第三十二話:魂に灯す火
『遺物守り』の隠れ家である塔に戻った私たちは、残された時間がほとんどないことを痛感していた。
侯爵の体を蝕む毒は、彼の強靭な精神力と魔力によって、かろうじて進行を抑えられている。だが、その顔色は、時間の経過と共に、確実に悪くなっていた。
「……本当に、やるのだな」
塔の一室。侯爵は、寝台に腰掛け、静かに私に問うた。
その声には、私を案じる響きが、色濃く滲んでいる。
「はい。あなたを、死なせはしません」
私は、彼の前に、静かに膝をついた。
これから行うのは、禁書にのみ記された、究極の治癒魔法。
『
自らの寿命を、その魂の輝きを、他者へと分け与える――神の領域に踏み込む、禁断の秘術。
「……だが、その代償は、お前自身の命だ。私は、それを、許すわけには――」
「いいえ。これは、私が、望むことです」
私は、彼の言葉を、遮った。
「あなたと出会って、私は、初めて、生きていると、実感できた。誰かの道具としてではなく、一人の人間として、誰かを想い、誰かのために戦う、その喜びを知った。……あなたに救われたこの命、あなたのために使えるのなら、私に、悔いはありません」
私の瞳を見つめる、彼の藍色の瞳が、悲しげに、揺れる。
「……愚かな、娘だ。お前は」
「ええ。愚か者です。あなたという、不器用で、孤独で、そして、誰よりも優しい方に、恋をしてしまった、大馬鹿者です」
それは、私の、初めての、そして、最後の告白だった。
彼の瞳が、大きく見開かれる。驚愕と、そして、どうしようもないほどの、愛おしさが、その瞳の奥で、激しく渦巻いていた。
「……アリア」
彼は、震える手で、私の頬に、そっと触れた。
「私も……お前を……」
だが、彼は、その先の言葉を、紡ぐことはなかった。
代わりに、彼は、私の体を、強く、引き寄せ、その唇を、私の唇に、重ねた。
それは、今までのような、不器用で、探るようなキスではなかった。
彼の、全ての感情――後悔も、感謝も、そして、私への深い愛情も、その全てを、私に伝えようとするかのような、切なく、そして、激しいキス。
私もまた、彼に応えるように、その首に、腕を回した。
もう、言葉は、必要なかった。
二人の魂は、この瞬間、完全に、一つになったのだから。
やがて、唇が離れる。
私たちは、互いの額を寄せ合ったまま、しばらく、その温もりを、分かち合っていた。
「……侯爵様。始めます」
「……ああ」
私は、彼の胸に、そっと、両手を置いた。
そして、目を閉じ、意識を、自らの魂の、最も深い場所へと、集中させる。
そこにある、私自身の、生命の灯火。
それは、まだ、小さく、だが、温かく、燃えている。
私は、その灯火の一部を、自らの意志で、切り離した。
(……私の光よ。どうか、この人の、闇を、照らして)
祈りと共に、私は、その生命の光を、彼へと、注ぎ込んでいく。
温かい光が、私の手を通じて、彼の体の中へと、流れ込んでいくのが、分かった。
それは、彼の体を蝕む、冷たい毒を、浄化し、そして、消し去っていく。
同時に、私の体からは、力が、急速に、失われていった。
視界が、白く、霞んでいく。手足の感覚が、なくなっていく。
だが、心は、不思議と、穏やかだった。
愛する人のために、自らの全てを、捧げられる。その喜びが、私を、満たしていた。
「――もう、いい。もう、十分だ、アリア……!」
侯爵の、悲痛な声が聞こえる。
だが、私は、やめなかった。
彼の体から、毒の気配が、完全に消え失せる、その瞬間まで。
そして、ついに、彼の体から、最後の一片の闇が、消え去った。
その代わり、私の視界は、完全な、闇に閉ざされた。
最後に聞こえたのは、私の体を抱きしめ、何度も、私の名を叫び続ける、彼の、絶叫にも似た、声だった。
*
どれほどの時間が、流れたのだろうか。
私が、再び、意識を取り戻した時、そこは、見慣れた、塔の一室だった。
だが、私の体は、鉛のように重く、指一本、動かすことができない。
そして、何よりも、私の目は、何も、映してはいなかった。
ただ、果てしない、闇が、広がるだけ。
(……光を、失った……)
生命力を、分け与えた代償。
私は、視力を、完全に、失ってしまったのだ。
絶望が、私の心を、支配しようとする。
その時、私の手を、温かいものが、強く、握りしめた。
「……アリア」
侯爵様の、声。
「……聞こえるか、アリア」
「……はい。侯爵様」
私の声は、か細く、弱々しかった。
「すまない……。私が、お前を……」
彼の声は、後悔に、震えていた。
「謝らないで、ください。……これもまた、私が、選んだことです。……それに、不思議と、あなたの『声』が、以前よりも、ずっと、はっきりと、聞こえるのです」
そうなのだ。
視力を失った代わり、私の鑑定能力――遺物の声を聞く力は、以前とは比べ物にならないほど、鋭敏になっていた。
目を閉じれば、この塔にある、全ての遺物の声が、まるで、美しい音楽のように、聞こえてくる。
そして、何よりも、彼の心の声が。
彼の、私への、深い愛情が、言葉にしなくても、痛いほどに、伝わってくる。
「……アリア。私は、誓う。これからの、お前の光は、私が、なると」
彼は、私の手を、自らの頬へと、持っていった。
「お前の目は、私が、なる。お前の足も、私が、なる。……だから、どうか、私のそばに、いてほしい」
「……はい」
私は、涙を流しながら、頷いた。
「ずっと、あなたの、そばに」
私たちは、もう一度、固く、手を握り合った。
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