被災地の城跡紀行
かぼす田 千鳥
第1話 忘れられた葛西七騎
狐崎城にて
初めて岩手県釜石市を訪れたのは、東日本大震災からようやく二年が経った平成二十五年(二〇一三)の春。
陽が落ちかけた夕方の車窓に多くの更地が見え隠れして、なんとも言いようのない感覚がのしかかってくるなか、釜石港の近くまで車を寄せて北側を見ると、視界を遮るようなコンクリート擁壁が見えた。
そこが狐崎(きつねざき)城跡。
釜石港を北から見下ろす小山にあって、急峻な崖の上の尾根に細長い曲輪を置いた、古いタイプの山城である。
城跡としてはマニアックな部類になるのだろう、特に文化財指定されるわけでもなく、地元の風景の中に溶け込んでいる。
一方で、いまここは地域住民にとって非常に重要な場所に指定されている。「津波避難場所」である。
車を降りて小さなリュックを背負い、崖の隙間みたいな道から山へ入って細い谷筋をのぼってゆくと、途中に小さな稲荷の祠と城の由来を記した碑が建っている。
そこからもう少しのぼってみると視界がひらけ、眼下に釜石港が一望できた。
あの東日本大震災のとき釜石市を襲った大津波は、市が千二百億円もの巨費を投じて築いた湾口防波堤を破壊して、この崖のすぐ下にまでやってきた。その際、多くの住民がこの城跡にのぼって生き延びたと聞く。
凄惨な歴史をもつこの城跡は、四百年以上の時を経て人々の命をつなぐ場所となっていた。
狐崎城の築城時期は不明ながら、おそらくは室町時代の中期ごろ。
遠野の豪族・阿曽沼氏の配下で狐崎玄蕃という者が釜石方面に土着していたことから、一説にはこれが築城者ではないかとも云われる。しかしそれとて確かなことではなく、その後の沿革もほとんどわかっていない。
この城が突如として歴史に登場するのが慶長六年(一六〇一)七月。
〝天下分け目〟の関ヶ原合戦の翌年で、長かった戦乱の時代がようやく終息に向かいつつあるなか、荒谷肥後、鹿折信濃ら葛西氏の旧臣が狐崎城に立て籠った事件は「釜石一揆」と称される。
むろんこの場合の「一揆」は、竹槍と筵旗が思い起こされる江戸時代の農民一揆ではなく、甲冑で武装した地侍たちが徒党を組んで領主に楯突く、戦国時代の「一揆」である。
「釜石一揆」発生の報にいち早く反応したのは、領主である盛岡の南部家ではなく、南に境を接する仙台の伊達政宗だった。
政宗は家臣の中島信貞に軍勢を率いさせ、陸海から狐崎城を攻めた。寄手の数はわからないが、おそらく大きな兵力差があっただろう。攻防戦が繰り広げられたもののあえなく落城となり、城に籠っていた百六十一人は撫で斬り(皆殺し)にされたと伝わる。
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