第44話 それだけでいい
どれくらい時間が経っただろうか。ゆったりと私を撫でていた手が、爪先で首を擽る。ぴくりと肩を跳ねさせ顔を上げると、思惑を含んだ視線と目が合った。モスグリーン色の瞳が弧を描き、ずっと掴んでいたままだった指を持ち上げる。悪魔がかつて口付けた場所へ、見せつけるように唇を押し当てられた。生暖かい感触と未知の感覚に、先程までとは別の理由で身体が震えた。
「っ……ぁ、な、なにを、して」
「そう可愛い反応をするな。興が乗りそうになる」
「かわ……っ、い、いえ、時と場合を考えなさい!」
「俺とお前の仲だろう。それとも、他の男の前だと照れ臭いか?」
ちらりと動いた視界の先には、気配を消して壁とほぼ同化したトラヴィス様がいた。目が合い、気まずそうに視線を逸らされる。
「すまない、すぐ退室する」
「い、いえトラヴィス様、誤解ですのよ、いえ誤解ではないかもしれませんけれど!」
真っ赤に染まった顔を落ち着かせる猶予もないままに立ち上がったものの、賢者との懇意説は否定したくないと理性が主張した結果、中途半端な反論になってしまった。ずっと座っていたからか立ち眩みを起こしそうになった身体を、ユークに支えられる。
「そういうわけだから、あとは俺達二人の時間にさせてくれ」
いかにも親しい仲ですと言わんばかりに、ユークは身体を寄せてきた。恥ずかしいものの、ふらついた身体を誤魔化すのには丁度良かったのもあって、私は黙り込む。私達の様子をひとしきり観察し、トラヴィス様はそうか、と頷いた。
「クロリンデ。今日のお礼は、また改めて贈らせてもらう」
部屋中に濃厚に漂う、香水の香り。床に転がった小瓶の口から漏れているそれを見て、私はさっと青ざめた。容器が壊れていないのに安堵したものの、中身は殆ど零れ落ちていた。
「気にするな。今日は本当に感謝している」
また、と軽く会釈をして、トラヴィス様は部屋を後にしていった。彼が懐の深い方で助かったわ。ガトー家からの贈り物をぞんざいに扱ってしまったのは事実なのだし、後日詫びの品を見繕うべきかしら。早速何がいいか考えていると、背後からばさりと音が響いた。
「あー、だっる……」
ベッドに倒れ伏したユークが、大きく長い息をついている。うつ伏せのまま微動だにしないローブ姿に、反応が遅れる。さっきまでやけに私を揶揄っていた癖に、今度はだらけ三昧って何なの、この男。もしかして、トラヴィス様の前では疲労しているのを見せたくなかったのかしら。
「ユーク、貴方」
「暫く休憩させろ。魔力を大半お前に注いでやったから、疲れているんだよ。だからトラヴィスにさせたかったってのに…」
魔力を注いだ。手首をそっと確認すると、ブレスレットが貰った時よりも灰色に澱んでいた。ただそれ以上黒くはならず、むしろ薄まり元の銀色へと徐々に戻っていっているようだった。
「一体、何があったの?」
恐る恐る尋ねると、ユークは顔だけを動かして、横目でこちらを睨んだ。
「腕輪にかけていた魔法の効果で異変を察知した。気絶したお前を連れたトラヴィスと合流して、人目につかないように宿屋の一室を借りた。体内の力が暴走して悪魔堕ちしかけていたから、白魔法で強引に塗り替えた。以上」
悪魔堕ちしかけていたのね、私。まるで自分が自分ではなくなるような、妙な感情の昂ぶりは感じていたけれど……。
「白魔法って、悪魔になりかけた身体を助けられるのね。それとも、流石は賢者様と称えるべきかしら」
「いや、あそこまで力を発動できたのは初めてで」
そこでユークは口を閉じ、反対側へ向き直る。突如途切れた言葉の代わりに、彼は誤魔化すように問いかけてきた。
「何を見た」
質問を受け、躊躇いつつ椅子に座り直す。思い返したそれは不快には感じたものの、今となっては実感の薄いただの記録として俯瞰できた。
「貴方達に殺されるという筋書きを」
「全部幻覚だ。気にするな」
ただの幻覚だったら、どんなによかったか。それが予言書で記された、あり得たかもしれない可能性だと、私は知ってしまっている。
「リデルに、真実を教えてあげると言われたの。あの悪魔の白魔法は、予言……異なる世界の光景を、映し出せるのではないかしら」
「お前を騙すために悪魔が作り上げた幻覚ではなく、並行世界の投影だと確信できる、その根拠は?」
「別の悪魔に殺される光景もあったの。私を騙したいなら、悪魔への不信感を募らせる幻覚なんて見せないはずでしょう」
「ふん、一理なくもないな」
白魔法の能力は、結界関連に留まらない。心を読めると自負する使い手だっているし、バリエーションが豊富過ぎるわ。私の反論に、ユークは一応納得したような反応をみせた。それを確かめてから、再び推測を告げる。
「貴方も似たような能力を持っているのではなくて?」
「……証拠は」
幻覚の中、別の世界から殺害の瞬間を見ていた私に気付いたから。こんな主観的な理由では弱い。私にとっても、ただの勘に近いものだった。予想通りに進む展開に飽きている、と以前煙混じりに明かされた姿が、記憶にこびりついていたのもあるかもしれない。
