第四話 海を越えても出逢えるなんて



    海を越えても出逢えるなんて

     再会の四季 冬〜春編


       Message of the 4th season.

        〜めぐり合いがめぐり逢い〜




 日本全国の断酒会員の皆さん、こんにちは。

 本日はこの高知県で行われる全国大会に参加するため、遠路はるばる海を越えて四国までやって来てくださり、本当にありがとうございます。

 私は高知県の断酒会員、九条七波くじょうななみと言います。

 皆さんもご存知のとおり、全日本断酒連盟は、ここ高知から、故・松村春繁氏の身を粉にするようなご尽力により誕生致しました。また、もとを正せば断酒会は、これまた皆さんもご存知のとおり、アメリカのオハイオ州で産声をあげたAA……、アルコホリックス・アノニマスをお手本にして結成された組織でもあります。

 自分で言うのはなんですが、私は二年前の冬から春にかけて、誰に話しても「感動的だ」と言ってもらえるような、それはそれは貴重なめぐり合いを体験しました。その事で、高知の断酒会の皆さんから、

「是が非でも、九条さんの体験は全国の断酒会員全員で共有するべきだ。九条さん、高知だけではなく、全国のみんなにこの話をしてくれないか?」と依頼され、それが理由で今回こうして全国大会の壇上に立たせて頂く事になったのです。

 私がこれからお話する事の中には、断酒とは直接関係のない話題が少なからず出てくる事もまた事実です。でも、それはそうだとして、どうかちゃんと最後まで、この話をきちん聞いて頂けたらと思うのです。また何よりも、きっとこの会場内には、お酒の害とはほとんど無縁の方々も少なからずいると思うのです、そういった方にも、決して私の体験を他人事などとは思わずに、きちんと聞いて頂けたなら、私にとって何よりも幸いです。

 私には、実は六歳の頃、親からオハイオ州の病院に、たった一人で置き去りにされてしまった事がありました。

 まず手始めに、なぜそのような事になったのかを、幼少の頃にまで遡ってお話しさせて頂こうと思います。



 私は、江戸時代から代々続く、味噌や醤油、また悲しい事に、日本酒を作り続けてきた高知県の名家に、長女として誕生しました。

 私は左目に病気を持った状態で、この世に生を受けました。病名を、「先天性眼瞼下垂症せんてんせいがんけんかすいしょう」と言います。

 私の祖母は、「想新の会」という新興カルト教団の熱心な信者でした。祖母は、私がこの病を持って産まれたのは、「七波が過去世で負った宿業のせいだ」と常々主張し続けてきました。そして、その宿業とやらを転換するためには、「想新の会」の信心をするより他にすべはないと言い、私を朝から晩まで仏壇の前に座らせては、「お祈り」を強要するのでした。ところが私の左目は一向に良くはならず、むしろ悪化する一方でした。

 ある日の朝、祖母は、布団の中でそのまま帰らぬ人となっていました。

 こんな事を、しかもマイクを使っている状態で大っぴらに言うのはよくない事ぐらい、私だってよく分かっています、……それがこの上なく非常識な行為である事を承知で敢えて言うのですが、祖母が亡くなった時、正直、私、「もう『お祈り』を強要される事はないのだ」と思い、子ども心にも少しばかり安堵してしまいました。

 ちなみに、まだ十分な判断力のない子どもに、宗教的な教育を施したり強要したりする事を、家庭心理学では「宗教的虐待スピリチュアル・アビュース」であると定義していると知ったのは、大変な読書家である現在の主人と知り合ってからの事でした。主人の父親もまた「想新の会」の熱心な信者だったそうで、その事で、主人は幼少の頃から幾度となく苦い思いをしてきたのだそうです。しかし主人は「想新の会」には染まらずに、むしろ逆に自分の頭で考えに考え抜き、「父親が自分に対して行った事は『宗教的虐待スピリチュアル・アビュース』だったんだと結論した」と、私にはっきりそう教えてくれたのです。

 つまり「想新の会」は、ただ社会に迷惑をかけているだけではなく、組織を挙げて児童虐待を行なっている極めて危険な団体なのだ、という見方もまた成立する、という事を意味してもいるのです。



 祖母が亡くなった後、家にはお金があった事もあり、両親は私を、日本各地の名医とされている方々の所へとあちこち連れ回しました。でもそれだって決して私が心配だったからではなく、「良家に生まれた自分の娘が病気持ちでは世間体が立たない」、と思っていて、それが理由で一刻も早く治したいという下心があった事を、私はまだ子どもだったとはいえ薄々感じ取っていたのでした。しかし、結局、私の目は一向に良くはならず、そうこうするうちに妹が産まれました。

 悔しいけれど、この妹が、姉の私から見ても本当に可愛らしい子なのでした。まるでディズニー映画、「塔の上のラプンツェル」に出てくる子どもの頃のお姫様みたいに綺麗な顔をしていて、反対に、私は皆さんも見てのとおりでして、その事に、とても強いコンプレックスを感じていた私は、幼少の頃から毎日、泣く泣く夜を過ごしていたのです。

 両親は妹ばかりを偏愛するようになりました。今まで見向きもしなかった高価なオーディオを購入し、本当はこれっぽっちも理解できていないくせに、……見栄、……たったそれだけでモーツァルトやらブラームスといったクラシック曲を朝から晩まで毎日たれ流し、「いつか興味を持ってもらえたら」、という理由で、ろくに弾けもしないスタインウェイの高級ピアノをわざわざドイツのハンブルクから取り寄せ、妹に英才教育を施そうとし始めたのです。その理由は、「いつか良家の婿を迎え入れ、江戸時代から続くこの名門を守り続けたい。あわよくば、もっともっと発展させたい」、という気持ちがあったからである事も、やはり私は幼心にも薄々感じ取っていたのでした。

