第7話 蛇の罠
私は再び開けた斜面に戻ってきていた。
岩陰に身を隠して、じっと待つ。
眼前には新鮮なネズミの遺体がある。
あれは私が捕食したネズミの兄弟の遺体である。
彼らはこのあたりを中心に活動していて、捕食したネズミの記憶から、巣の位置、行動パターンと経路、匂いなどの情報を得ていたので捕獲は容易だった。
今は私の出血毒により死亡しているが、さっきまで生きていたので鮮度は高い。
ただ、
私は蛇なので、ここで何日でも待つことはできる。ただ、死体の鮮度が落ちてしまうのは気がかりだ。
死体で誘引できないとなると、生き餌が必要になる。
自分を囮にするのが最も合理的な気がするが、その分危険も高い。
可能なら、死体に食いついてほしいのだが……。
野生化の
ただ、この洞窟は私の常識を覆す事象が多数発見されている。
それにあの
というのも、この洞窟に棲む生物の多くは異様に巨大だ。
その中で、あの
実際、体格に優れる私を捕食対象として選ぶという行動からも、正常な選別能力を欠くほどに飢えていると推測できる。
この洞窟内の厳しい生態系を考慮すると、捕食対象を選んでいる余裕などないはずだ。腐肉も貪る程度の貪欲さはあって然るべきだろう。
低く唸るような風切り音が大きくなる。
(かかった)
心の中で歓喜する。
驚いた
私は全身をバネのように伸ばして、大口を開く。
開口に伴い展開された牙が、槍のように標的に迫り、獲物の腹部に突き刺さった。
完璧なタイミングと奇襲だった。私は
他の作戦もない。このまま殺すだけだ。
私は顎に力を入れ、胴体で
再び飛ばれたら面倒だ。飛行生物の痕跡を辿るのは骨が折れる。蛇の本能が鈍化しているおかげで、放したくなる衝動を理性で押さえつけることができる。顎の筋肉を最大限収縮させ、離れないように牙をより深く食い込ませる。
激しく暴れて反撃する
牙や爪が私の体に傷をつける。損傷の度合いは軽く、致命傷には程遠い。これならば問題なく絞め殺せる。
出血毒が早速、効果を発揮し始めている。
私の口回りを生温かい血液が伝う。
その時、
本能的な緊張を感じるが、これが幻覚なのは知っている。
私は猛禽類の虚像を無視して、細長くしなやかな胴体で
翼や足を巻き込んで拘束し、そのまま縛り上げる。
私の視覚以外の鋭い知覚は、ここに猛禽類がいないと告げている。
どんな幻覚を見せようと、もう私は騙されない。
しかし、この幻覚やけに現実味を感じる。本当にそこいるような存在感がある。視覚だけを騙しているわけではなさそうだが、他の感覚器、特に嗅覚はそこに何もないことを明確に示している。
完全ではないが聴覚は少し騙されている。翼の羽ばたき、威嚇する獣の咆哮。だが、物理的な現象を伴っていない。なぜなら、空気が全く振動していない。翼の羽ばたき音は幻聴だ。実際に、あんな大きな翼で羽ばたいているのに、全く風が発生していない。
標的の感覚器に偽の情報を見せるというわけではないようだ。光を発生させて幻像を見せているわけではなく、標的の知覚に直接干渉して幻覚と幻聴を見せているのか?
