追放された魔女

第一話:氷の侯爵と声なき声

呪われた王冠に指が触れた瞬間、私は再び記憶の奔流に呑まれた。


――玉座に座る、孤独な王の姿。誰にも愛されず、信じることのできる者もいない。彼の心を蝕むのは、王冠に宿る先祖たちの怨念と、絶え間なく響く裏切りの囁き。王は日に日に衰弱し、やがて自らの手で毒杯を煽り、苦しみ悶えながら息絶える。その最期の瞬間まで、彼の瞳には深い絶望の色だけが浮かんでいた。


「……っ!」


あまりに強烈な絶望の記憶に、私は思わず王冠から手を離し、激しく咳き込んだ。喉の奥から鉄の味が込み上げてくる。鑑定の代償だ。他人の死を追体験すれば、私の身体もまた死に近づく。


「……見えたか」


レイドン侯爵が、感情の読めない声で問う。

私はぜえぜえと荒い息を繰り返しながら、何とか顔を上げた。侯爵の藍色の瞳が、値踏みするように私を見つめている。


「先代国王は……病死ではございません。自ら、命を……」

「毒か」

「はい。ですが、そう仕向けたのは、この王冠です。この遺物には、王家代々の負の記憶が凝縮されています。これを長く戴く者は、心を蝕まれ、自滅へと導かれる……呪いの品です」


私の言葉に、侯爵は眉ひとつ動かさない。まるで、その答えを初めから知っていたかのように。


「なぜ、それを報告しなかった。王立遺物研究所の鑑定士として、その危険性を察知していたはずだ」

「報告は……いたしました。ですが所長は、それを『根拠のない妄想』として握り潰し……」


そして、あの国宝『夜明けの宝珠』に触れさせた。あの宝珠は、この王冠の呪いを中和するための対となる聖遺物だったのだ。しかし、数百年分の呪いを吸い続けた宝珠は、もはや限界を超えていた。私が触れたのは、引き金に過ぎない。


「所長は、宝珠が壊れることも、私が再起不能になることも、全て計算の上だったのでしょう。呪いの真相を知る、邪魔な鑑定士を排除するために」


そこまで話すと、再び激しい咳が襲ってきた。視界が白く霞み、立っているのもやっとだった。

それを見た侯爵は、ふいと私から視線を逸らし、店の外に控えていた従者に何かを命じた。すぐに従者が、小さな水筒と、清潔な白い布を手に戻ってくる。


「飲め。それから、その指を拭え」


有無を言わさぬ口調。私は戸惑いながらも、差し出された水筒を受け取り、こくりと一口含んだ。ただの水のはずなのに、不思議と荒れ狂う感情が鎮まっていくような気がした。聖水か、あるいは何らかの魔力が込められているのかもしれない。

そして、白い布で黒く変色した指先を拭う。色が消えるわけではないが、ジンジンとした痛みが少し和らいだ。


「……ありがとう、ございます」

「礼は不要だ。仕事の対価だ」


侯爵はそう言うと、懐から革袋を取り出し、店のカウンターに置いた。ずしり、と重い金属音が響く。中には、私が一生かけても手にできないほどの大金が入っているのだろう。


「今日の鑑定で、貴様の能力が本物であることは分かった。そして、研究所を追放された経緯もな」

「……」

「一つ、取引をしないか」


侯爵は、再び私に向き直った。その瞳には、先ほどまでの冷たさはなく、静かだが確かな意志の光が宿っている。


「私は、王国の暗部を掃除する役目を負っている。中には、遺物が関わる奇怪な事件も少なくない。私の『目』となり、遺物の声を聞け。もちろん、相応の報酬は支払う。そして、貴様の身の安全も保証しよう」


それは、あまりにも魅力的すぎる提案だった。

この呪われた力しか持たない私にとって、彼の庇護は、荒れ狂う海に浮かぶ唯一の救命ボートだ。

だが、彼の依頼を受けるということは、再び命を削る日々に戻るということでもある。先代国王のような、絶望に満ちた記憶に、これからも触れ続けなければならない。


躊躇う私を見て、侯爵は小さく息を吐いた。


「強制はしない。だが、覚えておけ。貴様ほどの力を持つ者が野にいれば、それを悪用しようとする輩が必ず現れる。今の貴様は、あまりにも無防備すぎる」


彼の言葉は、事実だった。

この『追憶の天秤亭』での穏やかな日々は、薄氷の上になりたつ砂の城のようなものだ。


「……分かりました。お受け、いたします」


私は、覚悟を決めた。どうせこの力と共にしか生きられないのなら、せめてそれが誰かの役に立つのであれば。


「賢明な判断だ」


侯爵は短くそう言うと、懐からもう一つ、小さな包みを取り出した。


「これは前金だ。生活の足しにしろ」


そう言ってカウンターに置かれたのは、先ほどの革袋とは比べ物にならないほど軽い包みだった。中身は金貨数枚といったところか。

だが、その包みを開けた瞬間、私は息を呑んだ。


中に入っていたのは、金貨ではなかった。

色とりどりの、美しい砂糖菓子だった。


レモンの黄色、木苺の赤、ミントの緑。宝石のようにきらきらと輝くそれらは、甘い香りを放っている。

味覚を失いかけている私にとって、それは何よりも心を揺さぶる贈り物だった。


「なぜ……これを……」

「貴様、食事をまともにとっていないだろう。顔色が死人のようだ」


侯爵は、相変わらず無表情なまま、けれどどこか声音を和らげて言った。


「鑑定の代償が精神への負荷であることは知っている。糖分は、消耗した精神を癒すのに多少は役立つはずだ。……医者がそう言っていた」


彼は私の能力の代償について、正確に理解している。そして、その上で、私を気遣っている。

その事実が、凍てついた心の奥に、小さな温かい灯りをともした。


「ありがとうございます……」


今度こそ、心からの感謝の言葉だった。

私が砂糖菓子を一つ、おそるおそる口に運ぶのを見届けると、侯爵は静かに立ち上がった。


「正式な依頼がある時は、使いをやる。それまで、目立たぬように過ごしていることだ」


そう言い残し、彼は従者と共に店を出て行った。

豪奢な馬車が去っていくのを見送り、私は一人、静寂を取り戻した店の中で、口の中に広がる微かな甘さを噛み締めていた。


失われたはずの味が、ほんの少しだけ、感じられた気がした。

それは、明日を生きるための、小さな、けれど確かな希望の味だった。

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