第8話 婚約破棄(3)
ついにその日がやってきた。
グランデルマール王国のイグレシアス王子が、婚約者であるアドリアーナを迎えに来たのだ。
隣国とはいえ、馬車での長旅。
王子の乗る王家の紋が入ったきらびやかな馬車のほかに、護衛を務める騎士の一団、召使い達の乗る馬車、さらに何台もの荷馬車が続き、まるでグランデルマール王国の国力を示すかのように豪華な車列だった。
イグレシアス王子を出迎えるために、宮殿の正玄関ではチャールズ国王、ベアトリス妃、モーリス王子、イライザ王女が並んだ。
しかし、アドリアーナの姿はない。
チャールズより、出迎えには参加せず、その日の夜に開かれる歓迎晩餐会の席で王子に挨拶するように言われていたからだ。
「これはこれはイグレシアス王子殿下! 遠路はるばる、ようこそお越しくださいました!」
チャールズが機嫌よく王子を出迎える。
「これは側妃のベアトリス、将来の王太子であるモーリス。そして第一王女のイライザです」
イグレシアスは絵姿そのままの、彫りの深い顔だちに、優美な物腰の男だった。
いや、男性にしては、いささか優美すぎるかもしれない。
太陽のように輝く金髪はくるくるとした巻き毛。男性らしく短めに揃えてはいるが、大きな青い瞳と併せ、かなり人目を引いた。
歓迎のために詰めかけた宮廷貴族達はざわめき、貴婦人達は頬を赤く染める。
如才なくチャールズとベアトリス、続いてモーリスと挨拶を交わしたイグレシアスは、イライザに目を留めた。
「これはなんと。まるで咲き誇るバラの花のような!! イライザ殿、我が婚約者の姉君ですな。姉妹揃ってこの美しさとは、チャールズ陛下、なんとも羨ましい」
イグレシアスは満面の笑みでイライザの手を取ると、そっと撫でた。
「あなたの金茶色の髪はとてもお美しいですね。太陽の光が当たって、キラキラしていますよ。それになんとなめらかな肌だ。いやぁ、スターリング王国の誇る美しい王女二人、いっそのこと、お二方とも国へお連れしたいところです」
イグレシアスの言葉に、チャールズがわはは、と声を合わせて笑う。
その一方で、モーリスはかすかに眉をひそめる。
イライザは口角を上げた。
(……噂どおりの、女好きの軽い男ね。これなら可能性があるわ)
イグレシアスがイライザの手に口づける前、礼儀を外さない程度にじっくりと、イライザの開いたドレスの胸もとからのぞく膨らみを鑑賞していたのに、イライザは気がついていた。
その日の夕方、晩餐会のために着替えたイライザは、会場に向かう前に、アドリアーナの部屋に立ち寄った。
「はい」
ノックの音に侍女のノラがドアを開けると、イライザは言った。
「アドリアーナに話があるの。あなたは席を外して。どこかに行ってちょうだい」
ノラは息を呑んだ。
「イライザ王女殿下……で、でも……今、王女殿下のお支度をしているところでございます……この後、晩餐会が」
「聞こえなかった? 外しなさい」
イライザはノラを押しのけるようにして、部屋に入った。
珍しそうに部屋の中をぐるりと見回す。
「まあ。あなた、こんなところで暮らしていたのね。お母様もあんまりだこと。これではメイド部屋じゃないの。ほんと、あなたって我慢強いというか。感心するわ……」
イライザはくすりと笑って、アドリアーナを見た。
アドリアーナはイグレシアス王子に贈られた布地で作ったドレスを着て、ドレッサーの前に立っていた。
「イライザ王女殿下、あの……」
アドリアーナが口を開こうとした時だった。
イライザは左眉をひゅ、と上げた。
「そう、新しいドレスを着て、晩餐会に出席しよう、というわけね。左手を見せなさい」
「え……!?」
アドリアーナが戸惑っていると、イライザは構わず、アドリアーナの左手を引っ張って、指先を持ち上げた。