 私の左目がいよいよ本当に危うくなり始めたのは、寒さの厳しい1月のとある朝の事でした。「あと数ヶ月、春になったら小学校、大掛かりな手術するならこれが最初で最後のチャンス」、という時期に、両親は「先天性眼瞼下垂症」の世界的権威とされるオハイオ州の医者の元に、私を連れだったのです。

 何度でも言います。

 私は幼心にも薄々気付いていたのです。

 両親は、決して私が心配だから権威のあるオハイオの医者の元に連れて行ったのではなく、いや、あるいは少しは心配だったのかも知れませんけれども、でも、あくまでも、「良家の家の娘がこれでは世間体が立たない」と思っていて、オハイオの権威ある医者の元に私を連れだったのは、それが理由だったのです。

 ええ。絶対に間違いはありません。

 ところが、オハイオ州のデイトン国際空港で飛行機から降り、病院に着いた途端、日本から悪夢のような連絡が、私たち三人を追いかけて来たのでした。

「妹が重度のインフルエンザのため危篤となり、生死の境を彷徨っている」、と。すると両親は、なんという事でしょう、右も左も、前も後ろも、上も下も、そしてもちろん、言葉すらも分からないオハイオ州の病院に、私をたった一人置き去りにしたまま、日本へとトンボ返りしてしまったのでした。

 片方の親が日本へ戻り、そしてもう片方がオハイオに残るというのなら分かります、でも、両方とも日本へ帰るだなんて、妹だけを大事にしている何よりの証拠ではないですか。これが偏愛でなかったら、何が偏愛だというのでしょう。やはり、子ども心にもそう思った私は、寂しさと悔しさで、毎日のように泣きぬれて過ごしました。しばらくすると左目から、涙が出なくなりました、……むろん病気のためにです。

 大事な事なので、今ここではっきり言っておきます。幼少時代に、親からじゅうぶんな愛情をもらえなかった子どもは、大人になるとアルコール依存症になりやすくなる、という事は統計的にも明らかなのです、……またれっきとしたエビデンスだってあるのです。

 じゅうぶんな愛情をもらえないと、ドーパミンやセロトニン、またオキシトシンといった幸福感の元となる脳内麻薬が抽出されにくくなります、……そしてそれが状態化されるようになるのです。そしてアルコールは、ドーパミンを始めとした脳内麻薬を、手軽にかつ強制的に抽出できるという点においてだけは最適なのです。親から十分な愛情をもらえなかった人が依存症になりやすいのは、だからなのです。

 もちろん、だからといってお酒を飲む事は正当化されて然るべきだとは言いません。なぜならそれでは物事の根本的な解決にはならないからです。むしろ逆に飲めば飲むほど、事態は悪化する一方なのです。だからこそ、まず手始めに最初の一杯を飲まない、そして飲まない日々を積み重ねる、……そしてさらに、飲んでしまった日の事を忘れないようにするため、酒害体験を掘り起こし、例会でそれを発言し、また他人の酒害体験にも耳を真摯に傾ける必要が、私たち酒害者には絶対に必要なのです。

 言うまでもない事ですが、生まれた時からお酒を飲んでいる人はいません。ではなぜ人々が依存症になってしまうのかと言うと、アルコールには脳を、アルコールそのものを必要なモノなのだと思い込ませる、……換言するなら「上書き」してしまうそれはそれは恐ろしい力があるからなのです。「上書き」されてしまった脳は、もう二度と、絶対に、生まれた時と全く同じ状態には戻れません。

 ……ではどうすればこの問題は解決するのでしょうか?

  答えはただ一つ。酒害体験に真摯に耳を傾け、「上書き」されてしまった脳をさらに更に「上書き」する、

 ……それ以外に手段はないのです。



 先ほどお話しさせて頂いたとおり、まだ六歳だというのに、私はたった一人でオハイオ州の病院に取り残されてしまったのでしたが、そんな私の目の前に、とても良くしてくれる中学一年生の、それはそれは優しい男の子が現れたのでした。

 彼はとても優秀なバスケットボール・プレイヤーだったそうで、オハイオには、結果的にその人生で一番最後となってしまったバスケ留学のため、はるばる日本から来ていたとの事でした。しかし、日本とアメリカのハーフであった彼は、アメリカでは「日本人」と見做されていて、一部の心ない人たちから差別を受けていたのです。そのため試合中に悪質なファールを受け、左の膝を大怪我し、それが理由で私と同じ病院に入院していたとの事でした。

 「おませ」と笑われても構いません、事実、正直に言うとこの時の事を、自分でも少しばかり恥ずかしく思ってもいるのです、でも、親に放置され、たった一人で病院に寂しく取り残されてしまったまだ六歳の私は、

 ……彼を本気で好きになってしまったのでした!

