英雄王ゼルバナト
雨ノやゆよ
第1話 傲慢な冠 と 自由なき鎖 ①
王宮の一室に、微かな風が吹き込んだ。朝の帳がゆるやかにめくられ、最東端の空が明るみはじめる。
ゼルバナト・ソルディアは、その光の中で静かに目を閉じた。
窓の外では、民が目覚め、兵士が行進し、日々の営みが始まっていく。
いま、誰もが彼を“王”と呼ぶ。
そして、“英雄”と讃える者もいる。
そう――すべてが始まったあの日……彼は、自らの力に一片の迷いも抱いていなかった。
あの朝に還ろう。
名もなき者の、はじまりの日へ。
その掌にあるものは、永遠だと信じられた。
未来が、光を失うことなく続いていくと、疑うことさえ知らなかった、あの場所へ。
――これは、“英雄王”ゼルバナトの叙事詩である。
太陽がまだ昇りきらぬ東の空。
澄んだ風が丘陵の城壁をすり抜け、馬のいななきと剣戟の音を連れてくる。
城の裏手――訓練場の石畳に、ひときわ大きな声が響いていた。
「どけどけぇぇ! 俺様に斬られたい奴から順番に並べぇ!」
そこには、十七歳の若きゼルバナト・ソルディアがいた。
豪快な笑みを浮かべ、稽古用の木剣を振り回しながら、王族の少年らしからぬ乱暴さで突っ込んでいく。
兵士たちは顔をしかめつつも、王の血を引く者として彼に逆らえず、次々と吹き飛ばされていった。
「……また始まったか、あの問題児が」
「よりによって朝からこれだ。訓練場が壊れる前に誰か止めろよ……」
あきれ声が次々に上がる中、本人は気にする様子もなく馬で駆け回っていた。
「ははっ!よっわ!こんなんで王国の盾が務まるかぁ!? なあ、お前ら、もっと全力で来いよ!」
「ゼル兄様!」
ふいに、透き通るような声が遠くから飛んできた。
ゼルバナトが振り返ると、訓練場の入り口に立っていたのは、一人の少女だった。
日の光をふわりと弾くような、淡い金糸の髪が風に揺れる。花のつぼみのように控えめな白のドレスに包まれたその少女は、兄の姿を見つけるや否や、ぱぁっと表情を咲かせた。
その瞳は――朝露を湛えた湖面のように澄み渡り、見る者の心をそっと洗うような優しさに満ちていた。
春の朝に咲く一輪の花のようにあたたかく、誰よりも無垢で、誰よりもまっすぐな笑顔だった。
「父上がお呼びよ。朝の祈祷の時間、忘れてるでしょ?」
リアナ・ソルディア――十六歳。王女でありながら、誰にでも同じ目線で語りかけ、平民にも笑顔を向ける、全ての国民の“光”のような存在だった。
ゼルバナトは口をとがらせながら木剣を放り投げた。
「ったく、またあの堅物どもの儀式かよ……お前が俺の代わりに行ってこいよ」
「ふふ、それが許されるなら喜んで行くわ。でも、兄様が行かないと、またルダイン兄様に叱られるわよ」
「チッ、あいつの小言なんか聞いてられるかっての……」
ぶつぶつと文句をこぼしながらも、馬から降りたゼルバナトは、リアナの後を追って歩き出した。
その足取りは、訓練場の熱気に名残を残すように、静かに遠ざかっていった。
朝陽がゆっくりと昇っていく。その柔らかな光の中、兄妹の影が並ぶ。
王宮の奥、荘厳な石柱が連なる“黎明の間”――ここが、ソルディア王家が代々祈りを捧げてきた神聖な場である。
ゼルバナトは重たい扉を押し開け、天井の高い回廊へと足を踏み入れた瞬間、思わず顔をしかめた。
「……相変わらず、空気が重てぇな。息が詰まりそうだ。うえ゙ぇ」
白銀の香炉が静かに煙をたなびかせ、厳かに祈祷歌が流れている。
その奥には、王である父――ゼオリス・ソルディアが、正装で静かに座していた。
王の隣に控えるのは、知性を湛えた瞳の母、ネリア王妃。
その右手、玉座を一歩引いて立つのが、長男――ルダイン・ソルディア。気配を消すように静かに佇む彼の姿は、まるで王の影のようだった。
対して、左手に仁王立ちしていたのは、鋭い目を光らせる次男――エリオット・ソルディア。厳格で知られる彼の視線が、ゼルバナトを捉えて離さない。
そして遅れて現れた三男、ゼルバナトはというと、靴のまま絨毯に突っ立っていた。
「……遅いぞ、ゼルバナト」
低く、抑えた声が石の回廊に響く。
長男の視線はいつも通り厳しく、まっすぐにこちらを射抜いてくる。
「寝坊でもしたのか? それとも、また兵士相手に暴れていたのか?」
「どっちでもいいだろ。俺が来たんだから黙って祈らせろよ」
言い返したゼルバナトに、ネリア王妃はひとつため息をつき、指を鳴らした。
「身なりが乱れているワ。王家の血を継ぐ者として、最低限の礼儀くらい弁えなさい。……いや、もはや何百回目の忠告になるのかしら」
「だから……そういう説教がうっとおしいって言ってんだよ」
小声でぼやきながらも、ゼルバナトは絨毯の上に膝を折った。
リアナが隣にそっと並び、笑いを堪えながら耳元で囁く。
