落陽ノ主
青木尚樹
第1話
夜の霧は重く、湿っていた。
峠の焚火にくすぶる炎は赤黒く、煙は空へ昇らず、地を這っていた。
尊良は火のそばに座し、身動きひとつせず煙を見つめていた。
質素な黒の旅装。だが、その背には不思議な重みがある。若いが、軽くはない。
その傍らで、日野時千代が静かに薪を継いだ。
年端もいかぬ少年だが、指先にはためらいがない。
ただ、いつでも立てるように腰を浮かせている。
「殿下」
霧の奥から声。岩陰から姿を現したのは楠木正俊。
剣を佩き、白い装束に旅の塵をまとっていた。
「三。足取りは重いが、慣れている。小鹿方の兵、でしょう」
「範満が動いたか」
尊良は顔を上げることなく、かすかに笑った。
「火を落としますか?」
「いや、構わん。目が慣れた者ほど、眩しさに惑う」
正俊は小さく頷き、焚火を崩した。
炎が割れ、煙があたりを満たす。
霧が深くなる。音が消える。
だが、気配はある。
蹄の音。馬上の息遣い。
近い。すぐそこまで来ていた。
正俊が一歩、前に出る。
刃に手をかけることもなく、霧の奥へ体を向けた。
一騎目が飛び出した。馬上の男が刀を振りかざし、殺気を浴びせてくる。
正俊は踏み込まず、鞘で馬の顎を打った。
馬がのけぞり、同時に抜刀。喉元へ一閃。
血が熱を持って空気を裂く。
二人目。地を蹴って駆ける。中段。足が揃っていない。
正俊はその間合いに、踏み込まずに滑り込む。
刃を合わせず、肩を外し、脇を斬る。
男が呻くより早く、正俊は霧の奥を見た。
三。――矢。
気配が、別の角度から迫る。馬上ではない。狙いは尊良。
正俊が身を翻した瞬間、霧が横に裂けた。
斬撃の音もなかった。ただ、風が一筋、走った。
男の首が裂け、矢は放たれる前に消えた。
刃を納めて現れたのは、大道寺重時。
言葉はない。振り返ることもせず、足を止める。
その背から、伊勢新九郎盛時――新九郎が現れた。
外套をはらい、深く頭を下げる。
「遅れて申し訳ありません。南主、ご無事で何よりです」
尊良は焚火を見たまま、応えた。
「遅いな、新九郎。都で、お前が門に立っていたあの夜よりは、まだ早いか」
新九郎はかすかに目を伏せる。
「……あの頃より、足が鈍ったかもしれません」
「ふむ。鈍ったな」
炎が崩れ、灰が舞った。
尊良がようやく目を上げ、新九郎に向き直る。
「範満は、焦れているようだな」
「はい。竜王丸様の側は手薄です。兵も資金も、思うようには……」
「そこで、私か」
「正俊殿と話し、南主の力を頼るべきだと」
新九郎の声音に迷いはなかった。
「今は、勝機を得るために、できる手を打つべきと考えました」
「幕府に知られれば?」
「……背を預けている者たちに、余計な詮索を呼びます」
尊良は、火の奥に視線を向けたまま、口の端をゆがめた。
「……知ったところで、奴らがどうする?」
新九郎は答えなかった。
尊良が言葉を継ぐ。
「お前が問うべきは、自分の背ではなく、どこまで火に手を伸ばすかだ」
「……承知の上です」
焚火がわずかに火花を跳ねた。
尊良はその火を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「四年前の都。夜に会ったな」
「……ええ」
新九郎はゆっくりうなずいた。
「思い出せるほど、遠い記憶になりました」
尊良は微笑んだ。
「忘れるな。ああいう夜こそ、大事だ」
日野時千代が静かに声をかけた。
「南主、お冷えになります」
「うむ。歩こうか」
正俊が霧の奥を指す。
「重時が道を払っています。この先、峠の下で一度休めます」
尊良が立ち、新九郎がその背に並ぶ。
霧の中、足音だけが続く。誰も言葉を発さない。
しばらくして、新九郎がぽつりと漏らした。
「……使われているのは、私の方かもしれませんね」
尊良は振り返らず、霧に向けて言った。
「それでいい。今はな」
夜は深く、霧は濃い。
火の残りも、やがてその中に消えていった。
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