 事実、オハイオ州の病院で過ごした彼との数日間は、どんな宝石よりも輝かしい思い出を、私に与えてくれたのです。

 例えばこのような事がありました。

 昔から絵を描く事が大の得意だった私に、彼は、クレヨンやスケッチブックを買い与えてくれました。また、リンゴの絵が描かれたページには、Appleの"A"、本が描かれたページには、Bookの"B"、そして猫が描かれたページには、Catの"C"と書かれた絵本で、それはそれはネイティブな発音を読み聞かせたりもしてくれました。そこまでされて、どうして彼を好きにならずいられると言うのでしょう。それでも「おませ」と笑うなら、そんな人はもう、性格がものすごく悪いか、あるいは他人ひとの気持ちをおもんばかる事のできない心ない人間が、二つに一つだと思うのです。

 それはともあれ、そんなある日、私は彼からとんでもない話を聞かされてしまったのでした。ある程度とはいえ英語が理解できる彼は、白人の医師たちが、

「あのジャップの左目はどうせもう治らない、手遅れだ、これは決して我々のせいではない、この病院へ連れてくるのが遅過ぎた、あの両親が悪いのだ。いいチャンスじゃないか、手術をした、……という事にして、親に治療費だけを請求してやろう」

 といった意味の話をしていたのを偶然聞いてしまったというのです。

「今すぐ逃げよう!」

 彼はそう言いました。

「バスケットボール・プレイヤーとしての本能から感じている事をストレートに言う! 逃げると決断したのなら、一刻でも早い方がいい! いったん俺の親戚の家に行こう。後の事はその後考えよう。でないとお前、本当に左目が見えなくなっちまうぞ!」

 彼に対して全幅の信頼を置いていた私は、その直後に悲劇的な事件が起こるだなんて夢にも思っていなかった事もあり、つい二つ返事で「うん」と答えてしまったのでした。

 けれども脱走は失敗に終わりました。なぜなら私たちの行動は、さすがは犯罪王国アメリカなだけあって、防犯カメラでほぼ完璧に監視されていたからでした。病院の出入り口で待ち伏せていた警備員に、私たち二人はあっけなく捕らえられてしまいました。そして私たちは、泣く泣く引き裂かれてしまったのです。

 以前にも増して、私はただただ泣きぬれて寂しい夜を過ごす事になりました。

 ……やがて、私の左目は完全に光を失くしてしまったのでした。



 それから約一週間後、両親が、私を迎えにオハイオへ舞い戻ってきました。

 親から伝え聞いた話によると、病院は、

「彼女は日本人とアメリカ人とのハーフの少年に誘拐されそうになった。我々は全力で少女を護った、そして手術もベストを尽くした、しかし少女は光を失くしてしまった、少年のせいだ。彼のせいで手術の予定が完全におかしくなってしまったのだ」

 という意味の説明をしたそうです。まだ幼かった私ではありますが、その話が真っ赤な嘘だというぐらい、痛いぐらいに、悲しいぐらいに、そして嫌というほどにはっきり分かっていました。事実、私は手術を受けてはいなかったのですから……。でも、わずか六歳の少女が「真実」を語ったところで、一体誰が信じてくれると言うのでしょう? ……その事もまた、同時に、そして嫌というほどはっきり分かっていたのでした。

 日本へ帰ると、話に聞いていたとおり、確かに妹はかなりの重症のようでした。事実、まだ重度のインフルエンザから完全に復帰してはおらず、病院で点滴を受け、酸素ボンベまで着けていたのです。

 ……だからといって両親がともに日本に帰るだなんておかしいんじゃないか?

 ……普通なら、片方の親がオハイオに残ると判断するんじゃないんだろうか?

 私は子ども心にも再びそう思ってしまい、結果、両親に対して強い不信感を抱くようになってしまいました。

 またこの問題で沈黙を余儀なくされてしまった私は、やがて誰に対しても心を閉ざすような少女へと成長してしまいました。家族はもちろん、やがて入学する事になった小学校のクラスメイトたちからも「暗い女の子」と認知され、友達もできず、辛い毎日を過ごすようになってしまったのです。

 なお、帰国して以来、私は両親に対して毎日、朝の挨拶に「オハイオ」と言うようにしました。むろん私をオハイオ州に置き去りにした両親に対する後ろ暗い当て付けのためにです。私は母から、何度「"おはよう"と言いなさい」と言われても、「オハイオ」と言う事をやめませんでした。

 そんな私を両親は、心療内科へ連れ出しました。それだって結局のところ、何度も言っているように、「良家の娘がこれでは世間体が立たない」という見栄のためだったのは明白なのですが、ともあれカウンセラーは、

「オハイオ州で、よほど怖い思いをしたのでしょう。無理に『おはよう』と強要するのはやめてあげてください」

 と言うのでした。

 やがて18歳になった私は、左の肩にタトゥーを入れる事を決意しました。自らデザインした、左側の目を閉じている、和柄のウサギのタトゥーでした。それを見た時の母の顔を、私は今でも忘れていません、

 ……「良家の娘がこれでは世間体が立たない」と言わんばかりの、悲しみと憤りの入り混じったあの表情を……。

 しかしそれでさえ、私に言わせれば「オハイオ」と同様、腹いせの一手でしかなく、そんな母の表情を見た瞬間、私はそれはそれは腹黒い満足感を覚えてしまい、つい薄ら笑いすら浮かべてしまったのでした。

 なお、ウサギを選んだのは、「先天性眼瞼下垂症」が、俗称「ウサギ目」と言われている事に由来しています。また左目を閉じているのは、言うまでもなく「先天性眼瞼下垂症」で左目を失明した事のアイロニーです。私をオハイオに放置し、そして左目の光を喪失するきっかけを作った両親に対する恨みや憎しみを、このタトゥーに込めて彫ったのです。

