第34話 捕縛された幽霊

午後八時三十八分。

校舎の蛍光灯が、最後の残光を絞るようにじりじりと点滅していた。定時を過ぎても消灯されていないその明かりの下、三階の廊下に一つの人影が伸びている。


その夜、校内に残っていたのはただ一人。

英語科教師・桐谷智則。四十歳を超えても独身を貫き、几帳面で無口な性格の彼は、いつも他の教師たちが帰った後に黙々と仕事をする“夜の常連”だった。


廊下の奥。消灯されたはずの非常口の脇に、ぼんやりと浮かび上がる人影があった。


最初は誰かの忘れ物でも取りに来た生徒かと思った。だが、そのシルエットにはどこか異様な違和感があった。


月明かりを反射して艶めくそれは――紛れもなくこの学校の女子生徒の制服、セーラー服だった。しかし、歩き方が重く、肩幅も女性にしては広すぎた。そして、腕の振り方が男性のそれだった。


「……は?」


桐谷は、瞬時に思考が停止するのを感じた。

目の前の現実を脳が処理するまでに、わずかに数秒の遅れが生じる。


制服姿の“生徒”が、こちらを見た。


顔がはっきりと見える距離ではなかったが、彼の背筋を這うように寒気が這い上がったのは、その表情ではなく“顔立ち”そのものだった。


――明らかに中年男性の顔だった。


男は驚いたように一瞬立ち止まり、そして、まるで見られてはならないものを見られたかのように、動揺の気配を滲ませた。次の瞬間、男は踵を返して廊下の奥へと走り去った。


「ま、待て……!」


桐谷はとっさにスマートフォンを取り出し、警察へ通報した。


やがてサイレンの音が近づき、夜の校舎に赤色灯の光が差し込んだ。


数分後、校舎裏で男は捕らえられた。

黒髪のカツラを外したその顔には深い皺と汗が浮かび、セーラー服の襟元は乱れていた。


男の名前は――久米原透(くめはら・とおる)。

駅前にあるドラッグストア『ナチュラル・ウェルビー堂』の店長であり、穏やかで礼儀正しい中年として近隣では知られていた人物だった。


取り押さえた警官たちが男のカバンを調べると、中には折りたたまれた予備の制服一式と、メイク用の道具、そしていくつかの撮影用と思われる小型の三脚まで入っていた。


「……これは、どういうことですか?」


取調室での事情聴取に、久米原はうなだれながらこう語った。


「制服は、フリマアプリで見つけました。出品されていたのは“ここの学校のもの”だって書いてあったんです。昔から憧れてたんですよ……あの制服。だから、着てみたくて。どうせ誰もいないと思って、校舎で歩いてみたら、本当に……夢みたいで」


夢、という言葉に、刑事の一人は思わず鼻を鳴らした。

その夢は、完全に悪夢だ。


だが、奇妙なことに、久米原の行動には“犯罪の意図”がほとんど見受けられなかった。

鍵のかかっていなかった非常口からの侵入、制服の所有は合法な購入品、盗聴や盗撮の機器も所持していなかった。


ただ、ただ、制服を着て歩いていただけ。


そして――この事件の本当の恐怖は、ここからだった。


警察は念のため、校舎全体の捜索に乗り出した。

夜の校舎に警官が懐中電灯を向けて歩く光景は、まるでホラー映画のワンシーンのようだった。


そのとき、演劇部の部室前を通りかかった捜査員が、かすかな物音を聞き取った。

「……誰かいるな」


静かにドアを開け、部室内に入る。

演劇部で使う衣装棚、舞台道具、脚立、衣装ケースの奥。

その隅にある、清掃用具入れの扉がわずかに開いていた。


ひとりの警官が無言でうなずき、ドアノブに手をかけ――一気に開いた。


そこにいたのは、明らかに異様な人物だった。

部室の制服を抱え、しゃがみ込んで息をひそめていた中年の男。

彼の目は、まるで獣のように怯え、そしてどこか恍惚とした光を帯びていた。


男は何も語らなかった。

だが、調べが進むにつれて、夜な夜なこの学校に忍び込み、演劇部の部室に潜伏し、衣装を持ち出すという異常な行動を繰り返していたことが明らかになった。


彼は「制服泥棒」だった。


取り調べで男が語ったのは、背筋の凍るような日常だった。


「私は……決して誰かを傷つけたわけではありません。毎晩、生徒たちが帰宅するのを待って、誰にも見つからないように校舎に入って……あの掃除用具入れに潜って……」


そこからが、異常だった。


女子生徒が部室で衣装に着替え、部屋を出ていく。

その隙に制服を盗む。

そして、また、掃除用具入れに再び潜み、夜が更けるのを待つ。

警備員も帰り、誰もいなくなった頃合いを見計らい、音を立てぬように校舎を抜け出す。


それを、ここ数ヶ月にわたり繰り返していたのだ。


制服はすべて私物として“コレクション”しており、リュックに入れて密かに持ち帰っていた。

問いただされた男は、涙を浮かべながら、そう淡々と語った。


警察は一時、この男を――吉本和華及び笹本花恋の殺害容疑者として追及した。


演劇部所属の吉本と笹本が、直前に制服を紛失し、屋上から転落死していた。


「制服を盗もうとしたところを見られ、口封じのために殺した――」


それが捜査本部の見立てだった。


彼の自宅からは、丁寧に個別包装された女子制服が整然と保管されていた。

いずれも、盗まれた日付と保管袋のメモから、学校内での盗難と一致するものだった。


だが、そこに――ただ一つ、“無い”ものがあった。


笹本花恋の制服。


他の制服がきちんと記録され、タグごと保存されていたのに、

それだけが、まるで“最初から存在しなかった”かのように、消えていた。


斎藤平蔵は、事務机に肘をつきながら、窓の外を見つめていた。


「彼は明らかに病的だ。校内に忍び込んで、生徒の制服を盗んでいた。“制服を盗むために長時間部室に潜む”という異常な行動も、彼の嗜癖の延長線上にある」


平蔵は低く呟いた。


報告書を手にしていた若手刑事の佐伯が、複雑な表情で応える。


「……けど、殺人の証拠は何一つない。笹本花恋さんが亡くなった日は、友人と食事をしていることがわかっています。また、吉本さんの死亡推定時刻にも明確なアリバイがあり、ただ“制服を盗んだだけ”というのが確定しています」


平蔵は報告書を閉じ、静かに溜息をついた。


「制服泥棒であることは間違いない。だが――殺人犯ではない。……そう、ひとまずは“そう判断するしかない”」


だが、その結論には、どうしても“余白”が残っていた。


なぜ、他のすべての制服があるのに、“笹本のものだけがない”のか。


何かが、おかしい。


物証がない以上、殺人容疑で拘束し続けることは不可能だった。

男は窃盗と住居不法侵入、軽犯罪法違反の容疑で処理され、殺人との関連については、正式に「無関係」として処理された。


「あまりにも都合が良すぎる。笹本の制服だけが、ないなんて――偶然で済ませられるのか」


平蔵は、報告書を閉じて溜息をついた。


犯人は別にいるのかもしれない。

その真相を知っているのは、今やもう、

屋上から落ちた少女――笹本花恋だけだった。

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