミゼリアは、ジュアンドの手を引きながら、寝台の方へと歩いた。


 「今日は、何も考えたくない。ただ、あなたのそばで、あたたかいものに包まれていたいの……」


 彼女の声音は、かすかな願いに満ちていた。


 ジュアンドは黙って頷くと、彼女を腕の中に引き寄せた。


 ランプの明かりが柔らかく揺れ、二人の影を重ね合わせる。


 ミゼリアの浴衣の襟元から、すべすべとした肌がのぞき、彼の指先がそっとそこに触れる。彼女は一度、小さく息を飲んだが、拒みはしなかった。


 「……まだ、傷が残ってるな」


 「うん……昔の訓練のときに、いっぱい切られて、打たれて……でも、今はもう痛くないの。あなたが触れてくれたら」


 その言葉に、ジュアンドの瞳が少しだけ細まる。


 「……だったら、忘れさせてやる。今日だけは、全部」


 そう言って、彼はゆっくりと唇を重ねた。


 ミゼリアの吐息が漏れ、指先がジュアンドの背へと絡まる。


 重ね合う肌の温度、互いの鼓動が響く音。外の世界ではけして得られなかった、たしかな安らぎがそこにあった。


 やがてふたりは、ただ求めるままに互いを抱きしめ、言葉ではなく感覚で伝え合う時間に沈んでいった。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 夜が更ける。


 寝台の上、シーツにくるまったミゼリアは、ジュアンドの胸に頬を当て、まどろむように目を閉じていた。


 「……不思議ね。あんなに人を信じられなかったのに。今は、あなたの胸の音を聞いてると……眠れる」


 「よかった。これからは、毎晩でも聞かせてやるよ」


 「ふふ……調子のいいこと言って」


 ミゼリアは小さく笑ったあと、ふっと真剣な表情になった。


 「ねぇ……あなたがいてくれたら、きっと、わたしは変われる気がする。だから、どうか、もう少しだけ……そばにいて」


 「もちろんだ。お前が望む限り、俺はお前のそばにいる」


 その言葉に、ミゼリアはそっと頷き、目を閉じた。


 ジュアンドは静かに彼女の頭を撫で、ぬくもりの中で共に眠りへと落ちていった。


 夜は深く、けれど、どこまでも穏やかだった。


 ふたりにとっての長い旅路の中で、ほんのひとときだけ訪れた、平穏の夜。


 明日になれば、再び現実が彼らを呼び戻すだろう。


 だが今だけは――どんな呪いも、過去の傷も忘れて。


 ふたりのぬくもりだけが、この世界の真実だった。


 そして、ペルンの夜が静かに明けていく。

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