第17話 選んだ自由 と 選べぬ運命 ②
――一年前の冬。
それは、ただの歴史の一頁ではなかった。
誰にとっても――決して、忘れられぬ痛みの始まりだった。
長きにわたり、ソルディアとネブラザールは、睨み合いを続けていた。
国境を越えての小競り合いは幾度も繰り返され、そのたびに兵は倒れ、民は怯え、幼子は眠れぬ夜を過ごした。
けれど、ゼルバナトが国を出てから一年の激化は、それまでの比ではなかった。
突如として勢いを増したネブラザール軍は、まるで牙を剥く獣のごとく、次々と辺境の砦を打ち破り、ソルディアの防衛線は音を立てて崩れていった。
王都陥落――その言葉が現実味を帯びたのも、この頃だった。
このままでは、国が滅ぶ。
そう判断したのは、戦場に立たぬ者たち――王宮の上層部だった。
彼らが選んだ“平和”の手段は、戦うことではなかった。
それは、敵国との「融和」の名のもとに、王女を差し出すという決断だった。
名目は“友好の証し”。
そしてその役目を担わされたのが、他ならぬ王女――リアナ・ソルディアだった。
反論は許されなかった。
形ばかりの“同意”を求められ、彼女の返事を待たずして、婚姻の書状は交わされていた。
事実上の拒否権など、初めからなかった。
この国に生まれた“王女”という名のもとに――彼女の人生は、他者の手で決められてしまった。
◆
――王宮の回廊に吹き込む風は冷たく、石壁をなぞるように乾いた空気がすり抜けていく。
リアナのソルディア出国の日――その朝、彼女は城門前に立っていた。
控えの馬車には白布がかけられ、衛兵たちは無言のまま隊列を整えている。
まるで国全体が、声をひそめて彼女の旅立ちを見守っているかのようだった。
馬車の前で、リアナは静かに振り返った。
そこには、どこか言葉を探すように、戸惑いを顔に滲ませたノーグが立っていた。
「……ノーグ様……」
「王女様……本当に……行ってしまわれるのですか?」
ようやく絞り出された声は、かすれていた。
「……民が悲しみます。子どもたちも、大人たちも。貴女の名を知るすべての人が……」
「わたくしも、みなのことは忘れません」
「いえ、違います。――一番悲しんでいるのは、私です」
その言葉は、決壊した想いのように零れ落ちた。
静かに、けれど痛ましく。
「あなたがこの国を去ることが、何よりも……苦しい」
リアナは息を呑み、顔を上げる。
その瞳が、ゆっくりと揺れる。
「わたくしのこの身ひとつで、争いが終わるのなら……この国に、少しでも長く平和が訪れるのなら――」
「――しかし、それでも……!」
遮るように、ノーグが声を上げた。
普段の彼からは考えられないような、荒れた語気だった。
「その代償に貴女を失うくらいなら……そんな平和など……!」
声が震えたのは、怒りでも悲しみでもなかった。
それは、ずっと胸の奥に押し込めてきた、たった一つの願いが、ようやく形になろうとしていたからだ。
(ノーグ様が……)
リアナの胸を締め付ける。
ノーグは拳を握りしめ、まっすぐにリアナを見つめる。
その瞳には、もう迷いはない――覚悟を決めた、男の顔だった。
「私は……貴女を一人の女性として、恋い焦がれてきました。敬意でも、忠義でもありません。ただ……ただ、一人の人間として。貴女の笑顔を見れば救われ、貴女の涙を思えば眠れなかった。毎日……あなたの美しいその瞳に映ることがどれほど幸せな日々だったか……」
静かに吐き出されるその言葉は、剣よりも真っ直ぐで、かつて誰にも向けたことのない、彼のすべてだった。
リアナの瞳が、より揺れる。
それは、長い夢の終わりを悟ったような、淡く、微かな光だった。
「……どうして、今になってそんなことを……」
リアナは目を伏せ、ほんのわずかに唇を震わせた。
でもすぐに、それを静かに飲み込む。
