事件1

 「ねえねえ、今回のテストも、霜月夕が一位だって」

 永井麻希ながいまきは、どこか興奮した様子で横に立つ出雲にそう言った。


 「へえ」

 出雲がにべもなくそう返事したタイミングで、麻希の抱える募金箱に十円玉が入れられる。


 「わあ! ご協力、ありがとうございます!」


 募金箱にお金を落とした生徒に、麻希は大袈裟にお礼を言った。


 彼女は、誰かがお金を入れてくれるたびにこうやって心からのお礼をする。


 そのたびに、彼女のショートカットの髪がさらりと揺れるのを、出雲は微笑を浮かべながら眺めていた。


 おそらく、彼女の大袈裟なほどのお礼は本心からだ。彼女はすぐにお礼を言うし、よく人を褒める。


 さらに変なプライドがなく、自画自賛をしている相手にも決して悪い顔をしない。


 おまけに当の本人はくっきりとした二重瞼、筋の通った鼻、と日本人離れした美貌を持っている。


 常ににこにこしているし、特に悩みとかもなさそうである。


 出雲は、そんな彼女がうらやましかった。



 朝早くの中学校。


 出雲たちの所属する環境委員会は、活動の一環として募金活動を行っていた。


 そして今日は出雲と麻希が当番だったので、こうやって下駄箱の前に立っているのだ。


 季節は夏真っただ中で、下駄箱に直射日光が降り注いでいる。


 うだるような暑さと葛藤しながら立っていなければいけないのが辛かった。


 そんな中、麻希はこちらを見ていたずらっぽく微笑む。


 「あ、みのりちゃんの前でテストのことは話題にしちゃだめだった」


 「わざとでしょ」


 「違うよぉ。でも正直、なんで落ち込んでいるのか分からないなぁ。学年で二位だよ?」


 「二位だからだよ」


 しかも、今回の一位はまたしてもあの霜月夕である。一位が霜月で二位が出雲、という並びはもはやテスト後の恒例行事と化している。


 今度こそ記録を覆してやる、と奮闘したものの、結果は変わらなかった。


 これでは、悔しさ以外の感情が浮かんでこないのは当然だ。


 「でもさ、霜月夕はほとんどの教科で満点だってさ。いくらみのりちゃんでも、抜かせないんじゃない?」


 確かに、霜月は頴脱した才能を持っているのだろう。それは十分に承知している。 


 「ぐぬぬ‥‥‥」


 出雲が変な呻き声を上げると、麻希はふっと笑う。


 「まあ、いいじゃないの。みのりちゃんは他でもない、この学校のなんだからさ」


 出雲の持つ募金箱にも、お金が入れられる。


 「ありがとうございます」

 「駄目だよ、そんな小さい声じゃ」

 そこで、麻希が茶々を入れる。

 「えぇ?」

 「せっかくお金を寄付してくれた人に届かないじゃん」

 「確かに」

 「生徒会長なんだから。人前に立つことなんてしょっちゅうでしょ?」

 「それは、そうだけど」


 麻希の言う通り、出雲はこの間に行われた生徒会役員選挙で、見事に生徒会長の座を手に入れた。


 しかし、生徒会長、という肩書は早くも出雲のプレッシャーとなっている。


 それに立ち向かってこそなのかもしれないが、定期テストでの結果や今のような挨拶においても、生徒会長という肩書が出雲を押しつぶそうとしているのを感じていた。


「それにしても霜月夕って人、かなりのイケメンらしいよ。あ、そういえばみのりちゃん、同じクラスだったよね」

「そうだけど‥‥‥普段は影が薄くて全然目立ってないよ」


 頭脳明晰にして容姿端麗か。完璧だな、と心の中で呟く。


 「でも、みのりちゃんとピッタリじゃない?」


 「え⁉︎」


 「だって、みのりちゃんも頭いいし、かわいい!」


 「いやいやいやいや。麻希の方が可愛いって」


 「お世辞じゃなくて、マジだから」麻希はぐっと出雲に顔を近づけた。「それに、ワタシは可愛くても、頭良くないから」

 あ、可愛いのは認めるんだ。


 彼女がそのまま唇が合わさるくらいに近づいてきたので、さすがに手で制した。


 「ちょっと、暑ぐるしい!」そこで、麻希の姿に疑問に思う。「そういえば、夏なのに長袖って、暑くないの?」


 「全然。それに、半袖って、なんかダサいじゃん」

 「そうかな」


 麻希とは中学校入学以来親友だが、そういえば、確かに彼女の半袖姿はあまり見た記憶がない。


 麻希は愛嬌がある上に少し変わったところがあるので、クラスでも人気者だ。



 下駄箱の人通りも少なくなり、そこで朝の会を報せるチャイムが鳴った。あとから遅刻した生徒が何人か通ったが、彼らは出雲らに目をくれることなく、焦った様子で階段を駆け上がっていった。


