第13話 脱出(2)
部屋のドア越しに、エリーズとイルザが階段を降りていく音に耳を澄ませていたアドリアーナは、心の中で、エリーズに詫びた。
(エリーズ先生、ごめんなさい)
昨夜、アドリアーナが塔の外で出会った、軽い身のこなしで夜の闇に消えた青年。
(手段を、見つけたかもしれない)
アドリアーナの心は決まりつつあった。
幼い頃から、何も知らないアドリアーナにたくさんのことを教えてくれたエリーズには、感謝してもしきれない。
しかし、この計画をエリーズに告げることはできなかった。
アドリアーナは心の中で、深く詫びる。
(わたくしは、忌みの塔から抜け出すわ)
塔を出て、宮殿も出て、平民の少女として、どこかの町で暮らそう。
自分の力で生きていくのだ。もう、誰も期待しない。
アドリアーナは部屋の中を見回して、わずかな荷物を集め、荷造りをした。
荷物は多くない。
着替えのドレスを一枚。
小さなタオルとヘアブラシ。
エリーズがくれたきれいな表紙の付いた日記帳も入れた。
もったいなくて、まだ何も書いていないものだ。
バッグは持っていないので、それらを小さな袋に入れた。
同時に外の世界でどうやって暮らすか、アドリアーナは考え始める。
「平民の服がいるわ……ドレスを入れたけれど、外の世界では着られないかもしれないわ。後で揃えるしかないわね。それに、行き先を考えなければ」
宮殿があるのは、王都。
王都は人が多いとエリーズから習った。
仕事も多いだろうけれど、宮殿から近すぎる。万が一、捜索の手がかかったら、簡単に見つかってしまうのではないか。
「それに物価が高いとエリーズから聞いたわ。お金……お金をどうしよう?」
アドリアーナは、お金はまったく持っていないのだ。
「王都は危ないわ。郊外へ行きたいけれど、どうやって郊外へ行けばいいのかしら。馬は乗れないし、馬車を雇うお金もない」
アドリアーナはエリーズから教わった知識を総動員して考え始めた。
「邪眼を使えば———」
そうつぶやいて、ふるふると頭を振る。
「ダメよ! ひ、人をだますのはよくないわ。お金のために邪眼を使うなんて!」
そうは言ったものの、ではどうすればいいのか、アドリアーナにはわからなかった。
「何か売るもの———なんて、ないわね……」
脱出の準備をしよう。
そう思ったものの、実際はこんな感じで、なかなか準備は進まなかったのだった。
***
その日の夜。
夜になり、静まり返った忌みの塔の最上階。
開け放された窓からするりと室内に滑り込む人影があった。
顔も目の下から布を巻いて隠し、黒一色の服を着た男は、音もなく部屋に降り立つ。
しかし、ため息とともに、男はつぶやいた。
「アドリアーナ……」
部屋の中央、窓に向かって、茶色のドレスを着た少女が、静かに立っていた。
アドリアーナは静かに口を開いた。
「あなたのお名前を、うかがっていませんでした」
「レイヴンだ」
男が答えた。
「
「そうだ。黒い髪をして、黒い服を着ているからだろう。そう名乗るように言われた」
男は肩をすくめる。
「おまえはアドリアーナ王女だな? 昨日は、どうやって塔の外に出た?」
「この塔には、召使いの少女がいます。彼女にお願いしたら、出してくれました」
アドリアーナの言葉は答えとしては成り立っている。
しかし、レイヴンにとっては、何かおかしい、という感覚がぬぐえない。
アドリアーナに頼まれたから、召使いの少女がドアを開けた?
幽閉中の王女を塔の外に出した?
『忌みの塔に幽閉されている王女を暗殺せよ』
それは造作ない仕事になるはずだった。
相手は無力な小娘。王家に生まれたものの、忌み嫌われている存在。
誰も彼女を守らない。
何の力もない、無力な存在なのだから。
(本当に、そうなのか?)
