異世界の片隅酒場『止まり木亭』のいつもの夜
むちむちのルチノー
第1話 いつもの夜と、いつもの二人
カチン。氷がグラスの底を叩く音が静かに響く。
外は、もうずいぶんと前から雨が降っていた。王都アステリアの
(……雨の日は、古傷が軋むな)
客が一人もいないカウンターを磨きながら、ため息をついた。いや、もう古傷ですらないか。S級だなんだと言われたのも、今となっては遠い昔の話。ただのオッサンになった俺の体が、湿気に悲鳴を上げているだけのことだ。やれやれ。
綺麗に剃り上げたスキンヘッドに、ランプの光が鈍く反射する。店の中でも決して外すことのない黒のサングラスのせいで、俺の表情を読み取れる者は誰もいないだろう。それでいい。酒場のマスターなんて、置物みたいなもんだ。
薪がパチリ、と暖炉の中で爆ぜる。
しばらくすると、店の古びたドアベルが、雨音に負けない澄んだ音を立てた。
「……マスター、いつもの」
現れたのは、まるで群れからはぐれ、雨に打たれる孤高の狼の子のように……いや、ただずぶ濡れになっただけの女性冒険者だった。紫色のショートカットは雨でぺしゃんこになり、色白の顔に張り付いている。切れ長の涼しげな目元の下には、見慣れたクマが今日も鎮座していた。常連のアリアだ。
「……ああ」
俺は短く応え、カウンターの下から手際よく、いつもの黒い陶器のカップと、エール用のジョッキを取り出した。
(来たか。また無茶してきたな、あの顔は……。全く、俺たち人間ってのは、なんでこうも短い一生を全力で疲れるために生きてるのかね)
そんなことを思いながら、大鍋で煮込み続けていた特製のビーフシチューを、カップによそってやる。アリアの席に、エールと一緒に無言で置くと、彼女は「……どうも」とだけ言って、早速木のスプーンを手に取った。
ふぅ、と。今日の仕事の全てを吐き出すような、長いため息をついてから一口目を口に運ぶ。
彼女の表情が、ほんの少しだけ和らいだのを見て、俺は再びカウンターを磨く作業に戻った。
いつもの夜の、始まりだ。
アリアがシチューを半分ほど食べ終えた頃だったろうか。
それまで店の隅の薄暗い席で、まるで置物のように気配を消していた影が、ふわりと動いた。
「さてと! 疲れた旅人さんには、お薬の時間ですわね!」
……見た目は、十代後半といったところか。肩まで流れるウェーブがかった金髪は、ランプの光を吸って蜂蜜のように輝いている。服装は、場末の酒場には不似合いな白いワンピース。その胸元には、光の角度で虹色に光る、見事なコカトリスの羽根があしらわれていた。
うちの居候同然の、吟遊詩人。リラだ。
「ふんふ〜ん♪」
彼女は抱えていたリュートをそっと爪弾く。
ポロン、と鳴った優しい音色が、店内の雨音を静かに塗り替えていく。
リラの歌には、歌詞がない。
それは、エルフの里に古くから伝わるという、旋律だけの歌。しかし、その声は不思議な力を持っていた。荒れ果てた大地に染み込む清水のように、ささくれた心を潤し、固く閉ざされた記憶の扉を、優しくノックする。
(こいつの歌は、ただの音楽じゃない。古いエルフの魔法……人を癒やし、時に惑わす、抗い難い力がある。まあ、この店で聴く分には、極上の子守唄だがな)
ちらり、とアリアに目をやれば、案の定だ。
あれほど険しかった彼女の表情は完全に解け、どこか遠くを見るような、無防備な顔で聴き入っている。目の下のクマが、ほんの少しだけ薄くなったように見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
やがて歌が終わり、最後の音が静寂に溶けていく。
その余韻を壊したのは、歌い手本人だった。
「ぷはーっ! しみますわー!」
リラは、いつの間にか彼女の前に置いてあったエールを一気にあおっていた。
その顔には、先ほどの神秘性など欠片も残っていない。
彼女はリュートをカウンターにことり、と置く。とてとてとアリアの隣の席に駆け寄り、その腕に自分の体をすり寄せた。
「どうかしら、アリア! 私の歌、すごかったでしょう! これで寿命100年は延びたんじゃなくって!?」
「はいはい、すごかったね。……わかったから、ひっつくな。酒臭い」
「遠慮しないの! 冷える夜は、こうして美女同士で温め合うに限りますわ!」
「ちんちくりんが何言ってんのよ……ていうか、それ。私の酒」
あの小さな体のどこにそんな力があるのか。見かけによらず、あれでも数百年を生きたエルフということか。アリアが呆れた顔で引き剥がそうとするが、リラはぴったりとくっついて離れない。
俺は二人のやり取りを横目に、黙って小さな木の皿をアリアの前に置いた。
(……口直しだ)