「遅刻しただけで減点されるって、ひどくない?」

 ふと、麻希が言いだす。

「別に、自業自得だと思うけど」

「でも、別に遅刻したくて遅刻してるわけじゃないじゃん」

「そんなこと言ったら、犯罪だって許される世界になっちゃう」


 出雲がそう言うが、麻希はなおも腑に落ちない様子だった。


「とりあえず、溜まったお金を学習室に持っていこう」


 出雲が気を取り直して言うと、麻希は頷く。

「あ、ちょっと待って。日焼け止め塗るから」麻希は募金箱を床に置くと、そう言った。「先に行ってて」

「うん」


 出雲は廊下を俯き加減に歩いた。一人になって初めて、けたたましく鳴り響くセミの鳴き声の存在に気づいた。


 出雲は霜月夕のことを考えていた。二年生に上がって彼と同じクラスになり、そこで初めて彼の姿をこの目で見た。


 最初はまさか彼があの霜月だとは思わなかったので関心はなかったのだが、彼がいつも通りぼんやりと廊下を歩いているところに居合わせたとき、『あれが霜月だよ』『あいつが?』というような誰かの囁きを耳にし、そこで彼が霜月なのだと知った。


 しかし、改めて彼の姿を見ても、まったく学年トップの頭脳を持っている感じがしなかった。オーラがない、とでも言おうか。


 その頭脳に相応しい雰囲気を、全く纏っていないのである。


 彼が頭脳明晰で、自分よりも頭が良いのだということは、今でも到底信じられなかった。


 自分は頭の良さだけが取り柄だと思っていた。

 

 小学校では、スポーツ万能がクラスの権力を握ることができるという謎の風潮があったが、そのころの出雲は決して目立つようなタイプではなかった。


 だから中学生に上がり、皆の視線がスポーツ万能ではなく、勉強ができる人に向けられ始めたときは、ついに自分が輝ける場所を手に入れたと思い、得手に帆を揚げたものだ。


 その結果、生徒会長という学校で一枠しかないこの座を手に入れることもできた。


 しかし、あの霜月が現れ、彼が『頭のいい人』として脚光を浴びたせいで、『頭のいい人』として自分が崇拝されることはなくなったのである。


 自分はトップは目指せない。


 生徒会長という存在に躍り出ることは出来たものの、霜月という存在がこの学校にある限りは出雲の欲が満たされることはないのだろう。


 悔しさ、か。


 この感情が何かは、出雲本人でも分析しきれない気がした。


 霜月との距離があまりに遠すぎて、むしろ悔しさすらも感じられなくなっているのかもしれなかった。


 「お待たせ、お待たせ」

 そこで、麻希が後ろから走ってきた。


 「ああ、うん」


 麻希は横に並ぶと、にやりと笑った。


 「ねえねえ、どっちの募金箱の方がより多くのお金が入っているか、競わない?」

 「今?」

 「歩きながら」

 「でも、見ても分からないでしょ?」


 委員会特製の募金箱は、段ボールに色紙が貼られているような雑なデザインだが、当然お金がどれだけ入っているのかは見ることができない。投入口も貯金箱のように幅が狭くなっているので、そこからお金を取り出すのも困難である。


 すると、麻希は歩きながら募金箱をガシャリガシャリと音を立てて振った。その派手な音を聞いた限りは、かなりの量だ。


 「みのりちゃんのは?」

 出雲も勢い良く振ってみた。


 シャリン。


 「え?」

 「‥‥‥」

 乾いた音が小さく響いただけだった。おそらく、十枚もない。

 「ワタシの方が、多い!」

 麻希は嬉しそうにほほ笑む。


 一方出雲の方は、同じ要領で並んで立っていたのに、こんなにも募金の量に差が出るものだろうか、と打ちひしがれていた。


 やはり、麻希は人気だ。


 そこで、ようやく学習室に着いた。

 出雲たちは、教室の真ん中にある専用の机に募金箱を置いて、部屋を出た。

 そのとき、しっかりと鍵を閉め、さらに確かにその鍵を職員室に返却したことを、鮮明に記憶している。


 

 事件が起こったのは、その日の放課後だった。

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