第36話「桑都もののけ裁縫帖」
両親の魂が解放された瞬間、空亡を繋ぎ止めていた最後の枷が外れた。
その貌から人の形が失われ、体はどろりとした黒い液体のように崩れ落ち、本性を現した。それは、もはや特定の形を持たない、トンネルの空間そのものを侵食する、巨大な漆黒の雲。意志も感情もなく、ただそこにある全てを飲み込み、無に帰すことだけを目的とした、純粋な「混沌」そのものの姿だった。
もはや特定の標的はない。空間ごと全てを無に帰すための、無差別の消滅攻撃が始まった。
ゴゴゴゴゴ、と地鳴りのような音を立て、岩盤が砕け散り、壁や天井が崩落していく。唯一の出口も、巨大な岩塊によって完全に塞がれ、一行は巨大な墓石の中に閉じ込められた、絶体絶命の状況に追い込まれた。
「うわっ!もう逃げ場がないよ!」
迫り来る混沌の濁流。それは、触れたもの全てを存在ごと消し去っていく、絶対的な虚無の波だった。紡は葵をかばいながら、必死にぬいぐるみたちで防御壁を築くが、その圧倒的な質量の前には、もはやなす術もなかった。
万策尽きたかと思われた、その時だった。紡は、懐にいる一体のぬいぐるみの、かすかな温もりを思い出す。それは、一人の少女の悲しみから生まれた、ささやかで、しかし確かな奇跡の力。
「お願い、レインコートの子!」
紡は、崩落した壁の隙間から染み出している、わずかな地下水に触れながら叫んだ。黄色いレインコートの女の子のぬいぐるみを、その地下水に浸す。すると、ぬいぐるみが淡い光を放ち、一行の足元に、水面が揺らめくような転移門が出現した。
混沌の濁流に飲み込まれる寸前、一行は門の中へと身を投じた。
◇
ザバッ!と激しい水音を立て、一行はトンネルから少し離れた川辺に、水しぶきと共に姿を現した。
冷たい川の水が、火照った体を現実へと引き戻す。
「はぁ、はぁ…助かった…あの子のおかげだね…!」
役目を果たしたレインコートの女の子のぬいぐるみを、紡は優しく撫でて懐へとしまう。しかし、安堵したのも束の間だった。
見上げた先、トンネルの方角から、山を揺るがすほどの地響きと共に、巨大な混沌の雲が空へと溢れ出してきた。それは、八王子の街全体を覆い尽くさんばかりの勢いで、空を黒く染めていく。
「いかん!このままでは、八王子ごと無に飲み込まれてしまうぞ!」
祖父の悲痛な声が響く。
その時、天へと昇っていったはずの両親の魂が、二筋の黄金の光となって、再び地上へと舞い降りてきた。それは、娘の覚悟に応え、最後の力を授けるための、親としての最後の愛情だった。
光は、紡の目の前で幾重にも絡み合い、美しい糸となり、布となり、やがて一枚の着物へと姿を変えていく。
それは、父の「強さ」を象徴する、剣道の防具を思わせる武骨で力強い文様と、母の「優しさ」を表す、かつて庭に咲いていた四季折々の花々の柔らかな柄が、完璧な調和をもって織り込まれた、見たこともないほど神々しく、そして美しい霊装だった。
「これぞ究極の【ものけ纏い】! 想いを、絆を、その身に纏うことこそが、我ら織紡師が目指す極致なのじゃ!」
祖父が、感極まった声で叫ぶ。
「お父さん、お母さん……」
紡がその着物を纏うと、彼女自身の霊力が爆発的に増大した。黄金のオーラが、傷つき倒れていた全てのぬいぐるみたちにも伝播し、彼らをより強力な強化形態へと進化させていく。鎧武者の鎧は白銀に輝き、僧侶の衣は七色の光を放ち始めた。
◇
戦いの舞台は、閉ざされたトンネルから、八王子の街の上空へ。
強化された仲間たちが、混沌の化身へと立ち向かう。鎧武者が振るう太刀は、混沌の触手を一刀両断にし、僧侶が展開する結界は黄金に輝き、街への被害を防ぐ堅牢な城壁となった。夜行さんが光の矢となって空を飛び回り、リザードマンの的確な指揮のもと、仲間たちが完璧な連携で紡を守り、攻撃の機会を創り出す。
これまでの戦いで積み重ねてきた全ての経験、全ての絆が、今、一つになっていた。
「紡! 核を狙え!」
祖父が叫ぶ。
「混沌の中心に、一際強く輝く歪みがあるはずじゃ! それが、奴の生命線じゃ!」
「あそこだ、紡ちゃん!」
葵が指差した先、混沌の渦の中心に、ひときわ暗く、全ての光を吸い込むような、宇宙の始まりにも似た歪みの核が確かに見えた。
仲間たちが、最後の力を振り絞って活路をこじ開ける。ほんの一瞬だけ、核への道が開かれた。
紡は、その一瞬を見逃さない。
彼女は、楽市で手に入れた特別な「砂磨き縫い針」に、一つ目小僧から餞別として貰った虹色の「霊糸」を通した。それは、この八王子の地で出会った、全ての縁の結晶だった。
(お父さんの強さも、お母さんの優しさも。おじいちゃんの知恵も、葵の勇気も。そして、私が出会った、全てのもののけたちとの絆も)
両親の想いをその身に纏い、仲間たちとの絆を力に変え、紡は感謝と、未来への祈りを込めた最後の一針を、混沌の核へと真っ直ぐに突き立てた。
「――さようなら」
その言葉は、憎しみでも、悲しみでもない。全ての過去を受け入れ、未来へと進むための、別れの言葉だった。
一針が核を貫くと、空亡は声なき断末魔を上げ、眩いほどの光の中へと霧散していく。夜を覆っていた混沌の雲は晴れ、八王子の街に、汚れのない美しい朝日が差し込み始めた。
役目を終えた着物は、再び二筋の光の粒子となり、優しく紡の体を離れて、朝の空へと消えていく。
全ての力を使い果たし、空から落ちていく紡。その体を、夜行さんに乗った葵が、空中でしっかりと抱きとめた。
「……終わったんだね、紡ちゃん」
「……うん」
眼下には、朝日に照らされ、いつもと変わらない日常を迎えようとしている、愛しい故郷の街並みが、どこまでもどこまでも広がっていた。
桑の都に、新しい朝が来た。
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