第34話「混沌の隧道、父母の貌」

 トンネルの中は、外の世界とは完全に隔絶された異空間だった。

 ひんやりとした湿った空気が肌にまとわりつき、一歩足を踏み入れるごとに、足元のコンクリートが「ぐにゃり」と粘土のように沈み込む。壁や天井は、まるで巨大な生物の内臓のように、ぬらりとした粘膜に覆われ、不気味な間隔でゆっくりと脈打っていた。その鼓動は、この空間そのものが生きていることを示している。

 闇の奥からは、無数の低い唸り声が聞こえてくる。それは、この世の全ての苦しみと憎悪を凝縮したかのような、聞く者の精神を直接蝕む音だった。


 一行が警戒しながら奥へ進むと、その音の主たちが姿を現した。空間の歪みから、這い出るようにして現れる、無数の餓鬼の群れ。彼らは飢えと渇きに歪んだ顔で、生者の魂を求め、一斉に襲いかかってきた。


「うわっ、すごい数!」


 葵が悲鳴を上げる。しかし、紡の瞳に、もはや怯えの色はなかった。


「……道を開けて」


 その静かな声が、混沌の空間に凛と響く。紡がぬいぐるみを投げると、ゴブリン軍団とリザードマンが実体化した。


「全軍、鶴翼の陣を形成! 敵の波を左右に受け流し、中央突破の活路を開け!」


 リザードマンの的確な指揮のもと、大量のゴブリンたちが強固な壁となって餓鬼の波を受け止める。その隙に、鎧武者が太刀を振るって敵を薙ぎ払い、突撃暴れ牛がその巨体で敵陣を粉砕していく。以前の苦戦が嘘のように、ぬいぐるみたちは完璧な連携で敵を掃討し、一行は難なくトンネルの最深部へと進んでいった。


   ◇


 トンネルの最深部は、競技場ほどもある巨大な空洞になっていた。その中央には、歪んだ岩が寄り集まってできた、禍々しい玉座のようなものがあり、そこに、首魁・空亡が静かに座っていた。

 その姿は、紡の記憶の中にある、最も幸せだった頃の両親の顔が、悪夢のように融合したかお。三つの目が、静かに侵入者たちを捉えている。その視線は、憎悪でもなく、喜びでもなく、ただ虚無だけをたたえていた。


 父の声で、言った。


「よく来たな、紡」


 母の声で、続けた。


「ずっと、待っていたわ」


 声が、文節ごとに切り替わりながら空洞に響き渡る。その音色は、優しく、懐かしい。だが、紡の心には、氷の刃となって突き刺さる。


「……その姿で、私の名前を呼ばないで」


 紡は、心の底からの憎しみを込めて、空亡を睨みつけた。

 空亡は、その憎悪を意に介する様子もなく、淡々と続ける。


 父の声で、「つれないことを言うな」

 母の声で、「お前は、我らが創る、悲しみも喜びもない、真に平等な新しい世界のための、最後の仕上げなのだから」


 父と母の声が、完璧なハーモニーとなって重なり合い、紡の覚悟を揺さぶる。

 そして、空亡はゆっくりと玉座から立ち上がった。最終決戦の幕開けだ。


 戦いが開始されると、空亡の貌が、父の顔優勢へと変化した。厳格だった父の目が、冷たい光を宿してカッと見開かれる。


「では、手ほどきをしてやろう」


 父の声でそう言うと、空亡は生前の父が得意とした剣道の動き――摺り足と、重く鋭い踏み込みで、一瞬にして紡の懐へと肉薄した。その手には、混沌の気が凝縮してできた、闇よりも黒い刀が握られている。

 鎧武者と突撃暴れ牛が、咄嗟に紡をかばうように前に出るが、空亡の振るう一太刀は、二体のぬいぐるみが持つ霊力の核を正確に捉え、その圧倒的なパワーで容赦なく弾き飛ばした。


「くっ……!」


 紡が体勢を立て直す間もなく、今度は空亡の貌が母の顔優勢へと変化する。優しかった母の目が、悲しげに潤んで見開かれた。


「ごめんね、紡。痛かったでしょう。でも、もう大丈夫。もう、頑張らなくていいのよ。全部、終わりにしましょう…?」


 母の声で、優しく、しかし心を内側から抉るように紡がれる言葉。それは、愛情を歪めた強力な呪詛となって、紡の心を直接折りに来る。僧侶のぬいぐるみが張った防御結界が、その精神攻撃に耐えきれず、ミシミシとガラスのような軋みを上げた。


 物理と精神、両面からの容赦ない猛攻。紡は必死にぬいぐるみたちを指揮して対抗するが、まるで熟練の棋士に手玉に取られるように、徐々に、しかし確実に追い詰められていく。

 空亡が、再び父の貌になり、混沌の刀を天高く振りかぶる。地蔵のぬいぐるみが身を挺してその一撃を受け止めるが、その一撃は地蔵の「身代わり」の概念そのものを砕き、首がぽろりと飛んでしまうと同時に、布でできた体は力なく崩れ落ちた。

 仲間たちが、一体、また一体と打ち倒されていく。そしてついに、空亡の刃が、全ての守りを失い無防備になった紡の喉元に、冷たく突きつけられた。


 父の声が、言った。


「終わりだな」


 母の声が、囁いた。


「おやすみ、紡」


 両親の顔をした敵を前に、紡の瞳から光が消える。張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。もう、戦えない。戦う意味が、分からない。

 彼女は、膝から崩れ落ちてしまった。戦意を、完全に喪失してしまったのだ。


 その、あまりにも絶望的な光景を見ていた葵が、涙を流しながら、喉が張り裂けんばかりに絶叫した。


「目を覚まして、紡ちゃん! それは紡ちゃんのお父さんじゃない! お母さんじゃない! 紡ちゃんが誰よりも一番よく知ってるでしょ! 思い出して! 一緒に笑ったことも、喧嘩したことも、全部全部! それが紡ちゃんの、本当のお父さんとお母さんなんだから!」


 葵の魂の叫びが、反撃の狼煙となって、混沌に支配された空間に、たった一つの希望の光として響き渡った。

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