 なお、私はタトゥーを入れてくれた還暦の女性に、その後しばらくしてから、弟子入りさせて欲しいと申し出ました。すると彼女はこう言いました。

「タトゥーを入れたい、でも、男に素肌を見せたくない、……そう思っている女性は決して少なくないのよ。分かる? つまり女性の彫り師って隠れた需要があるって事なの。いいわよ、弟子にしてあげる。ただし、一般的な女性の幸せはもう求めない事。その覚悟がない限り、こんなヤクザな仕事はしない方がいいわ。

 一晩だけ時間をあげる。ゆっくり考えなさい」

 どうせ私のような女を貰ってくれる男性なんているわけがない。そう思っていた私は、次の日もう一度彼女の所へ行き、改めて弟子入りを志願したのでした。

 この師匠が、これまたものすごくお酒の好きな人でして、いつからか、一日の仕事が終わると、私たちは毎晩女同士でキッチンに立ち、共に作った肴で杯を酌み交わすようになっていったのでした。

 また私は毎日のように、主に愛媛県の農家で作られたはいいものの、規格から外れて商品にならないという理由で廃棄された柑橘類を練習台にし、また時に人工皮膚などにも墨入れを行い、師匠の元で彫り師としての腕を磨き続けました。

 幼少の頃から、絵を描く事に関してだけは誰にも負けないという強い自信を持っていた私は、師匠の類稀なる技術と指導力にも支えられ、自分で言うのもなんですが、みるみるうちに腕を上げる事が出来たのでした。

 そんなある日、彼女は私にこう言い出しました。

「あたいの最高傑作は、刺青じゃない、アンタよ……」、と。さらにこう続けるのでした。

「……何にだって世代交代はある。あたいももう歳だし、この仕事をするのにも近頃限界を感じ始めていたの。今まであたい、アンタにサポートしてもらって仕事をしてきたわけなんだけど、今日から逆にならない? つまり、アンタがメインであたいがサポートに回る、というわけ」

 今になって思えば、恐らく彼女は、自分の死期がそう遠くない事を本能的に察知していたのだと思います。事実、私がメイン、彼女がサポート、この体制になってから数年後、彼女は長年の飲酒が祟って肝臓ガンで他界してしまったのでした。

「想新の会」の信者だった祖母が死んだときは何も感じなかったのに、……むしろ逆に安堵したぐらいだったのに、血の繋がっていない師匠が死んだ時、私はオハイオの病院で泣き暮れて過ごしたのと同じぐらいの量の涙を流しました。

 その後、私の仕事量が以前に比べて圧倒的に増えてしまったのは言うまでもありません。またそれからというもの、私の酒量も次第に増え始めてしまったのでした。夜だけだった飲酒は、自営業だった事もあり、しだいに昼から、そして朝から、そして年がら年中飲むようになり、ある日の朝、気付いたら、私は病院のベッドに横たわっていたのでした。

 医師からは、精神病院への三ヶ月の入院を言い渡されました。また、AAや断酒会といった自助グループへの参加を勧められました。でも私には、オハイオ州で発足したAAには何やら本能的な嫌悪感があったのでした、……単なる毛嫌いなのかも知れませんけれども、とにかく医師からの指示に従い、私は熱心に自助グループへと通い続けました。

 なお、AAが正しいとか、間違っているとか、そういう意味で言うわけでは決してないのですけれども、やはり人には、それぞれ「合う・合わない」はあると思うのです。また、同じ断酒会でも、「こっちの地区の雰囲気は好きだけど、あっちの地区の雰囲気はあまり好きではない」、といった事もまたあると思うのです。ただ、大切なのは、とにかく何らかの自助グループに参加し、つい忘れてしまいがちになる酒害体験を掘り起こし、そしてそれを再確認する事だと思うのです。

 先ほども説明したように、酒はドーパミンをはじめとした脳内麻薬を手軽にかつ過剰に抽出する事ができます。一度でもそれを知ってしまうと、脳はその事に味をしめてしまいます、……少しでも楽をしたいという本音は、どうやら人間も脳も同じようなのですね、……ともあれ、結果、「もっと欲しい・もっと飲みたい」という気持ちにブレーキが効かなくなってしまうのです。その先に待っているのは、言うまでもなく連続飲酒であり、生活破綻なのです。

 皆さんもご存知のとおり、そうして落ちるところまで落ちた状態の事を「底つき」と言うわけなのですが、脳はドーパミンの過剰摂取の快楽を知ってしまっているが故に、つい、脳にとって都合の悪い「底つき体験」の苦しさを忘れてしまいがちになります。それを忘れないようにするためにも、自助グループに参加し、酒害体験に耳を傾け、悪しき方向へと「上書き」されてしまった脳をさらに更に「上書き」し、正しい方向へと常に修正し続けなければならないのです。



 断酒会の例会に参加すると、みんなが私を暖かく迎えてくれました。

 私がおずおずと、たった六歳でオハイオ州の病院に放置された時の寂しさや悔しさを打ち明けると、そのうちの一人がこう言ってくれたのでした。

「九条さんも言うように、九条さんがアルコール依存症になってしまったのは間違いなく、やはり親からオハイオの病院に放置された時に負ってしまったトラウマのせいだと思うんです。でも、この病が治らないのは治そうとしない九条さん自身のせいでもあるんです。九条さん、一緒に断酒しましょう」