「!」
皿の上に乗っているのは、こんがりと表面を炙ったチーズ。その上には、琥珀色のハチミツが、とろりとかかっている。
アリアの目が、今日初めて星のようにきらりと輝いた。
勿論それを見逃すリラではない。
「なっ! アリアだけズルいですわ! 私もそれ、食べたい!」
「ツケを払ってからな」
俺が短く言うと、リラは頬をぷくりと膨らませた。
「むっ、ケチですわ! マスターのケチ! じゃあアリア、あーんして! ほら、あーん!」
その抗議の声をBGMに、アリアは至福の表情で、ハチミツがけのチーズを小さな一口で味わう。
その瞬間だけ、彼女は疲れた冒険者ではなく、ただの甘いもの好きの女の子の顔をしていた。
(今日の自分へのご褒美は、シチューよりもこっちが本命だったか。分かりやすい奴だ)
心の中でそう呟き、俺は空になったジョッキを手に取った。
やれやれ。今夜も、いつものように騒がしくなりそうだ。
……そう思った、まさにその時だった。
ガラン! と。
今度は、ドアベルが悲鳴を上げるような、乱暴な音を立てた。
「おいハゲ! こんな夜更けにやってんじゃねえか! 酒だ、一番高いやつ持ってこい!」
入口に立っていたのは、見るからに質の悪いチンピラ風の男が二人。酔っているのか、目は据わり、足元もおぼつかない。その汚れたブーツが、俺が丹精込めて磨いた床を汚すのを、俺はサングラスの奥から無感動に眺めた。
アリアの肩に寄りかかっていたリラが、むずがるように「……うるさいですわ〜」と呟く。アリアは、さっきまでの柔らかな雰囲気を消し、すっと背筋を伸ばして警戒態勢に入った。その手に、いつでも動けるように力がこもるのがわかる。
(……始まっちまうか。せっかくアリアが良い顔してたってのに。無粋な奴らだ)
俺は心の中で、本日何度目かわからないため息をついた。
(今日はお引き取り願おうか)
ゆっくりと立ち上がり、カウンターに両手をつく。
「あいにくだが、もう閉店だ」
「あぁ? 聞こえねえな! 俺たちの夜はまだ始まったばかりだ!」
チンピラの一人が、汚い手を伸ばしてカウンターの上の皿を掴もうとする。その皿は、アリアが大事そうに一口だけ残していた、ハチミツがけのチーズだ。
彼女の眉が、ぴくりと動く。
―――それよりも速く、俺の体が動いていた。
いや、動いた、というほどの動きではない。
ただカウンター越しに、すっと右腕を伸ばしただけだ。
長年の修練の果てにたどり着いた、ただ静かに、水の流れるように動く技術。アリアですら目で追うことは叶わなかっただろう。
静かな水面に雫が一滴落ちる、そんなイメージだ。
トン。
俺の人差し指が、それぞれのチンピラの額に、軽く触れる。
次の瞬間、男たちは白目をむき、まるで糸の切れた人形のように、カウンターへ突っ伏した。
店内に、再び雨音だけの静寂が戻る。
「……やれやれ。ここは宿屋じゃないんだがな」
俺は本日何度目かわからないため息をつき、カウンターから出た。アリアが、慣れた様子で立ち上がろうとするのを、俺は手で制する。
「いや、いい。お客は座っててくれ」
客がリラックスできる場を提供すること。
この店を開いた時からの俺の信条だった。
俺は伸びている二人を、酒樽を運ぶ要領で両肩に抱え上げた。
「……そこの飲んだくれを頼む」
アリアにそう言い残し、湿った夜気の中にチンピラを運び出す。
(ったく、外に放り出して濡れたら面倒だ。裏の納屋にでも転がしておくか……)
***
数分後。
俺が店に戻ると、カウンターの周りの空気が、先ほどとは少しだけ変わっていることに気づいた。
リラは、寝てはいなかった。アリアの肩にこてん、と頭を預け、その潤んだ碧眼で彼女の横顔を見上げている。
アリアはそれを拒むでもなく、少し照れているのか、あるいは困っているのか、視線を合わせずに自分のエールをちびりと飲んでいた。その耳が、ほんのり赤い。
リラが、何かを囁く。
アリアが、聞こえるか聞こえないかの声で「……ばか」と呟いた。
その光景を見て、俺はわざとらしくゴホン、と一つ咳払いをしてから、何事もなかったかのようにカウンターの中に戻った。
(……俺がいない数分で、この二人の間にはどんな言葉が交わされたのか。まあ……野暮な詮索はしないでおくか。この店のマスターの仕事は、ただ黙って、最高の酒と少しの料理、そして安全な場所を提供することだけだ)
黙々とグラスを拭き始める。
外の雨は、いつの間にか少しだけ、勢いが弱まっていた。
(……やれやれ。しけた酒場に、場違いな花が咲いちまったもんだな)
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