第3話 1章:感情侵入の証明

小さな会議室を改修して作られた進路指導室は、どこか真新しい印象を与えた。

新しい塗装の匂いは、微かに接着剤のような刺激を含んでいる。

壁際には、大学入試の資料や赤本が整然と並べられていて、

空間としての目的が、無言のままに明確に主張されている。


部屋の中央には長机が二台。

互い違いに椅子が配置され、視線がぶつからないような距離感が保たれていた。

私はそのうちの一つに座り、対面には——真壁先生。

彼の背後の窓からは、やわらかな夕方の光が入り込んでいて、

季節が春の終わりに差し掛かっていることを、無言で告げていた。


外では部活動に励む生徒たちの姿が見えた。

帰宅部の私には、少々馴染みのない風景だ。

開けた窓からは、野球部のバットが空気を切る音、

掛け声、笑い声、その他、雑多な日常の断片が流れ込んでくる。


私はそのすべてを背景音として受け流しながら、手元のノートに記録を取り続けていた。

もちろん、質問も並行して。

対象は真壁先生。目的は——観測。

これは、先日交わした“約束”に基づいた行動だ。

感情を排し、冷静に対象を観察し、データとして蓄積する。

……少なくとも、そのつもりで私は臨んでいる。


「先生は、現在好きな人はいますか?」


私の問いに、真壁先生はわずかに目を見開いた。

やや唐突すぎたかもしれない。


——が、問題はない。


先ほどまでの質問で、すでに客観的な情報や定量的なデータの収集は完了している。

この場で得たいのは、より主観的で、数値化が難しい“準定性データ”。

要するに、感情や価値観に関する情報だ。


私の研究テーマは『恋愛』。

恋愛を語る上で、対象者の現在の恋愛感情について聞くのは、ごく自然なプロセスである。

たとえそれがプライベートな内容であろうと、事前に協力の了承は得ている。

その約束に基づき、観測対象としての責務を果たしてもらわねば困る。


もちろん、観測対象の秘密は守る。

倫理的配慮も、研究における重要項目のひとつだ。


「君は……その、観測対象にいつもそんな質問してるの?」

真壁先生は、困惑と戸惑いの混ざった声で訊いた。

「協力を申し出てくれた者に限りますが、はい。全員に同一の質問をしています」

「じゃあ、今までに男の観測対象はいるのか? 同級生とか」

「男性対象としては、叔父が一名。

ただし、叔父は例外的すぎて、標本としての信頼性に欠けます。

同級生男子に関しては……残念ながら、協力を得られたことは一度もありません」


私の返答に、真壁先生は一瞬、ほっとしたような表情を浮かべた。

だがすぐに何かを考えるように口元に手を添え、

「特殊な……叔父?」

と、私の言葉を反芻した。


「そういえば、志乃原の叔父さんってどんな人なんだ?」

「“どんな人”という質問は曖昧で、定義が不明確です。

ですが、特徴という観点で述べるなら——

叔父は、恐ろしいほどの洞察力を持つ、人間観察の天才です」


「志乃原も、十分よく人を見てると思うけど……それ以上なのか?」

「比較になりません。私は叔父の足元にも及びません。

叔父の前では、どんな嘘も通用しない。

たとえ私でも、です」


真壁は「へぇ……」と、興味深そうな声を漏らした。

いや、違う。話が逸れている。

叔父の話など、今はどうでもいい。

この時間は貴重なデータ収集のためにある。

観測対象との雑談に割いている余裕はない。

——早く、本題に戻さなければ。


「それで、先生は現在、好きな人はいるんですか?」

「ああ……いないよ」


少し間を置いて、真壁は答えた。


「大人になるとね、明確に『好き』って感じるほど、感情が大きく動くことは少なくなるんだよ。

君たちの、その若い感性が羨ましいくらいだ」

「なるほど。では、現在お付き合いしている方はいらっしゃいますか?」


……沈黙。

返答が遅い。私はノートから顔を上げると、ちょうど真壁と視線がぶつかった。

彼は、わずかに口角を上げている。

その表情には、見覚えがある。

——三年前にも見た、“私を楽しんでいる顔”。


「どうかな? 俺に恋人がいると思う?」

「わからないから質問しています。答えてください」

「じゃあ、質問を変えよう。

もし“元彼”に恋人がいたら、君はショックを受ける?」


……本当に厄介な男だ。


「私の主観は観測に関係ありません。取るに足らないノイズです」


そう返したが、彼の意図は明白だった。

三年前と同じ。

私の観測を妨害し、イラ立たせようとしている。

そして、私の反応を楽しんでいる。


だが、私はもう、あの頃の未熟な観測者ではない。

この三年、私は感情の排除を徹底してきた。

主観というノイズを徹底的に排し、観測対象の行動・言動だけを正確に記録することを心がけている。

もはや、感情の入り込む余地など存在しない。


「早く、質問に答えてください」


私は努めて冷静にそう言った。

真壁はふっと息を吐き、椅子の背にもたれかかった。

深く腰を預けるその姿勢は、彼がリラックスしたときに見せる典型的な動作だ。

ようやく、私の観測に協力する気になったらしい。


「今、付き合ってる相手ならいないよ」

「恋愛対象は女性ですか? 男性ですか?」

「女性。同性愛に偏見は無いけど、俺は違うかな」

「好きになる女性の身体的特徴の傾向はありますか?」

「特に無いな。外見より一緒にいて楽しいのが一番だと思う」


真壁は、ふざけることなく私の質問に答えている。

これは良い傾向だ。

観察対象が茶化さずに応答する場合、比較的正確な情報が得られやすい。

このまま進めば、必要なデータが揃うのも時間の問題だろう。

 