うす茶色の奇妙なメガネをかけ、気配を消しているはずのレイヴンに気づいてしまう少女。
出られるはずのない塔から抜け出すことができる少女。
(王女は幽閉中の身。塔の外に出ることは許されていないし、少女が自分で塔の最上
階から地上に降りることができるはずはない)
レイヴンは背中に手をやり、短剣を抜く。
(早めに始末すべきだ)
レイヴンの短剣を見たアドリアーナは、悲しそうにうつむいた。
レイヴンの正体を悟ったように、見えた。
———暗殺者。
それはアドリアーナを亡き者にしようと、決意した人間がいることを示している。
アドリアーナはゆっくりとメガネを外した。
「ごめんなさい———でも、他に手段がないのです」
「!?」
レイヴンの頭の中で警告が鳴る。
塔に忍び込んだ暗殺者、レイヴン。
レイヴンの目の前で、空間が歪んだように、感じられた。
アドリアーナの赤い眼が、レイヴンをまっすぐに見つめる。
頭の中にアドリアーナの声が響く。
『わ た く し を た す け て』
***
アドリアーナは眠っていた。
古びた長家の一角。
部屋の中にあるたったひとつのベッドは小さく、片側に傾いていた。
アドリアーナはベッドから落ちないように、無意識にベッドの真ん中へと体を動かした。
そこにあった温もりが心地よくて、自分の体を寄せる。
アドリアーナは、夢を見ていた。
黒髪に、異国者らしい、濃い色の肌をした青年。
初めて見る容姿の男だ。
音もなく塔に忍び込み、隠した短剣でアドリアーナの命を奪うこともいとわない。
しかし、不思議とアドリアーナに恐怖感はなかった。
アドリアーナはもっと恐ろしいものを知ったから。
それは、血のつながったアドリアーナを忌みの塔に幽閉できる、実の父と兄。
アドリアーナについて平気で嘘の主張をする、義理の母と姉。
王女として人並みに政略結婚の役に立とう、という願いも潰えた。
政略結婚とはいえ、絵姿で見た隣国の王子は美しい容姿で、初めて実物の彼を見た時には、胸が高鳴った。
しかし———。
黒づくめの男、
エリーズが持ってきてくれた王国史にあった、王国の守り神、
『ワタリガラスと邪眼の王女』という伝承はエリーズと何度も読み返した。
『
『だって。
エリーズにそう言った自分の声が聞こえる。
あの時、エリーズはちょっと困ったような表情をして、話題を変えてしまった。
(あなたが
アドリアーナは夢の中で思った。
(きっとわたくしを外の世界に連れて行ってくれる)
長屋のレイヴンの部屋。
鍵もかけていないドアが開き、軽い足音がぱたぱたとして、まっすぐに寝室に向かった。
ためらうこともなく、寝室のドアが開けられる。
そして。
「きゃあぁあああああああああ!?」
「何だ!?」
若い女の悲鳴に、ベッドに寝ていたレイヴンはがばっと起き上がった。
視線の先には、寝室のドアを開けて硬直している赤毛の娘の姿があった。
「ヴィー? おい、勝手に俺の部屋に入るなと何度も———」
「レイヴン!! あんた、何をやっているの!? その子は何!?」
「はあ? おまえ、いったい何を———」
呆れて受け流そうとしたレイヴンに向かって、赤毛の娘はビシ!! っと指を突きつけた。
赤毛の娘———ヴィヴィアンの視線をたどると、質素なベッドに、自分に身を寄せるようにして眠っている少女がいた。
「!?」
レイヴンは今度こそ本気で仰天した。
「うわっ!? おまえ、いったい誰だ!?」
思わず壁に張り付き、ミルクティ色の髪をした少女を凝視していると、長屋の外では、ヴィヴィアンの大きな声が響いていた。
「お母さん、お父さん、大変よ、レイヴンが若い女の子を連れ込んでる!!」
ガッシャン!! と派手な音がして———おそらく鍋か何かを床に落としたのだろうが———何しろ、長屋だけに音はよく響くのだ———ドタバタと自分の部屋に向けて駆け込んでくる足音がした。
「…………」
レイヴンは諦めて床の上から古いシャツを拾い上げると、裸の体に引っ掛け、音を立てずにベッドから降りた。
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