「ふふ、今日も安定のゼル兄様っぷりね。ほんと、ゼル兄様は台風みたいだわ」
「ああ、めんどくせぇ。早く終わってくれ」
やがて、祈祷師が入室し、古の神々への祝詞が始まる――
柔らかな朝光が、祭壇の水晶鉢を照らし始める。祈祷師の低く澄んだ声が空気を震わせ、重厚な詠唱が神殿の天井に反響する。白い香煙がゆるやかに揺れ、まるで見えぬ精霊たちが舞っているかのようだった。
ゼルバナトは伏せた額の向こうから、隣のリアナの気配を感じていた。静かに手を組み、真剣に目を閉じる妹。白のドレスの袖が微かに揺れ、陽の光を受けて彼女の金の髪が薄く光を帯びる。
(……どうせ、こんなことやったって、国が良くなるわけじゃねぇだろ)
不遜な思いが心に浮かぶも、声には出さず、吐息とともに喉奥に沈めた。頭を下げながらも、斜めに視線をずらせば、父ゼオリス王の厳かな横顔が見える。その隣で、母ネリアは目を伏せ、静かに胸元で祈りの印を描いていた。
その右手、ルダインがわずかに身を乗り出し、玉座を護るかのように鋭い目を光らせている。
対して、左手のエリオットは静かに座し、口ひとつ動かさず、微動だにしない。その沈黙は威圧でも反抗でもなく、ただ深く潜った水底のような無音の存在感を放っていた。
――自分だけが浮いている。
ただの形式。意味のない儀式。――そう思おうとするたび、なぜか胸の奥が、かすかに痛んだ。
そのとき、隣のリアナがそっとゼルバナトの手をつついた。ふいに顔を上げれば、彼女は柔らかな微笑を浮かべ、唇を動かす。
「兄様にも、光はちゃんと届いてるよ」
声は聞こえなかった。けれどそのまなざしは、どんな言葉よりも優しく、まっすぐだった。
ゼルバナトは視線を逸らし、少しだけ眉を寄せた。
けれどその頬には、ほんのわずかに赤みが差していた。
祝詞の声は、尚も響き続けていた。けれど、ゼルバナトの耳には遠くぼやけていた。
――この王国は、いったいどこへ向かっているのだろう。
父ゼオリス王の治世は、五十年を越える。老いたとはいえ、玉座の威光は未だ健在。けれど王の命運が永遠でないことなど、誰の目にも明らかだった。
王位の継承は近い。だがそれを語るのは、剣よりも鋭い禁忌だった。
第一王子――ルダイン。
王家の誇りを最も濃く受け継ぎ、軍を掌握し、国の意志を強引にでも貫く力を持つ男。いずれ玉座に座るべき者として、誰もが認めていた――否、認めさせられていた。
第二王子――エリオット。
多くを語らず、王政に忠実な姿勢を貫いていた。貴族政権派の一員として慎重に振る舞いながら、いつしか多くの貴族がその判断を仰ぐようになっていた。
――じゃあ、俺は?
ゼルバナトは、自嘲気味に息を吐いた。
不出来な第三王子。放蕩と反抗。王族という名を盾に、好き放題に生きてきた。誰よりも自由で、誰よりも軽んじられている。
ゼルバナトにとって、王位継承なんてものは、絵に描いた餅より遠い話だった。
“どうせ兄たちが継ぐもの”、そんな他人事の意識が、彼の心を縛ることはなかった。
けれど、ある時を境に、彼の中に「疑問」が芽生えた。
この国には、何かがおかしい――そんな感覚が、心の奥で静かにうずいていた。
それを言葉にしてくれたのは、妹・リアナだった。
王族や貴族だけが法であり、声であり、力とされる現状。王都から遠く離れた辺境の民は、名も持たず、字も知らず、飢えている。
リアナは、そんな彼らに手を差し伸べ、書を教え、人として語らっていた。
その姿に、ゼルバナトは何度となく息を呑んだ。
彼女の夢は、この国を変えること。誰もが「人」として扱われる国を築くことだった。
そんなできた妹の兄とは思えぬほど、ゼルバナトは自由気ままに生きていた。
この国の未来? 体裁? 儀礼?
そんなものより、今はただ――退屈な儀式が一刻も早く終わることを願っていた。
祝詞が終わり、鐘の音が厳かに鳴り響く。
玉座の前では家族たちが次々と、厳格な顔つきで跪いていく。ゼルバナトは、ただそれを眺めながら、腰に手を当てて溜息を吐いた。
(……長すぎんだよ、毎度毎度)
王になどなりたくない。
王になんて、向いていない。
それよりも――
「どこか遠くに、行ってみてぇなぁ……」
口に出す代わりに、ゼルバナトは心の中でそう呟いた。
周囲の小国を訪ね、名もなき町で酒を飲み、誰にも縛られず剣を振るう。
そうやって、風のように生きられたら――と、ふと思うことがある。
けれど、この国は自由を許さない。
幼い頃から教えられてきた王家の掟、兄たちとの格差、貴族の序列。
自分はただの三男坊――少しばかり剣が使えるからって、それだけで、宮廷内では浮いた存在だった。
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