第3話 病と過去と決意の始まり

 山の風は、朝よりも冷たくなっていた。


 薬草の影が長く伸び、空に沈む夕焼けが、薄紅色に畑を染めていく。ミリカは、指先についた土をそっと払うと、腰を上げた。いつもならもう少し作業を続けるのだが、今日は心がざわついている。


 気配の違い。それがずっと胸に引っかかっている。


 「ルナリエ、今日は早く家に戻るわ」


 灰色の山猫が、畑の端でこちらを見ていた。しっぽを一度だけ振ると、森の奥へ姿を消す。


 その姿を見送りながら、ミリカはつぶやいた。


 「……何かが変わってきてる」


 


* * * 


 


 家に戻ると、エリックは暖炉の前に座っていた。魔女の古い本を一冊、ひざに置いて。


 「読めたの?」


 「いや、ほとんど。呪文みたいな言葉ばかりで……でも、図解は興味深い。これ、植物の分類かな?」


 「それは薬草の相互作用を書いたページ。混ぜると毒になる組み合わせもあるわ」


 ミリカはカップに熱いお茶を注いで、エリックの隣に座った。


 しばらく静寂が続いた。


 薪がはぜる音と、風が戸を叩く音だけが部屋を満たす。


 


 やがて、エリックが口を開いた。


 「……ミリカ。僕がここに来た理由、話してもいいかもしれない」


 ミリカは眉を動かす。


 「聞いてもいいの?」


 「信じてもらえなくても仕方ない。でも、僕は嘘をつくのが得意じゃないんだ」


 その声に、いつもの軽さはなかった。


 エリックはカップを持つ指に力をこめた。


 


 「王国で、病が流行ってる。突然の発熱と咳、体力の消耗……原因もわからない。治療法もない」


 ミリカの手が止まる。


 「……その病、いつから?」


 「数ヶ月前から。最初は辺境の村だった。けど今は、王都の中にも広がってる。宮廷の医師たちも頭を抱えてるけど、対処できてない」


 ミリカの紫の瞳が、鋭く細まった。


 「植物由来?それとも、魔術的な影響?」


 「それがわからない。だから僕は、王都を出て、この山まで来た。昔、魔女がこの辺りに住んでいたという記録があって……何か、手がかりがあるかもしれないと思ったんだ」


 「それで、私のところに」


 「偶然だった。君の家があるなんて知らなかった。だけど、君の力を見て……本当に、ここに答えがあるかもしれないと思った」


 


 ミリカはしばらく黙っていた。


 言葉が、喉の奥で固まっていた。


 ――あの感覚。体の冷たさ。土に触れていると消える不安。


 もしかしたら、それも病の前兆なのかもしれない。


 


 「その病……人だけに広がってるの?」


 「家畜や鳥にも影響が出てるという話もある。特に、農村部では被害が深刻らしい」


 「農村部……」


 ミリカの瞳がふるえた。


 彼女が育ててきた薬草の多くは、風や鳥を介して受粉する。ということは、自然そのものが汚染され始めているのかもしれない。


 


 「もし、私の力が役に立つなら」


 ミリカは立ち上がった。カップをテーブルに置き、戸棚の中から古い包みを取り出した。


 乾いた葉、すり潰された種、粉末状の根……一つ一つ、慎重に選ぶ。


 「なにを……?」


 「簡単な治療薬を作るわ。まずはあなたに渡す。症状を遅らせる程度のものになるけど……村で誰かに試してみて。効果があれば、改良できる」


 「……ありがとう、ミリカ」


 エリックの声は低く、真剣だった。


 彼は立ち上がり、彼女の背中を見つめた。


 


 「君がここにいた理由が、今はっきりわかった気がするよ」


 「なにそれ、宗教っぽいわね」


 「違うよ。ただ、君が……この世界に必要な人間だって思ったんだ」


 


 ミリカの手が一瞬止まった。


 それから、彼女はほんのわずかに笑った。


 


 「必要とされるの、悪くないかもね。でも、勘違いしないで。私はただ、植物の言葉が聞こえるだけ」


 「その“だけ”が、王国の希望かもしれないんだ」


 


 静かな部屋に、二人の言葉が溶けていく。


 夕暮れの光が差し込む窓の外、森の向こうでまた風が鳴った。


 遠くに、誰かの呼吸のような気配が、ほんのかすかに混ざっている。


 この山の自然が、なにかを警告しているように――


 


* * *


 


 その夜。


 ミリカは眠りにつけず、裏の畑を歩いていた。


 土に手を置くと、体の冷たさがほんの少し和らいだ。


 「……もし、これが私に流れる“呪い”のせいなら」


 紫の瞳が、月の光に照らされる。


 「でも、それでも。できることはある」


 かすかに、風が彼女の髪を揺らした。


 


 その風の中に――


 誰かの声が、微かに混じっていた気がした。


 「ミリカ……」


 ……誰?


 


 ミリカは振り返ったが、そこには誰もいなかった。


 ただ、月だけが、静かに空を見下ろしていた。

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