「リデルの推測を否定しなかったでしょう。彼が白魔法を使えると知っているのは、それだけ悪魔と親しい仲か、別世界で垣間見たからではないの?」
その理屈で言えば、リデルが白魔法の使い手だと何故私が断言できるのかという話になってくるのだけれど、幸いにして彼はそこを指摘しなかった。気怠そうな身体がベッドからゆっくりと身を起こし、こちらに向き直る。色の失せた眼差しに、悪寒が走りそうになった。これはあの夢とは違う、と武器を探したくなるのを我慢する。
「お嬢さんは、俺に悪魔との結託疑惑をなすりつけたいらしいな」
「私は、……貴方を信じているわ。ただ、真実が知りたいだけなの」
張り詰めた沈黙の中、モスグリーン色の瞳に見つめられる。喉がじわりと乾いてきて、目を逸らしたくなったものの、そうしてしまうとなんだか負けたような気がして、睨み返す。数秒か、数分か。長いようで短い睨み合いの後、彼は表情を緩めた。
「悪魔と同じ能力だなんて知られたら、外聞が悪い。内緒にしておいてくれ」
ユークは否定しなかった。秘密を明かしてくれた。私だけに。奇妙な高揚感が胸中に渦巻いた。どうしてやけに嬉しく感じるのか自分でも分からないままに、椅子から立ち上がる。勿論よと返答しつつ、部屋の窓を開けた。バルコニーの手すりにもたれかかって、振り返る。
「これこそ対等な協力関係じゃないかしら」
「……そうかもな」
微かに笑って、ユークは欠伸をしつつ私の隣に並んだ。香水の匂いが充満した室内から逃れ、私達はしばし冷たく心地いい外気を味わった。この部屋は二階だったため、夕焼けに染まりつつある街並みがよく見える。今も救夜祭の準備に活気づいている様子を、ユークはどうでもよさそうに眺めていた。或いは、見飽きたものを視界に入れるように。
「近い未来における、別世界の可能性。俺が見通すのはそれだけだ。世渡りするには便利な能力だが、人生に刺激が減るのが難点でな」
「興味を示したのは、悪魔堕ちしていない私が珍しかったからね」
「そうだ。面白いものを見つけたと久々に浮かれもしたが、ここまで厄介案件なのは予想外だった」
「最初から分かっていたら、私を切り捨てていたの?」
「多分な」
「そう。よかったわ」
強がりでもなく、本心からの言葉だった。怪訝そうに見つめてくる彼の髪が、風ではためく。横髪を耳にかけ直して、私は穏やかに笑ったまま続けた。
「貴方はきっと、私を愛さないのでしょうね。だから、愛想を尽かされる事自体が起こらない。今後も世界の為、私に協力し続けるしかない。打算的な方が信頼できるわ」
強風が私達の間を通り過ぎる。抱きしめられた時に感じた温もりの余韻を、全て拭い去るように。これでいいのだと、心の奥の声から耳を塞ぐ。線を引いた態度に、ユークはひくりと頬を歪ませた。煙草を探るように懐に手を入れかけ、今回は運悪く持ち歩いていなかったのだろう、忌々しげに小声でぼやく。
「逆に、挑発されている気分になってきたな」
「喧嘩は売っていませんわ」
「そういう意味じゃない。というか、これじゃ俺の方がまるで……」
唇から零れる前に、言葉が苦々しく嚙み潰される。続きが少しだけ気になったものの、そ知らぬふりをして頭を下げた。
「本日の謝礼は、また後日改めて贈らせていただきますわ」
「結構だ。形式ばったお世辞の詰められた贈呈品には飽きているんでね」
そう言われては、ハドリー家から贈れるものはない。改めて丁寧に感謝の言葉を伝えて身をひるがえそうとすると、腕を掴まれる。胸元に引き寄せる動作は、力任せというには乱暴さからほど遠かった。
「これ以上嫌な夢を見たくないなら、溺れさせてやろうか」
低く擦れた声が鼓膜をやわく撫で、息を呑む。先程とは異なる熱が触れられた所からじわじわと這い上がってきて、震えそうになった。緩い拘束なのに一歩も動けない。
彼に溺れたら、どうなるのだろう。
苦しみも悲しみも全て捨て、ただ幸せを享受するのだろうか。
あの鏡に映った、別世界の私のように。
「今日の事はお互いに秘密、でしょう?」
腕の間からすり抜けて、部屋の方へ逃れる。唇に手を当てて、三日月の形に動かした。彼の隠し事も、私が晒してしまった涙も弱さも、全てなかったことにするために。リデルの時よりも、どうしてか冷静に判断できている自分がいた。
全く心が揺れなかったと言えば、嘘になる。けれど、十分だった。ずっと信じさせてくれる、裏切らないでくれる、それだけでいい。それに、誰かに溺れる姿なんて見られたくない。私が睨んでいなければだらけがちで、色々と抜けていて、手のかかるあの子には。
ドアを開いて部屋を出る前に、一度だけ振り向く。夕日を背にしたユークは、手すりにもたれかかったまま、こちらを見ていた。どことなく、面白くなさそうな表情で。
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