アドリアーナの細い薬指には、指の幅くらいはありそうな、大きく、ころんとした透明に輝くダイヤモンドの指輪がはめられていた。
「婚約指輪をはめて、イグレシアス王子にご挨拶するつもり?」
「それは……指輪は先ほどカーター夫人が届けてくださいました。今夜はこの指輪を付けるようにと」
「あなたが晩餐会に出席するなら、ね」
「!?」
イライザは笑った。
「あなた、自分の姿がおかしいと思わないの? いくら立派なドレスを着たって、全然、似合ってない。その指輪だっておかしいわ。アドリアーナ、いいこと? あなたは気分が悪くなって、今夜の晩餐会には出席しないの」
アドリアーナは息を呑んだ。
「え!? そんなことは……国王陛下から出席するようにと命じられています」
「わたくしの言うことが、わからないの? アドリアーナ、本当に困った人ね。わたくしはあなたを心配しているのよ。あなたが恥をかかないように、助けてあげようとしているのに……」
そう言って、苦笑したイライザはそのままくるりときびすを返して、部屋を出て行った。
アドリアーナがイライザの言葉に困惑していると、イライザがドアの外に立つ護衛騎士に命じる冷たい声が、ドアの向こうで響いた。
「アドリアーナ王女殿下は、ご気分が悪いそうよ。ドアの鍵を絶対開けないでちょうだい。今夜は誰にも会いたくないんですって。ああ、大変だわ……お父様とイグレシアス王子殿下に、わたくしから説明をしなければ」
アドリアーナはドアに駆け寄った。
「イライザ王女殿下!! 困ります……お願いです、わたくしをここから出してください!!」
「アドリアーナ? まあ、心配しないでいいのよ。今夜はゆっくりお休みなさいね。あなた方、アドリアーナの侍女が来ても、入れてはだめよ。アドリアーナ、明日会いましょう」
「待ってください! イライザ王女殿下! イライザ王女殿下!!」
しかし、アドリアーナがどんなに叫んでも、ドアは開くことはなかった。
新しいドレスに着替えていたアドリアーナは、開かないドアの前で、呆然と立ち尽くしたのだった。
***
「……本当に、妹に代わって、心からお詫び申し上げますわ。イグレシアス王子殿下」
「イライザ王女殿下、どうぞお気になさらずに。アドリアーナ王女殿下はとても勉強家だと聞きました。繊細な気質でいらっしゃるのでしょう。まあ、大切な婚約者にお会いできなかったのは残念ですが、明日改めて対面できれば何の問題もありません」
宮殿の豪華な晩餐の後、ランタンの明かりが光を投げかける中庭に、二人の人影があった。
白の正装に身を包んだ背の高い男性が一人の婦人をエスコートしているようだった。
金茶色の髪に合わせた、大胆な金色のドレスがランタンの明かりにきらめく。
「……お優しいのですね、イグレシアス王子殿下」
淡く微笑んで、そう言ったのは、イライザだった。
「妹の婚約者があなたのようにお優しい方で、本当によかったですわ……。でも、そんなあなただからこそ、わたくし、心が痛いのです———」
イライザは体をひねって、うつむいた。
イグレシアスからは、ほっそりとしたイライザの首すじと、金色のドレスからのぞく豊かな胸が見えた。
「……イライザ王女殿下。何か、ご懸念でも……?」
イグレシアスの言葉に、イライザはわざとゆっくり時間をかけて正面に向き直ると、この金髪に青い瞳の、まるで彫刻のような青年を見つめた。
「わたくしは、恐れながら我が国の態度が、不誠実ではないかと心配しているのです。実は———実は、わたくしの妹、アドリアーナは赤い眼をしているのです。我が国では、赤い眼は、邪眼として恐れられています———見た者を不幸にする眼だと、言われているのですわ」
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