 半年後、退院した私は正式な会員になりました。

 しかし苦難はまだまだ続くのでした。長い間休んでいた事もあり、私が師匠から受け継いだタトゥー・スタジオは、閑古鳥が鳴くようになっていたのです。

 私はたちまち生活に困窮してしまいました。そしてそれが引き金になり、私は再飲酒スリップしてしまったのです。お金がなかったため、4リットルの大きなペットボトルに入った安物の焼酎を水と氷で割り、無理やり喉に流し込みました。美味しいなんてこれっぽっちも思っていませんでした。でも、お酒を飲むと、師匠との楽しかった日々が思い出され、時に涙が流れるほどの感傷に浸れるのでした。そして、それが理由でどうしてもお酒をやめられなくなってしまったのでした。なお、私はそういった状態の事を、「思い出スイッチが入る」と表現していました。そしてその「思い出スイッチ」を入れるため、浴びるように飲み続けました。でも、落ちるところまで「底つき」した時、ふと思ったのです。

「いくら師匠がお酒好きだったとしても、再飲酒スリップし、連続飲酒に陥り、お酒に呑まれて溺れに溺れている私なんか見たくないと思うに決まっている!」、と。そう思った私は、お酒が切れてブルブル小刻みに震えている手でスマホを操作しました。そして女性断酒会員アメシストの先輩に助けを求めました。すると彼女はわざわざ私のタトゥー・スタジオに訪問してくださり、私の話を親身に聞いてくださったのでした。

 また同時に、スマホでTwitter、……つまり今でいうXを開き、「#Twitter断酒部」というものがある事を知りました。私はひたすら、「#Twitter断酒部」へ、「飲みたい、でも飲まない」といった意味の事を呟き続けました。社会には似たような悩みを持つ人が思いの他多いようで、大勢の人たちが励ましてくれるのでした。

 こうして私は、再飲酒スリップの谷底からどうにかして這い上がる事に成功したのです。

 ここでもう一つ、とても大事な事だと思うので、一つ発言させて頂きたい事があります。

 断酒会の中には、「断酒会でしか酒はやめられない」と頑なに主張する方が少なからずいますが、私は必ずしもそうとは限らないと思っているのです。だからといって断酒会を全否定するつもりはありません。一つのメソッドとして、重要な役割を担っている事は認めているのです。

 でも考えて欲しいのです。

 現在、あらゆる物事が、どんどんどんどんハイブリッド化しています。車はもちろんそうですし、現代において、「男は外・女は中」などと言う人はほとんどいません。むしろ逆に、「男も女も外と中」が現実だと思うのです。またスポーツにしても、例えばバスケットボールの場合、まだ漫画・スラムダンクが流行していた当時は、役割分担がはっきりしていたと聞きました、しかし現在では、何でもできるいわゆる「ハイブリッド・タイプ」の選手の方が主流なのだそうです、戦略的にも、その方が有利だと言うです。かつて、それはそれは優秀なバスケットボール・プレイヤーだった主人が、はっきり「そうだ」と言っているのです。また、詳しくは知りませんが、ボクシングもそうだと聞いた覚えがあります。このように、ハイブリッド的な現代社会に生まれ落ち、ハイブリッド的な思考が常識となっている若い人に対して、「断酒会でしか酒はやめられない」と主張する事は、果たして本当に建設的なのでしょうか?

 むしろ逆に様々なやり方の善い点をハイブリッドに利用して断酒した方が、スポーツと同様、有用なのではないのでしょうか?



 それはそうとして、そんなある日、やはり「#Twitter断酒部」に新しく入ってきたとある男性の方と、私はたいへん懇意になりました。

 スマホの画面越しとはいえ、私たちは何やら、とても気が合いそうな気配を互いに感じ取っていたのです。

 私たちはTwitter経由で、メルアドを交換し合いました。すると彼からこのような、ごくごく個人的な身の上話が送信されてきたのでした。

 ……中学の時、左膝を怪我して大好きだったバスケットボールができなくなってしまい、以来、まだ中学生だというのに浴びるようにお酒を飲み始めてしまった、と。また、

 ……詳しい事は言いたくないのだけれども、両親から受けたひどい誤解のせいで逃げ場を失い、それが飲酒に更なる拍車をかけてもいたのだ、とも。

 互いに似たような心の傷を持っていた事に気づいた私は、「この人になら全幅の信頼を寄せる事ができる」、そう思うようになりました。そして、文字だけのコミニュケーションでは物足りなくなり、……つまり彼の声が聞きたくなり、LINEで通話する事にしたのです。

 それは初めて通話した瞬間ときの事でした。開口一番、彼は何やら奇妙に思える事を言い出したのです。

「不思議だな。初めてのはずなのに、なんか君の声には聞き覚えがある」

 そう言われてみれば確かに、私も彼の声には、不思議と聞き覚えがあるような気がしてきてしまったのでした。

 何よりも、彼が車の話題を口にした時、いよいよ私たちは、相手が一体「誰」なのかを、ついぞ確かめ合う事に相成ったのでした。

「マツダのさ、NA型のロードスター、って分かるかい?」

「分かるよ。初代の車でしょ。お目々がパチッて開く可愛いヤツ」

「そうそう、それそれ、昔その車に乗ってた時、いろは坂のダウンヒルでドリフトに失敗してガードレールに突っ込んじゃってさ、助手席側のリトラクタブル・ライトが閉じなくなっちまった事があったんだ」

