第21話 拡散される甘い毒
夕方の図書室には、他の生徒の気配がなくなりつつあった。
閉館時間が近づき、教室よりも早く静けさが訪れるこの場所には、ふたりの少女だけが残っていた。
窓の外では、夕陽が静かに沈みかけている。
本棚の影が長く伸び、古びた机の上を橙色に染めていた。
鈴木彩はスマホ画面を見つめていた。
SNS――
その空間は、日々何百、何千という情報が行き交う。
だが、その中で一部の高校生たちの間に、ある投稿が突如として繰り返しシェアされ始めた。
まるで誰かが“意図して仕掛けた”かのように、それは広がっていた。
「最近これ飲んでから、マジで集中力上がった」
「寝不足でもイケる。まじやばい」
「しかもこれ、痩せるって。受験生におすすめ!」
投稿とともに添えられていたのは、見覚えのある“形”だった。
それは市販のミニ栄養ドリンク――あの、コンビニのレジ付近に並んでいる茶色い瓶に酷似していた。
ただし、ラベルにはどこか既製品にはない色合いと、英語とカタカナの混ざった奇妙な名前が印字されている。
「WILL ACTIVE」
「NEURO BOOST」
「集中+覚醒」
「1日1本で、変われる」
誰が最初に投稿したのか、もうわからなかった。
だが確実に、それは“意図的にターゲットを絞って広がっている”ように見えた。
ハッシュタグは、《#勉強効率UP》《#ダイエット効果》《#隠れ受験生の味方》。
派手さのない投稿に、学生たちは徐々に興味を惹かれていく。
「市販のエナジードリンクみたいだし、まあ……飲んでも大丈夫じゃね?」
「薬って感じしないし、パッと見、普通のサプリだし」
容器の蓋を開ける音。
軽く炭酸の抜けるような“シュッ”という音。
そして、甘くフルーティな匂い。
パッケージデザインは洗練され、薬品のような警戒感はなく、まるで“合法”の装いをまとったファッションアイテムのようですらあった。
彩は震える指先で、画面をスクロールした。
次々と流れてくる写真。
茶色い瓶。光沢のあるラベル。簡素なコピー。
(なんで……こんなものが、こんなに広まってるの?)
そのとき、ひとつの仮説が、彩の中に落ちた。
(これ、近くで“売られてる”……?)
単なる違法薬物の密売ではない。
これは、もっと巧妙で、誰でも手が届くように“仕立てられた”パッケージ――
合法スレスレを装いながら、堂々とSNSという“教室の裏口”から侵入してくる毒だった。
彩は、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
(これは……偶然じゃない。広めている。誰かが、意図的に)
それはもう、“流行”という言葉では片づけられない。
それは、甘い言葉で包まれた“毒”だった。
「勉強に効く」「痩せる」「気分が上がる」――
だがその代償は、やがて取り返しのつかない“代償”になる。
このままでは、次に倒れるのは――
また、誰かの隣にいる誰かかもしれない。
静かに広がる恐怖は、もう“噂”ではなく、現実になろうとしていた。
「うーん……」
彩が顔を上げると、藤野美緒が眉間にしわを寄せたまま、ノートに顔を押し付けるような体勢でうなっていた。
小さな声で、何かを呟きながら、筆箱を開けたり閉めたりして落ち着かない。
「……ごめん、私ずっとSNS見てた。なに?難しい問題でも出た?」
軽く声をかけると、美緒はビクリと反応し、顔を上げた。
「あ、違うの!問題は全然いける。いけるっていうか、いける“はず”なんだけど、今はそれどころじゃないというか……」
「……?」
彩が首を傾げると、美緒は数秒黙り込み、それから意を決したように小声で告げた。
「……篠田の誕生日、来週なんだよね」
「へえ」
「でさ、毎年なんかしらあげてるんだけど、もう何あげていいかわかんなくてさ……。今年って、“もう何年目だっけ”ってくらいで、被りそうだし、ネタ切れっていうか……はぁ、悩む……」
彩は、黙って美緒の言葉を聞いていた。
美緒の指が机の上でそわそわと動いていた。
シャーペンを立てて回し、その芯を半分飛び出させたまま、また戻す。
その落ち着きのなさに、彩は目を細めた。
「……それって、“あいつのこと”が気になってるってことなんじゃないの?」
彩の問いかけに、美緒は目を丸くした。
「は!?ちがっ……!?」
声が少し裏返った。
しかも、返答が早すぎた。
美緒はあたふたと手を振り、顔を真っ赤にしながら言い訳を重ねる。
「違うってば!あいつはただの幼馴染!保育園からの付き合いで、もう家族同然っていうか!好きとか、そんなんじゃないし!!」
彩はしばらくその姿を見つめていたが、やがてふっと目を伏せて、かすかに笑った。
「……分かった。信じるよ」
「信じてない顔してるし!」
美緒は頬を膨らませてむくれた。
だが、彩の頬に浮かんだ笑みは、以前よりもずっとやわらかかった。
少しだけ、呼吸がしやすくなるような。
そんな空気が、机のあいだに流れていた。
「じゃあさ、なにがいいと思う?彩ちゃんって、何気に首席入学の秀才でしょ?センスもよさげだし」
「それ、関係ある?」
「あるよ!だって、そういう人って空気読めるし、気が利くし、プレゼントとかも考えてくれてそうだし……」
彩は苦笑して、ペンの先を唇にあてて少し考えた。
「うーん……そうだな。派手じゃないけど、あったかい感じがするものがいいかも。
たとえば――焼き菓子。市販じゃなくて、少しだけ“手をかけた”ようなやつ。気取らないけど、“ちゃんと選んだ”って分かるような」
「……いいね、それ。彩ちゃんが言うと説得力あるし。てか、今の語彙力すごいわ。国語の評論書けるやつ」
「おだてないで。照れる」
「照れてないくせに」
ふたりは顔を見合わせた。
美緒は小さく笑いながら、手帳を取り出し、こっそりメモを書き留めていた。
その横顔を見つめながら、彩はふと気づく。
この時間が、こんなにも静かであたたかいということに。
これまで抱えてきた薬や転落死。
あまりにも重すぎて、あまりにも冷たかった。
その中で、ずっと自分自身の色すら見失っていた。
でも――
「ねえ、彩ちゃん」
「ん?」
「今日、なんか……すごく優しい顔してるね。びっくりした」
「……そう?」
「うん。“あの彩ちゃん”って、もっと鋭い感じだったし。最近、“人間味”増したって感じ」
「失礼な……」
彩は肩をすくめて、ノートに目を戻した。
でも、胸の奥が、少しだけ軽くなっていた。
くだらない話。
意味のない悩み。
どこかこそばゆいやりとり。
――それが、彩にとっての“救い”だった。
「……ありがとう」
美緒が顔を上げる。
「え? なにが?」
「ううん、こっちの話」
彩はそう言って微笑み、またペンを走らせた。
図書室の窓の外では、夕陽が地平線に沈みかけていた。
カーテンがふわりと揺れ、机の上の紙がめくれた。
それは、新しい日常のはじまりの合図のようにも思えた。
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