第31話「工房の日常、思い出の残り香」

 白刃の理が去ってから数日。異形衆の動きもぴたりと止み、八王子の街には、まるで激しい嵐が過ぎ去った後のような、静かでどこか所在ないほどの平穏が訪れていた。

 工房の縁側は、秋の柔らかな日差しを浴びて、ぽかぽかと温かい。風が吹くたびに、庭の金木犀が甘く香り、ちりん、と風鈴が夏の終わりの名残を惜しむように鳴った。

 理が残した「全てを無に帰す」という言葉の、底知れない響きは、今も紡の心の隅に重くのしかかっている。けれど、目の前の穏やかな日常が、その不安を優しく包み込んでくれているようでもあった。


 紡は、一体のゴブリンのぬいぐるみを膝に乗せ、その少しほつれていた腕の部分を、黙々と縫い直していた。一針、また一針。その丁寧で迷いのない手つきは、仲間への深い愛情と、自らが歩むと決めた道への覚悟の表れでもあった。

 その隣で、葵が湯気の立つお茶をすすっている。


「それにしても、あの理って人、一体何がしたかったんだろうね。敵なのか味方なのか、さっぱり分かんないや」


「……分からない。でも、あの人の言っていたことも、きっとどこかで本当なんだと思う」


「うーん、難しいことは分かんないけどさ! とりあえず、今はこうしてのんびりできるんだから、いっか!」


 葵はそう言って、からりと笑った。その屈託のなさに、紡もふっと口元を緩める。

 不意に、紡はぬいぐるみを縫う手を止め、遠くを見つめるように呟いた。


「……葵」


「ん?」


「私、行こうと思う。ずっと、避けてきた場所に」


 その静かな決意を宿した声に、葵は茶碗を置いた。紡が見つめる先がどこなのか、彼女にはすぐに分かった。


「……もしかして、前に住んでたおうちのこと?」


 紡は、こくりと頷いた。


「うん。いつまでも、あのままじゃいけないから。ちゃんと、片付けなきゃいけない。私自身の、手で」


「オッケー! 大掃除なら任せて! 私、そういうの得意なんだから!」


 葵は、にっと力強く笑って紡の肩を軽く叩いた。その太陽のような明るさが、紡の背中をそっと押してくれた。


   ◇


 数日後、二人はかつて紡が両親と暮らした家の前に立っていた。

 初めてここを逃げ出した時、この家は息が詰まる記憶の牢獄だった。だが今、目の前にあるのは、ただ静かに主の帰りを待っていた、懐かしい我が家だ。不思議と、穏やかな気持ちでいられる。隣で、葵が「よーし、やるぞー!」と腕まくりをしているからかもしれない。

 古い鍵で玄関のドアを開けると、ひんやりとした空気と共に、埃と、微かに残る母が愛用していた柔軟剤の香りが、紡の鼻をくすぐった。


「よし、私は水まわりと台所を担当するね! 紡ちゃんは、自分の部屋とか、大事なものを!」


「……お願い」


 葵は、紡を過剰に気遣うでもなく、鼻歌まじりで手際よく作業を手伝ってくれる。その存在が、この家に満ちる重たい記憶の空気を、軽やかに、そして温かく変えてくれていた。


 自分の部屋だった場所で、段ボールに教科書や私物を詰めていく。一つ一つの物に触れるたび、忘れていた記憶が蘇るが、紡はもう目を逸らさなかった。クローゼットの奥、使い古した毛布に包まれるようにして、一冊の古いアルバムが置かれていた。

 そっと手に取り、埃を払って、そのページをめくる。

 色褪せることのない、幸せな記憶がそこにはあった。


 一枚目は、剣道着姿で、誇らしげに優勝の賞状を掲げる父の写真。その隣で、少し照れくさそうに笑う幼い自分。

(試合の日の朝、お父さんはいつも「勝っても負けても、自分流の戦いをするのが大事だぞ」って、私の頭を無骨な手で撫でてくれた。強くて、厳しくて…でも、本当はすごく優しい人だった)


 次のページには、庭で、自分と一緒にチューリップの球根を植える母の姿。その微笑みは、陽だまりのように温かい。

(「この球根が花を咲かせる頃には、紡も一つお姉さんになってるのよ」って。この温かい手で、裁縫の楽しさを、世界を彩る喜びを教えてくれたのも、お母さんだった)


 そして、最後のページは、七五三の写真。

 慣れない着物と草履が窮屈で、ぐずっていた幼い自分。その小さな手を、父と母が、満面の笑みで優しく引いている。あの時の、温かくて大きな手の感触が、今でもはっきりと蘇る。


 紡の瞳から、こらえきれなかった涙が静かに一筋こぼれ落ち、アルバムのページに小さな染みを作った。その肩を、いつの間にか隣に来ていた葵が、何も言わずに優しく抱きしめる。無理に言葉を探すでもなく、ただ寄り添ってくれる温もりが、紡の凍てついた心をゆっくりと溶かしていった。


「……行こっか」


「……うん」


   ◇


 思い出の詰まった段ボールを抱え、古民家に戻ってきた二人。しかし、工房の扉を開けた瞬間、その感傷はどこかへ吹き飛んだ。


「……な、なにこれ!?」


 工房の中は、得体の知れないガラクタの山で、足の踏み場もなくなっていた。

 『ラーメン一番』と書かれた錆びた看板、商店街の福引で使うガラポン、なぜか片方だけサイズの違う泥だらけの長靴。極めつけは、近所の家の物干し竿ごと持ち去られたのであろう、タオルや靴下まである。

 そのガラクタの山の頂上で、留守番をしていたゴブリンのぬいぐるみ達が、キラキラしたビーズの目で「どうだ!」と言わんばかりに胸を張っていた。


「わしが何度も止めたのじゃが、全く聞かなくてのう…」


 棚の上で、祖父ぬいぐるみが頭を抱えている。


「主への『お宝』の献上だと言い張って、目をキラキラさせおってな…」


 ゴブリンたちは、主である紡に喜んでもらおうと、それぞれが思う「お宝」を一生懸命に集めてきてしまったのだ。その純粋な(そして、とてつもなく迷惑な)善意を前に、紡と葵は絶句する。

 やがて、あまりの光景の馬鹿馬鹿しさに、紡の肩が小さく震え始めた。こらえようとしても、笑いが込み上げてくる。


「ふっ…ふふっ…あはははは!」


 紡が吹き出したのにつられて、葵もこらえきれずに大笑いした。


「あははは! なにこれ、もうめちゃくちゃじゃん! ラーメン一番って!」


 工房には、久しぶりに、心からの明るい笑い声が響き渡った。二人は涙を流しながら笑い、呆れながらもガラクタの山を片付け始める。その賑やかで、馬鹿馬鹿しいほどに温かい時間こそ、紡がずっと取り戻したかった「日常」そのものだった。


 夜。片付けが終わり、ようやく静けさを取り戻した工房。月明かりが差し込む窓辺で、紡は窓の外の闇を、静かに見つめている。胸には、アルバムで見た両親の笑顔と、今、隣で疲れ果てて欠伸をしている親友の顔、そしてガラクタを前に得意げだったぬいぐるみたちの顔が浮かんでいる。

 失った悲しみは消えない。けれど、その悲しみごと抱きしめて、今ここにある温かいものを、この手で守りたい。


「……守らなきゃ」


 誰に言うでもなく、しかし、これまでにないほど強く、固い決意を込めて呟いた。

 空亡との決戦に向け、紡の心の糸が、迷いなく一本に定まった瞬間だった。

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