「左目が閉じなくなっちゃったの? それ、なんだかまるで、私みたい」

「私みたい? どういう意味?」

「私ね、『先天性眼瞼下垂症』っていう病気のせいで、左目を閉じる事ができないのよ。で、そのせいで左目を失明してもいるの」

 病気について言及すると、彼は幾つかの質問を私に投げかけてきました。

「前からずっと気になってただけど、君、Twitterで呟く時、いつも"おはよう"の代わりに"オハイオ"って言ってるよね?」

「うん」

「あれってなんでなの?」

「ああ、あれね。実は私ね、六歳の時、親からオハイオ州の病院にたった一人で置き去りにされた事があったんだ」

「マジで!? ひっでぇ親だなぁ。でもさ、どうして一人なんかにされちゃったの?」

「親戚に預けてた妹が、インフルエンザで死にかかってるって連絡が日本からきたから」

「いや、そうだとしても普通なら、どっちか片方の親がオハイオに残ると思うんだけど?」

「私も子どもの頃、全く同じ事を思ったよ」

「だよね。で、どうして二人とも日本へ戻っちゃったの?」

「一言で言うと、妹の方が可愛かったのよ、……悔しいけど……」

 一言で、と言っておきながら、私は更にもう一言、つい付け加えてしまいました。

「そっか。……ところで、……もう一つだけ聞いてもいい?」

「何?」

「もし違ったらごめんね。もしかして、君の本名って、

 ……九条七波くじょうななみ?」

「えっ? そうだけど? てゆーかなんで分かったの? なんか怖いんだけど?」

「怖くないよ。てゆーかお前、俺の事を覚えてないか? ほら、オハイオの病院で一緒だった、寺田七海てらだななみだよ」

 そう言われた瞬間、私は思わず、手に持っていたスマホを、

 ……フローリングの上に取り落としてしまったのでした!

 そして、それと同時に、まだ左目がかろうじて見えていた頃、オハイオの病院で、「名前が同じなんだね」と言って互いに笑い合った時の彼の表情を鮮明に思い出してしまったのでした。



 夜も遅かったのですが、その後も私たちは、積もりに積もった身の上話を互いに語り合いました。

 聞くに彼は、あの日あの時、まだ六歳だった私をを持って連れ出そうとしたと誤解されたらしく、それが理由で、「幼児性愛者ペドファィリスト」だと決めつけられてしまったと言うのです。その後、日本に戻ってきてからも、親にすら信じてもらえず、それはそれは辛い思いをして生きてきたのだそうです。また、生まれ育った神奈川県から栃木県へと引っ越したのは、その誤解が原因で両親との関係が険悪になっていた事に加え、七海君のお母さんもまた、重度のアルコール依存症になって精神病院の閉鎖病棟に入院させられたからだ、と言うのでした。

「俺の事を、『ロリコンの性犯罪者予備軍』だと決めつけて信じてくれなかったようなヤツらなんか親じゃない、アカの他人だ。そんなヤツの老後の面倒を見るなんてまっぴらごめん。だから俺は精神的にはもちろん、物理的にも距離を置きたくて栃木こっちへ越してきたんだ……」

 さらに彼はこうも言うのでした。

「……ごめんな。あの時俺が助けてやれなかったばっかりに、左目を失明しちまってただなん」

「そんなの、七海君のせいじゃないよ。あの時の七海君が、七海君なりに精一杯私を護ろうとしてくれていたのは分かってるから……」

 中学生くらいの男の子の正義感が、空回りし過ぎてかえって裏目に出てしまっただけなのは、いちいち確めなくたって嫌というほど分かっていました。

「……こっちこそごめんね。まさか私の知らないところでそんな誤解を受けて苦しんでいただなんて夢にも思ってなかった」

「いや、いいよ、それこそ七波ちゃんのせいじゃない。ところで聞きたいんだけど?」

「何?」

「七波ちゃん、あの後、ちゃんと手術してもらえたのか?」

「もらってない」

「そうか……」

 スマホの向こう側から、七海くんが深呼吸をする音が聞こえてきました。

「……ところで俺たち、再会あわないか? 冬が明けて暖かくなったら、俺、瀬戸内海を越えて車で四国そっちへ行くよ」

「ごめん、それは無理」

「どうして? 彼氏いないんでしょ?」

「そういう問題じゃない。私、自分の容姿に自信がないの。左目もほら、アレだし」

「容姿なんか気にしないよ」

「それにね、私のタトゥー・スタジオって、ネット上で『お化け屋敷』って言われてるんだよ。意味分かる?」

「分からん」

「私の左目が腫れていて、お岩さんみたいだからだって」

「そんな事を言う方が間違ってるよ」

「とにかく、私は自分の容姿に自信がないの、だから私たちは会わない方がいいよ。記憶の中の七海君って、けっこう美形だし」

「バカ。そういうのをな、『思い出補正』って言うんだよ」

 彼はそう言って笑うのでした。

「とにかく、きっと釣り合い取れないと思う」

「そんな事はないって。それに俺、コミニケーション・スキルが高い方じゃなくてさ、ルックスの事はともかくとして、決してモテる方ではないんだよ」

「気持ちは嬉しいの。でもごめん。それに私、女の彫り師なんて超がつくほどヤクザな仕事をしてるわけだし。だから、他にいいひとを探して」

「どうしても、ダメか?」

「とにかく、私は七海君とは今のままの距離感でいたいの。だから、ごめんね」

「……分かった」

 こうして、長い長い夜が終わったのでした。



 なお、これはそれから二日後の事でした。

 バスケが出来なくなって以来、本を読むのが好きになり、その後読書感想文などでそれなりの評価を受けるようになったという七海君から、私のスマホに中原中也の「汚れちまった悲しみに」の替え詩が届いたのでした。初めてそれを読んだ時、私は思わず、お腹を抱えて大爆笑してしまいました。