物理的にはあり得ない現象だが、目の前の事象を冷静に分析するなら、そうとしか解釈できない。
超巨大な猛禽類の幻影は威圧感を増し、さらに変形を重ね、昆虫や哺乳類の牙や顎、爪や鎌などの恐ろしい体構造が混ざり合った異形の怪物に変容している。
そしてそれが、
私はそのまま
再燃する激しい食欲。
一匹目のネズミを狩った時のように、激しい衝動が溢れ出した。
二匹目のネズミを狩った時は、この不思議な衝動は発生しなかった。
推測でしかないが、これは私にない力を
私は開口した。
百八十度に達する開口角度が、包み込むように蝙蝠の遺体に覆いかぶさる。
殺すこと、食うことに何の感慨も感情も沸かない。
生きている生物に対する慈しみや執着が一切ない。
これが蛇の認識なのかもしれない。
人間だった頃の私はもっと世界に固執していたし、生物に一種の神秘性を感じていた。
しかし、今の私は動かなくなったソレを、ただ肉の塊としか思っていない。
故に迷いが一切ない。
私は
瞬間、体内で燃え上がるような膨大なエネルギーが勢いを増す。
記憶が知識として流れ込む、飛行生物としての広い行動範囲と高い知覚機能による高解像度な地形記憶を獲得する。
ただし、外耳を持たないので、方位の把握には移動が必要となるだろう。
視力が大幅に向上し、暗視能力も蛇やネズミを大きく上回っている。
周囲の光景が鮮明に映し出され、ぼやけていた遠くの像もくっきりと見えるようになった。
蛇の視力はおよそ零点零一から零点一、ネズミは零点零二から零点一、
嗅覚や聴覚による知覚も十分優れているが、知覚範囲が狭い。やはり、視覚がもっとも世界を知ることに適してる。赤の色覚を得られなかったことは少し残念だが、皮肉なことに人間だった頃の私よりも視力が良くなってしまった。ただ、問題は瞼がなく眼球が鱗に包まれているせいで、視界にゴミが映ってしまうのが残念だ。
そして、謎の多かった幻覚能力の詳細とそのメカニズムも理解できた。
記憶の中で
天敵には脅威的な生物を見せて撃退し、獲物には幻の地形を見せて欺き、狩場へと誘導する。
この能力は、物理的な原理を持った力ではない。超能力の類である。
そして、捕食を繰り返すたびに増大する私の謎エネルギーの使い道でもあった。
記憶の中の
謎エネルギーを利用できる
謎エネルギーでは締まりがないので、安っぽい表現だが、これを魔力と仮定して呼ぶことにする。
物理とは全く異なる原理で働く、不可視のエネルギーと言われれば、魔力と呼称するのが妥当と言えるだろう。
魔力の存在と知覚に加え、運用も可能になったのだ。これは大きな飛躍だ。
ただ、私は、飛行能力の獲得をひそかに期待していた。
しかし残念ながら、翼の構築は不可能のようだ。
とはいえ、外耳のような単純な構造ならば再現可能らしい。
どうやら私は、自身の身体構造をある程度、任意に再構成できる異能を持っているようだ。
たとえば、今得た
これは喉で高周波を発する特殊な声帯構造を要するが、私はそれを選択的に再現できた。
つまり、捕食した対象の生体的特徴を、自身に反映するかどうかは私の意思次第なのだ。
不要な、あるいは有害な特徴は取り込まないという選択肢がある――これは極めて合理的な仕組みだ。
だが、翼のような複雑かつ精密な器官を新たに構築するとなると話は別だ。
それは、精密機械をゼロから作り上げるに等しい作業であり、莫大な情報処理と時間を要する。
仮に翼の構築に成功したとしても、それを“運用する”ための能力が私には欠けている。
私は依然として変温動物であり、恒温動物のような安定した代謝機能を持たない。
翼を羽ばたかせるには、膨大なエネルギーを筋肉と脳へと送る必要がある。
しかし変温動物では、代謝が低く、酸素や糖の供給が不足する。
特に脳機能への負荷が問題だ。翼の運動制御には高い神経処理能力が要求されるからだ。
したがって、飛行能力を得るには、まず恒温動物への進化が前提条件となる。
だがそれは、単なる構造変更では済まない。
身体全体の恒常性制御系に大幅な変更を加える必要があり、現在の私の情報処理能力では再現が困難である。
さらに、恒温化には明確なリスクもある。
代謝の激化により、食事の頻度は増し、細胞は早く摩耗し、活性酸素が増加することで老化も加速する。
それは、“生の燃焼速度”を上げる選択でもあるのだ。
今の私には、飛行能力は必須ではない。
ならば――今はまだ、恒温動物への進化を急ぐべきではないだろう。
さて、ついでに釣り餌に使ったネズミも捕食しておいた。
再び、私の内で謎エネルギー、もとい魔力が増大する。
私は獲物の持っている魔力を蓄える力があるのだろうか?
どちらかと言えば燃焼しているというイメージに近い気がするが、なんにせよ既知の現象ではないので、私では理解のしようがない。
私は、新たに得た
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