第五話:天秤亭の新たな日常
レイドン侯爵の馬車で『追憶の天秤亭』に送り届けられてから、数日が過ぎた。
マクベイン子爵は侯爵の庇護のもと、王都内の安全な場所に身を隠しているという。そして、私と同じく事件に巻き込まれたカレルは、なぜか私の店の常連客となっていた。
「いやはや、アリア殿。あの一件以来、どうにも落ち着かなくて。あなたの顔を見ると安心するのです」
カレルはそう言って、私が淹れたハーブティーをすすっている。彼は仕立て屋の仕事の合間を縫っては、こうして私の店に顔を出すようになった。彼が持ってきてくれる珍しいお茶菓子や、裏社会の奇妙な噂話は、単調だった私の日常にささやかな彩りを加えていた。
「しかし、驚きましたな。まさか、あのアリア殿が、あの『氷の侯爵』閣下と繋がりがあったとは」
「……仕事上の、関係です」
「ほう。仕事、ですか」
カレルは意味ありげににやりと笑う。私は慌てて付け加えた。
「彼は、私の能力を必要としているだけです。それ以上でも、それ以下でもありません」
「なるほど。ですが、閣下から頂いたというその腕輪、ただの装飾品には見えませんな」
カレルが指さしたのは、私の左手首にはめられた、細い銀の腕輪だった。
あの日、侯爵に送り届けられた際、「これを着けていろ」と渡されたものだ。
『これは、魔除けの護符だ。多少なりとも、遺物の呪いや悪意ある者から、貴様の身を守るだろう』
そう言った時の、彼の不器用な優しさを思い出してしまい、私は顔が熱くなるのを感じた。
「……お守り、だそうです」
「これはこれは。それはそれは、大切になさらないと」
からかうようなカレルの視線から逃れるように、私は窓の外に目をやった。
すると、店の前に見慣れない少女が一人、こちらを窺うように立っているのが見えた。歳は十歳くらいだろうか。みすぼらしい服を着て、手には古びた人形を抱きしめている。
私が視線に気づくと、少女はびくりと肩を震わせ、逃げるように去っていこうとした。
「……お待ちになって」
私は、思わず声をかけていた。
少女の抱える人形から、微かだが、悲しい「声」が聞こえた気がしたからだ。
私の声に、少女は足を止めた。そして、おずおずと振り返る。その瞳は、何かにおびえ、深く傷ついているように見えた。
「その人形、少し見せてもらえませんか?」
私は、できるだけ優しい声で話しかけた。
少女はしばらく躊躇っていたが、やがて諦めたようにこくりと頷き、私の店の中へ入ってきた。
「この子……病気なの」
少女は、小さな声でぽつりと呟いた。
差し出された人形は、布製で、ところどころが擦り切れ、綿がはみ出している。ボタンでできた目は、片方が取れかかっていた。
「お母さんの、形見なの。でも、最近、この子の声が聞こえなくなっちゃって……」
少女の瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
私は人形を受け取り、そっと両手で包み込むように触れた。
流れ込んできたのは、やはり悲しい記憶だった。
――病で床に伏せる母親が、最後の力を振り絞って、この人形を縫っている。愛する娘を一人残していく無念と、娘の幸せを願う、切ないほどの愛情。「私が死んでも、この子があなたを守ってくれるからね……」と、母は娘に人形を手渡す。
しかし、記憶はそれだけでは終わらなかった。
――母親が亡くなった後、少女は父親の再婚相手である継母から、酷い虐待を受けるようになる。食事もろくに与えられず、些細なことで殴られ、罵倒される日々。少女が唯一心を許せる相手は、母の形見であるこの人形だけだった。しかしある日、継母がその人形を見つけ、少女の目の前でハサミで切り刻もうとする。「こんな汚い人形、捨ててしまいなさい!」と。
「……この子は、病気なんかじゃありません」
私は、涙をこらえる少女の目をまっすぐに見つめた。
「この子は、あなたを守ろうとして、悪い人から受けた傷を、全部その身に引き受けてくれたのです。だから、声が出せなくなってしまった。……でも、この子の心は、今もあなたのそばにいます。『大丈夫よ、私がついてるわ』と、そう言っています」
それは、私が視た母親の記憶と、人形の記憶が紡ぎ出した、真実の声だった。
「ほんと……? お母さん……」
少女は、わっと声を上げて泣き出した。それは、今まで溜め込んでいた悲しみと孤独を、全て吐き出すかのような泣き声だった。
私は、取れかかったボタンの目を、持っていた針と糸で丁寧に縫い付け、はみ出した綿を詰め直し、破れた部分を繕った。完璧とは言えないが、少しだけ元気を取り戻したように見える。
「さあ、もう大丈夫。この子は、これからもあなたを守ってくれます」
私が人形を手渡すと、少女は泣きじゃくりながら、何度も「ありがとう」と頭を下げた。
「一件落着、ですな」
いつの間にか隣で成り行きを見守っていたカレルが、満足げに頷いた。
私は、少女が何度も振り返りながら去っていく後ろ姿を見送りながら、胸の中に温かいものが広がるのを感じていた。
遺物の声を聞くことは、苦痛ばかりではない。こうして、誰かの心を救うことだってできるのだ。
私が、この『追憶の天秤亭』を開いた意味が、少しだけ分かった気がした。
だが、そんな穏やかな感傷に浸る時間は、長くは続かなかった。
その日の夕暮れ時、店の扉が乱暴に開かれたのだ。
入ってきたのは、レイドン侯爵の従者だった。しかし、彼のいつも冷静な表情は焦燥に歪み、その腕には、ぐったりとした侯爵の体を支えていた。
「アリア殿! 侯爵閣下が……!」
侯爵の白いシャツは、おびただしい量の血で赤黒く染まっていた。その脇腹には、深く刺されたであろう剣の傷。彼は意識を失い、その顔は死人のように青白い。
「いったい、何が……!」
「過激派貴族の隠れ家を急襲した際に、待ち伏せに……。敵の剣には、毒が塗られていました。王宮の侍医では、この毒を解することはできぬと……!」
従者の悲痛な声が、店の中に響く。
私は、血の気が引くのを感じた。レイドン侯爵が、死にかけている。
あの、不器用な優しさを見せてくれた彼が。
「……奥へ。寝台に寝かせてください」
私は、震える声を必死で抑えつけ、従者に指示を出した。
このままでは、彼は死ぬ。
私に医術の心得はない。だが、この毒がただの毒ではないことだけは、直感で分かっていた。
彼の体からは、マクベイン子爵の屋敷で感じたのと同じ、遺物の呪いに似た、冷たく禍々しい気が発せられていたのだ。
この毒を解く鍵は、きっと、何らかの「遺物」に関係している。
私にしか聞こえない「声」が、その答えを知っているはずだ。
私は、彼の命を救うため、自らの精神が壊れる危険も顧みず、その毒の「声」を聞く覚悟を決めた。
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