第4話 蝉が鳴かない、ただそれだけで


目が覚めたとき、部屋の中が妙に静かだった。

 蝉の声が、しない。

 それに気づいた瞬間、ぼんやりしていた意識がすっと澄んで、布団の中で息を止めた。

 耳を澄ませても、窓の外からは何の音もしない。ただ風が網戸をすり抜ける音と、部屋の柱がきしむような音だけ。


 昨日まで、うるさいほど鳴いていたのに。

 耳にこびりつくような、あの蝉時雨がぱたりと途絶えた。

 どうして今日は、こうも静かなのか。

 窓から差し込む光はまだ夏そのものなのに、空気の感触がすこしだけ違っていた。


 窓辺では、猫が寝ている。

 ひなたの部分に半身を乗せて、長いしっぽを畳み、顔だけを影の中に沈めている。

 名前を呼ぶと、しっぽが一度だけ、床を叩いた。

 それだけで「生きてるよ」と言いたいらしい。

 私が起きても気にする様子もなく、また寝返りをうって、陽の中に溶けていった。


「……今日、静かすぎるよ」

 そうつぶやいた声が、思ったよりもはっきり部屋に響いた。


耳の奥に、鳴いていた記憶の音がかすかに残っていた。

 それをなぞるようにまぶたを閉じるけど、風の音が静かすぎて、思い出せなくなる。

 猫が、ひとつ伸びをして、背を丸めたあと、またぺたりと伏せた。

 窓の外では、洗濯物の影がゆっくり揺れている。

 夏はまだいるのに、音だけが抜けてしまったみたいだった。


猫と一緒に過ごす朝は、いつもこんなふうに静かだ。

 だけど、今日の静けさは少し違う。

 音がないだけじゃなくて、胸の中まで風が吹き抜けているみたいだった。


昼前、私は猫を連れて外に出た。

 リードを嫌がらないこの子と散歩するのは、夏になってからの習慣だった。

 道路の端に残る水たまりが、ゆっくり蒸発していくのを見ながら、坂をくだる。

 風が吹くと、葉の影が舗道に揺れて、猫の耳がぴくりと動いた。


 公園には、誰もいなかった。

 ブランコが空のまま揺れて、鉄の軋む音だけが風に混ざっていた。

 蝉の声は、やっぱりどこにもなかった。

 その代わり、鳥のさえずりが少しだけ聞こえて、それもすぐ静かになる。


 猫は草むらに顔を突っ込んで、なにかを探すふりをしている。

 私はベンチに腰を下ろし、首にかかった汗を手でぬぐった。

 日差しは強いのに、胸のあたりだけ涼しくて、うまく息が入らなかった。


 去年の今ごろも、ここに来た。

 彼と二人でアイスを食べながら、「蝉って羽化したては白いんだよ」なんて話をした。

 そのとき、耳をつんざくような蝉時雨が鳴いていて、

 「声が聞こえないってば」って、彼が笑っていた。


 今、そのベンチの隣に、猫がちょこんと座っている。

 まるで、そのときの空白を埋めるみたいに。

 もう聞こえない声。

 でも、風が通った瞬間、一瞬だけ、それが戻ってくる気がした。


 私は床に座って、麦茶の入ったグラスを両手で包む。

 猫はそのすぐ隣で、あごを床につけたまま、ゆっくりまばたきしていた。

 テレビも音楽もつけてないのに、時間だけは進んでいく。

 目に入る光の角度が変わっていくのが、それを教えてくれる。


 ふと、スマホを手に取って、去年の写真フォルダを開いた。

 ちょうどこの時期、セミの声がうるさくて眠れなかった頃の、

 彼との写真が数枚、指の下に現れる。


 最後の文化祭の帰り道、駅前のベンチで買い食いしてたときの写真。

 猫を膝に乗せた私を、彼がふざけて盗撮したやつ。

 その時も、蝉がずっと鳴いていて「うるさいなあ」って笑ったっけ。


 あのときは、きっと伝えられると思ってた。

 でも、言えなかった。

 言葉って、出そうとするとすぐ遠くに行ってしまうんだ。


 猫が小さく伸びをして、私の膝に前足をちょん、と乗せた。

 「戻っておいで」って言われたような気がして、スマホの画面を閉じた。

 そのしぐさが、やけにやさしくて、胸の奥がきゅっとした。


スマホの画面を閉じたまま、私はしばらく動かなかった。

 去年の写真たちは、もう更新されない。

 でも、削除する気にもなれなかった。

 音のない時間の中で、猫が私の膝に前足を乗せる。


「……帰ろうか」

 そう言って立ち上がると、猫はそれを待っていたかのようにくるりと向きを変えた。

 リードを軽く引くと、ちょうどいい歩幅で並んで歩き出す。

 風が背中から吹いてきて、木の葉がさらさらと鳴った。


 公園を出たあと、細い路地を抜けると、

 空の青さがビルの隙間からのぞいていた。

 その空に、ほんのわずかに、蝉の声が混じった気がした。

 本当に鳴いたのか、風の音にまぎれただけかはわからない。

 でも、私はそのまま歩みを止めなかった。


「また、鳴くかもね」

 私がつぶやくと、猫が小さくしっぽを振った。

 まるで返事のように。

 まるで、何かが終わっても、また巡ってくるように。


 玄関の前で、猫は先にくるりと身体をひねり、足拭きマットの上で座った。

 私はその背中を見ながら、ひとつ深く息を吐いた。

 蝉の声は、今日もないかもしれない。

 けれど――それでいい気がした。


部屋に戻ると、風の抜けた跡がそのまま残っているようだった。

 カーテンの裾が揺れていて、朝よりも影が長い。

 猫はいつもの場所に戻って、くるりと丸くなる。

 私はその隣に座って、麦茶の残りを口に含んだ。


 静けさは、もう寂しくなかった。

 蝉が鳴かないことも、誰もいない公園も、更新されない写真たちも。

 それらが全部、今ここに繋がっていると思えた。


 猫がひとつだけ、あくびをして、また目を閉じた。

 風鈴が遠くで鳴って、夏はゆっくりと、終わりに向かっていた。

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