 それを今から、ここで朗読させて頂こうと思います。



     ☆



    汚れつちまつた肝臓に

          アルハラ 酎嫌ちゅうや



  汚れつちまつた肝臓に

  今日もお酒を注ぎ込む

  汚れつちまつた肝臓に

  今日も負担をかけまくる


  汚れつちまつた肝臓の

  たとへば酵素は幾つかな

  汚れつちまつた肝臓は

  いつかカチコチ肝硬変


  汚れつちまつた肝臓は

  泣き望むかな休肝日

  汚れつちまつた肝臓は

  沈黙ののち腫れ上がる


  汚れつちまつた肝臓の

  いたいたしくも健気なり

  汚れつちまつた肝臓に

  なす術もなく死の影か……



     ☆



 それは、そんな事があってから数週間後の事でした。それまで全く連絡を取っていなかった両親が、突如、私が師匠から受け継いだタトゥー・スタジオに現れたのです。聞くに、あの非常に美しかった妹と、そして旦那さん、さらには産まれたばかりの赤ちゃんまでもが交通事故で同時に亡くなり、後継あとつぎがいなくなってしまったと言うのでした。

「……で?」

 私が冷たく言い放つと、二人は突然、とんでもない事を要求をし出したのです。

「分からないのか? 後継が居なくなってしまったと言っているんだよ! このままでは江戸時代から続く我が一門は終わってしまう。だから頼む。七波の過去は問わない。実家に帰ってきて欲しい」

「過去は問わない、……って一体何よ? 私が何をしたって言うの? だいたい、過去を問われなけばならないのはアンタたちの方でしょう? 私をオハイオの病院に放ったらかしにして日本にとんぼ返りして、妹ばっかり偏愛して、あの時の私がどれだけ不安で寂しかったか、知りもしないで勝手な事ばかり言わないでよ! 親から心の傷を受けると、その子どもが将来アルコール依存症になり易くなるだなんて、現代の心理学では常識なのよ!

 教えてやろうか!? どうせ六歳の子どもがそんな事を言ったって信じてもらえないって思って今までず〜っと黙ってたけど、本当は私ね、あの病院で手術なんて受けてないのよ!? それもこれもアンタたちが一緒にいてくれなかったせいなんだから! だってそうでしょ? 身近に親がいなかったらどうにだって誤魔化しが効くに決まってるもの。

 あの当時、私を拐おうとしたって言われてた当時中学生だった男の子ともネットを通じて偶然知り合ったんだから! やっぱりこう言ってたもん! "悪意はなかった。アメリカ人の医者たちが、手術をせずにお金だけ取ってやろうって言っているのを聞いて居ても立ってもいられなくなっただけだ。あくまでも、このままいったら目が見えなくなってしまうに決まってる君の事を助けてあげたくてああしただけだったんだ"って。

 これでもういいでしょう? アンタたち、とんぼ返り、大好きでしょ? あのご自慢の大きなお屋敷にとんぼ返りしなさいよ! だいたいアンタたち、自分が何を作ってるのか分かってるの? 日本酒だよ? 酒を作ってるのよ! そのせいでどれだけ多くの人が苦しんでるか分かってるの!? 酒は飲み物じゃない、あれは毒なの! 麻薬なの! それも、あらゆる麻薬の中でトップレベルの依存性を持つ極めて危険な薬品なの! 私はそんな物を作っている家になんか絶対に帰りたくありませんし、そんな家業を継ぐ気もありません!

 とにかく帰って!

 そしてもう二度とここに来ないで!」

 私の剣幕に圧倒された両親は、すごすごと引き下がって行きました。

 最高にいい気分でした。



「大事な話がある!」

 七海君から連絡が来たのは、両親を追い返してからさらに数週間後、……換言するなら、六歳の時に七海君と知り合ったのと同じ1月の、それはそれは寒い冬の日の事でした。

「オハイオの病院で、若くて正義感のある医者がいて、その人が七波の手術をしたという証拠が病院側に存在しないって事を突き止めくれたんだ。

 実を言うと俺、NBAで昔活躍していたアントニン・レイカムって人と仲がいいんだ。なんでかって言うと、アントニンさんの親父が少年バスケットボール・チームの監督をやっていて、そもそも俺、最初に知り合ったのはこっちの監督の方とだったんだよ。ホームステイも、オハイオ州にある監督の家でしてたんだ。でも例の『幼児性愛者ペドファイリスト』って決めつけられた騒動のせいで監督からの信頼を失ってしまった俺は、無理やり日本に帰国させられちまったんだ。でも、アントニンさんは俺の事をずっと信じ続けてくれてたんだ。で、実を言うと今、アメリカで弁護士を立てて裁判で争ってるところだったんだよ。ただし、勝つためにはどうしても七波、君の存在と証言が必要なんだ。

 結論を言う。一緒にアメリカへ行こう! 容姿のコンプレックスもへったくれもない! この裁判に勝つ事ができれば、七波は七波で失った左目の賠償金を支払ってもらう事ができるし、俺も俺で、『幼児性愛者《ペドファィリスト』というレッテルが誤解だったって事を証明できる、……そして名誉を取り戻す事ができるんだ!

