第十話:黒い噂と消えた少女

第二王子プラチド殿下の訪問から数日後、王都の社交界に、ある噂が流れ始めた。


『氷の侯爵、レイドン閣下は、魔女を屋敷に囲っている』

『その魔女は、人の心を読み、呪いを操る力を持つという』

『侯爵は、その魔女の力を使い、王家の転覆を狙っているのではないか』


悪意に満ちた、根も葉もない噂。

だが、その噂は瞬く間に広がり、尾ひれがついて、レイドン侯爵の名声を貶めるには十分な威力を持っていた。発信源は、考えるまでもなくプラチド殿下だろう。彼は、私という存在を公にすることで、侯爵を牽制し、孤立させようとしているのだ。


「全く、子供じみた嫌がらせを……」


書斎で報告を聞いた侯爵は、忌々しげに舌打ちをした。だが、その表情には焦りの色はない。この程度のことで揺らぐ彼ではないのだろう。


「アリア、気にするな。噂など、いずれ消える」

「ですが、私のせいで、侯爵様にご迷惑が……」

「貴様のせいではない。これは、私と奴との闘いだ。貴様は、巻き込まれたに過ぎん」


彼はそう言って、私を気遣ってくれた。だが、私の心は晴れなかった。私がここにいなければ、彼がこのような中傷に晒されることもなかったはずだ。


その日の午後、私は気分転換を兼ねて、書庫の整理を手伝っていた。

膨大な遺物と書物を、系統別に分類し、目録を作成する。学芸員だった前世の血が騒ぐ、没頭できる仕事だった。


「アリア様、少し休憩になさっては? お茶をお持ちいたしました」


執事のセバスチャンが、銀の盆にティーセットを乗せてやってきた。彼の淹れる紅茶は絶品で、私のささやかな楽しみの一つだ。


「ありがとう、セバスチャン。……あなたは、長くこのお屋敷に?」

「はい。先代の侯爵様……閣下の御父上の代から、お仕えしております」

「では、侯爵様の妹君のことも……」


私は、ずっと気になっていたことを、思い切って尋ねてみた。

私の問いに、セバスチャンは少しだけ悲しそうに目を伏せた。


「……ええ。エリアーナお嬢様のことは、今でも昨日のことのように覚えております。閣下とよく似て、聡明で、そして、とてもお優しい方でございました」


セバスチャンは、ゆっくりと語り始めた。


「お嬢様も、あなた様と同じお力をお持ちでした。ですが、そのお力を誰にも理解されず、ずっとお一人で苦しんでおられた。……そして、ある日、自らのお力を制御できなくなり……」


彼は、言葉を詰まらせた。その先を、私は聞くのが怖かった。


「先代の侯爵様も奥様も、お嬢様を深く愛しておられましたが、その特殊なお力をどう扱ってよいか分からず、ただ戸惑うばかりでした。唯一、お嬢様の理解者であったのが、若き日のレイドン閣下でございます。ですが、閣下もまた、お嬢様を救うことはできなかった……。あの日以来、閣下は心を閉ざし、今の『氷の侯爵』になられたのです」


彼の話を聞いて、私はレイドン侯爵の抱える深い悲しみと、私に対する過保護なまでの執着の理由を、改めて理解した。彼は、私に亡き妹の姿を重ね、今度こそ救いたいと、必死にもがいているのだ。


「アリア様。どうか、閣下のおそばにいて差し上げてください。あなた様だけが、閣下の凍てついた心を溶かすことのできる、唯一の存在なのかもしれませぬ」


セバスチャンの切実な願いに、私はただ、黙って頷くことしかできなかった。


その夜、私は悪夢にうなされた。

遺物の記憶ではない。私自身の、忌まわしい過去の記憶だ。王立遺物研究所で、所長や同僚たちから「呪われた娘」と罵られ、蔑まれる日々。その記憶が、社交界の黒い噂と重なり、私を責め苛む。


(私は、魔女……。人を不幸にする、呪われた存在……)


飛び起きた時、頬は冷たい汗で濡れていた。

窓の外はまだ暗く、静寂だけが部屋を支配している。


(……少し、風に当たろう)


心を落ち着かせるため、私はそっと部屋を抜け出し、夜の庭園へと向かった。

月明かりに照らされた庭は、幻想的で美しい。だが、私の心を覆う闇を払うには至らなかった。


その時、庭の茂みの中から、微かな話し声が聞こえてきた。

こんな夜更けに、誰だろうか。

私がそっと茂みに近づくと、そこにいたのは、昼間に見かけた若い庭師と、一人のメイドだった。二人は、人目を忍ぶ恋人同士のようだ。


だが、彼らの会話の内容は、甘い愛の囁きではなかった。


「……本当に、やるのか?」

「ええ。あの方の命令よ。あのお嬢さん……アリアとか言ったかしら。あの子を、今夜中に屋敷から連れ出すの」

「だが、侯爵閣下に見つかったら……」

「大丈夫よ。閣下は今夜、急な呼び出しで王宮へ向かわれたわ。これは、絶好の機会よ」


私は、息を呑んだ。

彼らは、私を誘拐しようと計画している。おそらく、プラチド殿下の手の者だろう。


(逃げなければ……!)


私が後ずさった瞬間、足元の小枝が、ぱきり、と乾いた音を立てた。


「誰だ!?」


庭師の鋭い声。

見つかった。私は咄嗟に身を翻し、屋敷へと駆け出した。


「待て!」


背後から、二つの足音が追いかけてくる。

どうしよう。侯爵様はいない。セバスチャンやリヒトも、今はそれぞれの部屋で眠っているだろう。大声を出しても、誰かが気づいてくれる保証はない。


私は、無我夢中で走り続けた。

向かう先は、ただ一つ。あの、書庫だ。

あそこにある遺物の力が、あるいは、私を助けてくれるかもしれない。


書庫の重い扉になんとか辿り着き、懐から鍵を取り出す。震える手で鍵を開け、中へ転がり込むように入ると、すぐに内側から錠をかけた。


「おい、開けろ!」


扉の向こうから、庭師の怒鳴り声と、扉を叩く鈍い音が響く。

この扉も、長くは持たないだろう。


私は、暗い書庫の中を見渡した。

月明かりが、窓から差し込んでいる。その光に照らされて、数多の遺物が、静かに私を見つめていた。


(助けて……)


心の中で、私は祈った。

その時、書庫の奥、あの『禁書』が置かれた一角から、ふわり、と青白い光が放たれた。


光に導かれるように、私は禁書へと近づく。

あれほど禍々しい気を放っていたはずの書物は、今はただ静かに、まるで私を待っていたかのように、そこにあった。


『……力を、望むか……?』


頭の中に、直接、声が響いた。それは、男とも女ともつかない、古く、そして深い声。

禁書の「声」だ。


扉が、ミシミシと嫌な音を立て始める。もう、時間がない。


私は、覚悟を決めた。

このまま捕まるくらいなら、この禁断の力に賭けるしかない。


私は、震える指を、ゆっくりと、禁書の黒い表紙へと伸ばした。

これが、正しい選択なのか、分からない。

だが、もう、後戻りはできなかった。


扉が蹴破られるのと、私の指が禁書に触れるのは、ほぼ同時だった。

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