第22話 最強 と 最愛 ④

 ――ソルディア王国、西門。

 朝焼けとも夕焼けともつかぬ空の下、静まり返った門前の道を、一頭の黒馬が駆けていた。


 その背には、全身を返り血で染めた騎士と、胸元にぐったりと身を預けた少女――

 ゼルバナト・ソルディアと、その腕に抱かれた王女リアナ。


 すでに兵の誰もが戦場からの帰還を諦めていたそのとき、門番のひとりが、霞む視界の先に何かを見つけて目を見開いた。

「まさか……っ!」


 開かれたままの城門の前で、ひとりの青年が佇んでいた。

 ノーグ――

 血の気の失せた顔で、それでも目だけはただその馬影を見据えていた。


 やがて馬が門前に辿り着く。

「――開けろ」

 その声は、かつての豪胆なゼルバナトのものではなかった。

 すべてを焼き尽くした灰の中に、まだ何かが燻っているような、掠れた命の声だった。


 ゼルバナトは門をくぐるなり、怒声を上げた。

「――医療塔へ通せ!! 今すぐにだ……!!」

 城門の衛兵たちが動き出す。だがその背に、微かに震える声が届いた。

「兄様……もう、いいの……」

 ゼルバナトの足が止まった。リアナを抱く腕が震える。


 リアナが、そっと顔を上げようとする。

 その眼には、光がない。けれど、その頬には微笑みが浮かんでいた。

「分かってるの……私の命が……もう長くないってことくらい。助からないわ」

 彼女はゼルバナトの胸を、か細く、とんと叩いた。

「だから、お願い……ここで、下ろして」

 その声は、風に消え入りそうなほど弱く――けれど、揺るぎない意志があった。

「……いるんでしょう? ノーグ様」


 ゼルバナトは何も言わずに、リアナの身体をそっと抱き上げた。

 ノーグの前で静かに立ち止まると、ゆっくりと膝を落とし、リアナを丁寧に地に横たえた。


 ノーグの顔は青ざめ、唇が震え、血に濡れたリアナの姿に目を奪われていた。それでも彼は震える声で――だが確かに、応えた。

「……お、おります……リアナ様……」


 リアナは血に濡れた唇を震わせ、声を搾り出した。

「……ノーグ様……わたくしの手を、握っていただけますか……?」


 うつむいたまま動けなかったノーグは、指が千切れそうなほど拳を握り締め、震えながら一歩前へ。

 差し出された白い手――矢の柄で擦れ、乾きかけた血がまだこびりついている。


 その儚い小さな手を、彼は両手でしっかりと包み込んだ。

 まるで、失われゆく火を守るように。


「……わたくし……もう、ノーグ様のお顔を……見ることができません……」

 その一言で、ノーグの堰が切れた。

 人前では決して崩さなかった冷静さが音を立てて砕け、頬を伝う雫がリアナの手の甲にも落ちる。


 リアナは痛みをこらえるようにかすかに息を吸い、続けた。

「初めてお会いしたあの日から……ずっと、あなたの背中を追いかけてまいりました。あなたが子どもたちに語る“学び”と“希望”、その澄んだ言葉が――わたくしの光でした」


 ノーグは嗚咽を押し殺し、首を振る。


「いつの日からか……わたくしは……ノーグ様に恋をしておりました。でも……わたくしは何ひとつ、希望を――子どもたちにも……あなたにも、与えられませんでした」


「リアナ様……そんなことありません。貴女は……貴女の存在が、私たち民の――私の“希望”そのものです」


 ふたりの言葉が、心を抉るように耳に届く。ゼルバナトは黙して、血に濡れた拳を大地に押しつけた――まるで、痛みごと埋めるように。

 肩が痙攣し、声にならない嗚咽が喉奥でくぐもる。


 リアナの指が、ノーグの手をそっと撫でる。

「……それでも、今……とても、幸せなのです。ずっと触れたかった人に……最愛のあなたに、こうして手を握っていただけたのだから……」


 ノーグは涙で濡れた手で額を押さえ、震える唇を噛み締めた。

「……私は、リアナ様に以前、“間違いがあってはいけない”と……言いましたが……私は“ずっと間違えていました”」


「……え?……」


「貴女が“姫様”だからと……自分の気持ちに嘘をついておりました……貴女がソルディアを去った“あの日”……貴女を連れ去ってしまえば良かった……っ……! 私は……貴女に対しては……“間違えてばかり”だ」


「そんなことは……ありません……」


「……リアナ様……私も……誰よりも、あなたを……愛しております……ですから……だから、どうか……どうか――」

 喉が詰まり、声が震え、言葉が続かなくなった。

 何を願えばいいのかも分からない。命を、未来を、せめて笑顔のままの最期を――そのすべてを乞うには、ノーグの声はあまりにも弱すぎた。


 リアナは、今の自分にできる限りの笑顔を見せた。

 それはきっと、満面の――けれど、光を失った顔に浮かぶその笑みは、誰の目にも、揺れる灯火のように儚く見えた。

 瞼の奥の闇でさえ、誰かを想い、救おうとする――そんな祈りが宿っていた。


「ゼル兄様……わたくしに……ありがとうを、言わせてください……最後に、こうして愛するお方のもとに……連れてきてくれて――ありがとっ……」

 ゼルバナトの胸に、裂け目のごとく太い嗚咽が走った。

「ノーグ様……わたくしは……王族として……この国に平和をもたらすことが……できませんでした……でも、一人の女の子として……殿方を愛することができて……毎日幸せでした」


「リアナ様……私も――ぐずッ……」


「ノーグ様……だいすき♡」


 ノーグの涙が、リアナの手の甲を温かく濡らし続けた。

(……どうか、このふたりを……お守りください……ソルディアに……明るい未来を――)

 リアナは、ふたりの愛情に包まれながら、まるで祈るように――そっと、最後の息を吐いた。

 それは、灯火が風に揺れ、音もなく消えていくような、静謐な別れだった。


 そして――

 彼女の手から、そっと力が抜けた。


 白く細い指が、花びらのように、ゆるやかに崩れていくように、ノーグの手から零れ落ちた。

 風は穏やかで、夜の城壁は高く冷たい――


 しかし、その冷たさよりなお深い哀しみが、ふたりの魂と、天へ昇った一つの祈りを包み込んでいた。

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