第2話 1章:書けなくなった男

俺は、小説を書くのが好きだった。



子どもの頃から本ばかり読んでいた。

活字に溺れるみたいに、ページをめくっては物語を吸い込んだ。

真似事みたいに、自分でも書いた。

小学校のコンクールで賞を取った。

人に褒められる感覚を、あのとき初めて知った。

知ってしまった。



それからも書き続けた。

でも、芽は出なかった。

あのときの快感は、どんどん遠ざかっていった。



俺は、小説を書くのが好きだった。



生活のため、教師になった。

安定した収入、社会的な肩書き。

忙しくて、書く時間は減った。

それでも、書いた。


すると、一作が賞を取った。

書店に並ぶ俺の本。

夢を見た。

プロになった。

金も入った。

教師を辞めた。



俺は、小説を書くのが好きだった。



書いて、書いて、書きまくった。

でも、売れなかった。

プロの水準にすら届かない。

編集に言われた。



「もっと流行りに合わせて」

「売れる作家を真似して」

「デビュー作みたいなものをもう一度」


俺は、書いた。

言われた通りに。

でも、どこまでも暗かった。

真っ暗な水の中を必死に泳ぐみたいに、書いた。

いつの間にか、自分がどこにいるのか分からなくなった。

何を書いているのかも分からなくなった。



俺は、小説を書くのが嫌いになった。




――――――――――


夜の公園は、都合がいい。

くたびれた無職がベンチで酒を飲んでいても、誰も気にしない。

いや、そもそも誰もいない。

ブランコとベンチしかない、小さくて寂れた公園。

不良も寄りつかない。

不審者に怯える必要もない。

なぜなら、自分がその不審者だからだ。


最後の缶を飲み干して、背もたれに頭を預ける。

夜空を見上げると、ほろ酔いの視界に滲む星が寒々しい。

肺に流れ込む空気が乾いていて、冬が近いのを思い出させた。


コンビニ帰りに通るだけの、小さな公園。

酒なんて家で飲めばいいのに、それさえ待てない。

アルコールで感覚を鈍らせていないと、現実を直視できない。

「何も考えない」をするために、酒を入れる。

それだけの毎日だった。



……あの時までは。



微かな足音が砂利を踏む。

音が近づいてきても、俺は視線を夜空から逸らさなかった。

どうでもいい。

酒で麻痺させた頭で、何も考えたくない。

頼むから放っておいてくれ。


「すみません。そこの方」


声が耳を打つ。

仕方なく顔を向ける。

街灯に照らされた黒ずくめの女が立っていた。

頭を起こして見ると、喪服だと分かる。

酒のせいで視界が霞む。


女にしては背が高い。

赤い口紅がやけに目立つ。

大学生くらいだろうか。

真剣な目を向けてくるが、どこか落ち着いている。

胸元に抱えたノートとペン。

場違いなほど清楚な見た目なのに、甘ったるい香水の匂いが漂っていた。


「私と、交際という意味で、お付き合いしませんか?」


しばらく黙った。

夜の公園で飲むのは、もうやめよう。

不審者は、俺だけじゃなかった。


「あー……分かった。何かの詐欺か?」

「違います」

「じゃあ、あれか。YouTuberの企画?

“道行く不審者に告白してみた”とか」

「ゆーちゅーばー……とは何ですか?」


女は小さく首を傾げた。

困惑したような顔。

でも、目は真剣そのものだ。

どうやら本気で分からないらしい。

今どき、そんな奴がいるのか。


俺は言葉を失った。

軽口を叩く気力も削がれる。

女は胸元に抱えていたノートをゆっくりと差し出した。

その表紙を俺に見せつけるように。

達筆な文字が目に入る。


『恋愛研究ノート vol.2』


……俺はしばらく読んだまま黙った。


「私は恋愛について研究しています。

ご協力、願えませんでしょうか?」


夜の公園に響く声は落ち着いていた。

真剣で、妙に真面目だった。

馬鹿馬鹿しいはずなのに、笑う気力が出なかった。

缶を握った手にアルミの薄さが痛い。

俺は、どんな顔をしていたんだろう。

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