 だから頼む! 力を貸してくれ!」

 そう、もはや彼の言うとおり、容姿に対するコンプレックスがどうとか、そんな事を言っている場合ではなくなってしまったのでした。「七海君の名誉のためにも戦わなければならない!」、そう決意した私は、あの日オハイオでそうしたのと同じように、

「分かった!」

 と、二つ返事でそう答えたのでした。



 私は直ちに船に乗り、瀬戸内海を越え、関西国際空港へと向かいました。旅費は元NBAの超スター・プレイヤーだったアントニンさんが全て立て替えてくれているとの事でした。

 船の上で、海を見つめながら、私はひたすらこのような事を思い続けていました。

「裁判に協力するのはいい、自分の利益にもなるのだし、何よりひどい誤解を受けた七海君の名誉のためでもあるのだから。でも、私の容姿を見て、七海君はがっかりしないだろうか? その結果、私の事を、単なる裁判に勝つための戦友としてしか見てくれなくなるのではないだろうか?」

 と。

 約束の時間に、私たちは空港で再会しました。するとあの頃よりもさら背が高くなったスーツ姿の七海君が、私を見るなり突然駆け寄って来て、私を強く抱きしめてくれたのでした。私のような器量なしを、ハーフで背が高くてイケメンの彼は、それでもなお、

「会いたかった」

 と言って優しく強く受け止めてくれたのです。私は思わず、大粒の涙を右目からボロボロボロボロ零してしまいました。

「ね? 言ったでしょ? 私はブサイクだって」

 私は彼の胸から顔を離し、彼の目を真正面から見つめました。

「そんな事はどうだっていいよ。それに言っただろ? 俺はコミニケーション・スキルが決して高い方じゃないって。一緒に居てくれるひとがいるだけで、じゅうぶん幸せだよ」

「周りの人たち、きっとみんな思うと思うよ? "あの二人は釣り合い取れてない"って」

「せっかくこうして会えたのに、何つまんねぇ事言ってんだよ!」

「これじゃまるでディズニーの『美女と野獣』の逆バージョンだよ」

「もういい! とにかく行こう! アメリカへ!」



 私は裁判で、「実は手術なんか受けていなかった」と証言しました。その証言は、通訳の人を介して直ちに裁判官に聞き入れてもらえました。する今度は検察官から、

「手術を受けたか受けていないかは、プロの医者が見れば必ず分かる。それを証明するための検査を受けて欲しい」

 と言われ、私はそれを承諾しました。結果、私の証言が正しいという事が証明されたのでした。

 やがて、春の訪れとほぼ同時に、アメリカから裁判に勝訴したとの連絡が日本に届きました。そして私は、多額の賠償金を受け取る事になったのでした。

 また同時に、七海君の名誉を回復する事にも成功したのでした。



 私たちは一年ほどの遠距離恋愛を経た後、次第にどちらともなく、お互いに、一緒に暮らしたいと思い合うようになりました。

 私は例の賠償金を使って、一階をタトゥー・スタジオ、二階を居住スペースにした小さな家を建てました。小欲知足とはまさにこの事とばかりの、小さな小さなお家でした。両親が住むような大きなお屋敷にはまるで興味がありませんでした。自分たちが生活するのに困らない程度の家があればじゅうぶん満足だと思っていました。そして七海くんに高知へと移住してもらい、同棲を始めたのでした。

 春をすぎ、夏が訪れようとしていた頃、私たちは一度本気の大喧嘩をしてしまいました。そして、それが引き金になって再飲酒スリップしてしまいそうになりました。あの時の私は、もう本当に、限界ギリギリの崖っぷちの状態でした。でも、どうにか飲酒欲求を耐え凌ぐ事ができたのは、やはり断酒会の皆さんの支えがあったからなのでした。後になって、実は七海君も全く同じ状態だったと聞かされました。

 その当時、断酒会のある方から、このような厳しい言葉を投げかけられた事もありました。

「アルコール依存症者同士のカップルで、うまく行った人たちを見た事は一度もない。片方が再飲酒スリップすると、それに引きずられてもう片方も必ず飲むようになる、……そして破局する。私が見たアルコール依存症者同士のカップルはみんなそうだった。だから九条さん、悪い事は言わない、

 ……彼とは別れなさい」

 でも、私たちは結局、やり直す事に決めたのでした。

 なぜならこの大喧嘩の一件で、私たちは、互いにとってお互いが、とても大切な人なのだと改めて気づかされたからです。そして、断酒会員の皆さんの協力もあり、元の鞘に戻る事ができたのです。

 ……それからさらに次の年の春。

 ついに私たちは結婚する事になりました。もちろん、断酒会の皆さんに祝福されながら、……です。

 結婚式の式場で、女性断酒会員アメシストの人たちから、私はこのような言葉をかけて頂きました。

「七波ちゃん、保育園の時からず〜っと好きだったひとと結ばれて、本当に良かったね」、と。

 もし、私や七海君に、お酒を断つ勇気がなかったなら、きっと私たちは再会していなかったでしょう。きっとこれは、断酒の神様の思し召しだったのに違いありません。もう、そうだとしか考えられないのです。

 七海君と知り合ったのは、前述のとおり冬の日の事でした。

 再会したのもの冬の日の事でした。

 そして、あともう少しでまた新しい春がやってきます。

 そういえば去年の四月はとても寒かったですね。どうしたわけか自分にもよく分からないのですが、西東京の方にも、交通が麻痺するぐらいの記録的な大雪が降ったそうで、そのようなニュースをテレビで見聞した記憶がなぜか今でも鮮明に残っているのです。

 それはそうとして、やはり私たちは、希望を持って生きていく権利を持っていると思うのです。そのためにも、これからもお酒を断ち、また酒害に苦しんでいる人たちを救うために、力の限り活動していきたいと思っているのです。

 皆さんも、どうかこれからもそれぞれの地域で断酒人生を大いに楽しんで、そしてそれを継続し続けていってください。応援しています。

 また酒害とは直接関係のない暮らしをしている方も、どうかこれからも、そのままお酒を必要としない幸福な生活をし続けてください。

 本日はご清聴、本当にどうもありがとうございました。

 以上です。

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