第24話 薄い墨

――5月下旬・書道室にて


昼休みの書道室は、いつもより少し肌寒かった。


窓を開け放つと、初夏の風がふわりと半紙の上を撫でていく。

古びた畳敷きの部屋には、いつもなら墨の香りが満ちているはずだった。

けれどその日、その香りはどこか弱く、かすれていた。


新垣由紀――3年生。

書道部の部長にして、部内で最も墨と紙に誠実な生徒。

顧問不在の昼休みも、一人黙々と筆を握ることを日課としていた。


その日も、午後の練習に備えて早めに部室に入り、硯と墨を整えていた。

準備をする手つきはいつも通り。墨汁を小さな陶器の器に注ぎ、筆を湿らせる。


――シャッ。


筆を回したときの音が、わずかに違う気がした。

滑らかであるはずの感触が、どこか水っぽく軽い。

違和感を抱きながらも、半紙を一枚取り、試しに筆を走らせてみた。


筆跡は、かすれていた。


黒く鮮やかであるべき墨の色が、淡く、どこか灰色がかっていた。


「……あれ?」


思わず声が漏れる。

もう一度、硯に筆を戻し、今度は別の筆で同じように書いてみる。

やはり同じ。文字はにじみ、輪郭を結ばない。


(水っぽい?いや、こんなに?)


新垣は首を傾げ、卓上の墨汁ボトルを手に取る。

キャップを開けて中身を見ても、見た目には異常がない。

けれど筆に含ませたときの濃度と、紙に落ちたときの色味は、確かにおかしい。


試しに、少しだけ濃くなるよう墨を足してみた。

しかし結果は変わらない。

その不自然さに胸騒ぎを覚え、新垣は棚からもう一本の墨を取り出す。

予備用に保管していた未開封のものだ。


蓋を開け、同じように器に注いで筆をとる。


――シャッ。


……薄い。


新品でも、同じだった。


「……どれも、薄い」


唇の奥に、冷たい不安が広がっていった。


昼休みが終わりに近づいた頃、部室には1年生の部員たちが数人やってきた。


「こんにちはー……あれ、部長?」


新垣は軽く頷き、筆を置いて顔を上げる。


「ちょっと、聞きたいんだけど。今週、墨の色、変だったって気づいた人、いる?」


1年生たちは顔を見合わせ、少し戸惑いながら首を振った。


「……今週は仮名文字の臨書だったから、あまり墨使ってませんでした」


「昨日は紙の整理だけだったし……」


「でも、なんか……におい、薄くないですか?」


「におい?」


「はい。なんとなくですけど……墨のにおいって、もっと強くなかったですか?」


新垣はゆっくりと頷いた。


墨には独特の香りがある。木の灰と油、そして歳月の香り。

けれど今日はその香りが、どこか頼りなかった。


部室の棚には、開封済みの墨汁が7本。

そのうち3本を実際に試したが、どれも同じ“薄さ”を抱えていた。


(全体が薄まってる? じゃあ……誰かが水を混ぜた?)


だが、それにしては奇妙だった。

墨汁は1本ずつ密閉されており、誰でも触れられるわけではない。

混ぜるには蓋を開け、中身を移すだけの明確な“手”が必要だ。


いたずらにしては範囲が広すぎる。

事故ならば、もっと均一ではないはずだ。


(これは……意図的な“改変”)


けれど、なぜ。

書道部の墨を薄めて、誰が何を得る?


新垣の思考は、部室の静寂の中に吸い込まれていく。


放課後。

新垣は職員室の隅にある椎名顧問の机を訪れた。


静かに話すタイプの教諭であり、生徒との距離を丁寧に保つ人だった。

だが、一度話し始めれば、彼はしっかりと耳を傾けてくれる。


新垣は、今日の出来事を順を追って伝えた。


「水を混ぜた痕跡は……見つかっていません。でも、3本以上、明らかに薄くなっていて。1本は未開封でしたが、それもです」


椎名は黙って頷き、机の引き出しから管理ノートを取り出す。


在庫と使用量を管理する帳面。部員ごとの補充担当と記録日が一覧で書かれている。

欄は几帳面に埋められ、1年生の担当日も明記されていた。


「確か、先週末に1年生が補充係だったね。……だが、それだけじゃ説明がつかない。3本、いや7本中3本以上に変化があるとなれば、範囲が広すぎる」


新垣は顧問の手元を見つめながら、静かに言った。


「先生……これは、誰かの“意図”があるように思えてなりません」


椎名は筆を置くようにゆっくりと眼鏡を外し、卓上に置いた。


「……記録は、嘘をつかない。だが、記録されない行為は、“嘘”にすらならない。だからこそ、こういう違和感を、しっかり残しておくことが大事なんだ」


「はい」


たとえ“証拠”にはならなくても、“記録”にはなる。

墨の色は、日々のわずかな違和感を知らせる声のようでもあった。


新垣の中に、小さな決意が芽生えた。

この出来事は、単なる“書道部の中だけの問題”ではないのかもしれない。


最近、学校内ではあまりにも異変が多すぎる。

連鎖するように起きる体調不良。

保健室の混雑。

謎の栄養ドリンクの噂。

薬物の存在を仄めかす声――


そして今、ここに“墨の異変”が加わった。


「墨って、まっすぐな黒だと思ってました。けど……今日みたいに、灰色になったり、何か混じると全然違う」


「色も、記録も、そして人の言葉も――まっすぐであるとは限らないよ」


椎名の声は静かだったが、言葉は芯を持っていた。

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