観測が完了すれば、私は結果をまとめて真壁に提示し、関係を終了させる予定である。

教師と生徒が人目を忍んで恋愛観測を行うなど、倫理的にも印象は良くない。

ましてや、私と真壁は元恋人。

今や彼は私の担任教師であり、私は彼の教え子である。

奇妙な関係だ。観測が長引けば、リスクも増す。

よって、これは速やかに終わらせるに限る。


私は、感情を交えずに質問を続けた。

感情とは往々にして、観測の精度を曇らせる最大の要因だ。


「真壁先生は、女子高生に性的興奮を覚えますか?」

「覚えません。……って何この質問。昔は無かったよね?」

「真壁先生用に、最近追加しました」

「あー……そうですか」


数日前、彼が私の連絡先を嬉しそうに見つめていた場面を観測した。

その行動が仮説の発端である。

すなわち、

《真壁が女子高生に対して性的倒錯を抱いている可能性がある》

という仮説だ。

 

しかし、この質問に対する返答から、仮説は否定された。

あるいは――虚偽の可能性もあるため、引き続き観察が必要である。

私は、そうノートに記載した。

『※回答に虚偽の可能性あり。調査継続の必要性。』


「では、過去の恋愛についてお聞きします。現在に至るまでお付き合いした方の人数は?」

「それは……内緒。前にも言ったと思うけど」

 

確かに、同じ質問は三年前にも行っている。

当時は答えを引き出せなかった。

今回も結果は同じ。失敗である。

 

悔しいが、観測対象には質問に『答えない』という選択肢も認められている。

無理に引き出そうとすれば、嘘をつく可能性が高くなるためだ。

あくまでも正確なデータが優先される。

 

私は内心の落胆を抑え、表情ひとつ変えずに質問を続ける。

 

「では、先生の過去の恋愛で、最も長く続いた関係は?」

「そんなことも聞くの?」

「はい。過去の傾向も現在の予測に重要です」


真壁は一瞬、視線を左上に向けたかと思うと、すぐに俯くように目を伏せた。

人は記憶を辿るとき、無意識に左上を見ると言われている。

彼の動きは、「答えを見つけたが、それを言葉にすることに迷っている」――

そんな印象を受けた。

やがて、真壁は口を開いた。

声色が少しだけ低い。

彼が本音を語るときの、特有の変化だった。



「……君との一週間が一番長いよ」



その瞬間、思考が停止した。

外から聞こえていた生活音はすべて消えた。

音のない空間に、私と真壁だけが取り残されたようだった。

なぜだか、彼から目を離せない。

……また、私で楽しもうとしている?

しかし、先ほどの声色は確かに本音の特徴を示していた。

だとすれば、今の発言は――事実ということになる。

 

頭が働かない。

理解が追いつかない。


「……ご冗談、ですか?」

「本当だよ。誰かとちゃんと向き合ったのは、あの時だけだった」


彼の言葉が胸に残り、手帳に書き留めようとしていた仮説が霞んでいく。

思考の領域に、感情が浸入する。

期待。不安。喜び。後悔。

嬉しい。寂しい。緊張。歓喜。

それらがノイズのように押し寄せて、思考の解像度を落とし、

理性の声を、かき消していく。

 

観測に最も不要な情報――

それは、私の感情だ。


感情に左右されては、観測者失格である。

今すぐ記録を取らなければ。

私はノイズを押しのけるように意識を集中し、冷静さを保とうと自分に命じた。

 

だが、指先が震えてペンが動かない。

喉が渇き、体の奥からじわじわと冷えが広がっていくのを感じる。

 

真壁と私の間に、長い沈黙が降りた。

空気は重く、呼吸すら苦しく思えるほどだった。

この状態で、まともな観測は成立しない。

私は、ペンを素早くペンケースに戻した。


「ご協力ありがとうございました。本日の観測は、ここまでとさせて頂きます」

「もういいの? まだ質問項目が残ってるように見えるけど」


真壁は、机上の質問リストの紙を指さした。

それは私が昨夜、下書きとして用意していたものだ。

彼の口角が少しだけ上がっている。

あの顔が嫌いだ。見ているだけで腹が立つ。

私は慌ててノートとペンケースを通学カバンに押し込み、立ち上がった。

 

「申し訳ありませんが、今の私は観測に耐えうる状態ではないようです。これで失礼します」

「感情が入った記録は、信頼性に欠ける?」


机に頬杖をついた真壁と目が合った。

彼は、言っているのだ。

“あの時の手紙”のことを。

 

つまり――

『こんな簡単に感情に左右されるなんて、お前は観測者としてまだ未熟だ』

――そう言いたいのだろう。

 

腹が立つ。

何よりも、真壁の言う通りなのがさらに腹が立つ。

私は揺るがされたのだ。

真壁の言葉に。感情に。

そして今、観測不能と自己判断し、逃げ出そうとしている。

真壁の余裕ある表情が、今はとても憎たらしい。

 

「お先に失礼します。“お優しい真壁先生”」

 

嫌味を込め、語気を強めて言った。

私だって、嫌味のひとつやふたつ言える。

そう思いながら冷たく睨みつけると、真壁はヒラヒラと手を振った。

 

「ああ、また明日な。“志乃原”」

 

ニヤニヤと笑う真壁に背を向けて、私は教室を出た。






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