気づかれぬように、深く、静かに息を吐くと――たった一歩だけ、ノーグの方へ歩み寄った。
けれど、言葉は返さなかった。
何も応えなかった。
その沈黙が、答えだった。
ノーグの告白に、どれだけ心を揺さぶられても。
その腕に飛び込みたいと願っても。
彼女は、“王女”としてそこに立っていた。
ノーグは一歩も動けなかった。
触れたかった。手を伸ばしたかった。
けれど――その距離が、これほど遠いとは、知りたくなかった。
ノーグの胸に刻まれたのは――答えのない沈黙と、ただひとつの覚悟を決めた女性の姿だった。
代わりに、ノーグの瞳から零れた雫が、石畳に小さな音を立てて落ちた。
「……リアナ様」
名を呼んだのは、初めてだった。
彼女は、それだけで満たされたように、静かに微笑んだ。
涙ではなく、誇りと祈りと――恋を湛えた、たった一度の微笑みだった。
「わたくしは……この国の未来のために、歩まねばなりません」
声はかすれていたが、決意は滲んでいた。
「それに――貴方は、“間違っては”いけません」
そう言って、リアナは――笑った。
涙を見せない。
泣いてはいけない。ここで心を揺らせば、自分の想いを伝えてしまったら、もう二度と――
◆
白い馬車の扉が、静かに閉じられる。まるで、この国との繋がりが、ひとつ音を立てて断たれるように。
やがて、車輪がゆっくりと石畳を転がりはじめた。
その音は、遠くへと――けれど確かに、重く、胸を打った。
馬車は、すでに曲がり角を過ぎていた。
もう、あの人の姿は――どこにも、見えなかった。
それを確かめた瞬間、張りつめていた何かが、ふっと切れた。
声にならない想いが、喉の奥から漏れる。
「ひっ……ぐすっ、ひぅっ……ああっ……!」
こらえていた震えが、肩に走り、指先にまで及んでいく。
ひとすじ、涙がこぼれた。
それを皮切りに、次々と――まるで、長いあいだ封じていた想いが、一気に溢れ出すように。
胸の奥が熱く軋み、しゃくり上げる音が、堪えきれずに漏れた。
「ひっ……くぅ、ぐっ、あっ……ああああっ……!!」
泣いてはいけないと、自分に言い聞かせてきた。
それでも――止めようとしても止められなかった。
「あ、わああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
王女としての誇りの裏で、ただの一人の少女として、愛した人に応えることもできぬまま、国を背負い旅立つしかなかった、そのすべてが――
「うっ……うぐっ……ひっ、ひぃ……うわぁあああああんっ!!」
嗚咽となり、震えとなり、冷たい指の先にさえ、まだ、名残が滲んでいた。
触れられなかった手が、そっと胸元で止まる。
――触れることさえできなかった。
最後に呼ばれた名が、心のどこかで、今も温かく灯っていた。
すべてが、たまらなく愛おしく、胸を締めつけるほどに切なかった。
どれほど嬉しく、どれほど切ないか――
その日が、彼女の十八歳の誕生日だった。
誰からも祝福されることなく、誰の胸にも飛び込めぬまま、王女としてではなく、一人の人間として生きたかったその願いは、馬車の揺れの中に静かに溶けていった。
彼が最後に告げてくれた想い――それだけが、たったひとつの贈り物だった。
「ノーグ様……わたくしも……」
心の奥で何度も繰り返すたびに、彼の声が遠ざかっていく。
まるで、夢のように儚い現実だった。
そして気づけば、目元にそっと熱が滲んでいた。
その熱こそが、胸に秘めた想いの大きさを物語っていた。
――たとえ触れられなくとも。
あの背を、あの言葉を、今も忘れられずにいる。
あれが最後であってはならない――ノーグの胸には、今もその想いが静かに灯っていた。
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