猫神様
有笛亭
第1話 第一章 猫島
野良犬は、今の日本ではめったに見ることができない動物となっているが、野良猫はいたるところで見かける。誰かが餌を与えているというのもあるだろうが、仮にそれがなくても野生の猫は、その小さな体格と敏捷性で、どこにでも隠れ、生き物を捕まえることができる。要するに食と住に困らない。
だいたい犬と猫はスキルが違い過ぎる。樹木や民家の屋根に上ったりできる猫は、犬よりもはるかに能力が高い。そのうえ、見た目が可愛いときている。野良猫が生き残らないわけがないのだ。
野良猫は、単純に家の外にいるからそう呼ばれるが、しかし、田舎へ行くと、家猫との区別がつかないことがある。とくに農家などは家猫が自由に家の外をほっつき歩いている。都会ではまずそんな不衛生なことをさせる者はいないのだが。
もちろん地方でもマンションなどで飼われている猫は小奇麗で血統が正しいものが多い。が、野良猫は都会であろうと田舎であろうと人間の手がかかっていないから体毛が汚れ、ノミ・シラミの棲家となっていることがある。しかし、野良猫には野良猫の魅力があり、自活を強いられる点で、たくましさがある。
そのワイルドな生き方に魅力を感じたのが、木田さなえという二十代半ばの女性であった。さなえは独身で、アルバイトで生計を立てているが、大の野良猫マニアで、休みの日は、たいてい野良猫の写真を撮りに外に出ていた。というのも、さなえは写真家になる夢を持っていたからだ。
写真家はカメラマンとは違い、芸術家の範疇に入るが、それだけに競争が厳しい。間口が狭い。これで食べていくには、相当な才能と努力と運が必要だ。まず世間に才能を認めてもらわなければならない。名を売るということだ。
世間に才能を認めてもらうには自分が撮影した写真を人に見せなければならないが、当たり前のことだが、そのために高いレンタル料金を払って街のギャラリーで個展を開いたりする。
さなえは貧乏である。だから、これまで一度も個展を開いたことがない。といって発表活動をまったくしなかったわけではなく、さなえは雑誌や新聞などの写真コンテストには毎回応募していた。
結果はいつもあと一歩というところで落選していたのだが、今回は違った。
某カメラ雑誌の写真コンテストにさなえの作品が入賞を果たしたのだ。それは十枚の野良猫の組み写真で、大賞ではないものの二番目にいい金賞を獲得した。これによってさなえは、若干の賞金とその雑誌の出版社から写真集を刊行する権利を手に入れた。つまり印税が貰えるということだ。
れっきとしたカメラ雑誌の出版社から写真集が出るということは、写真界の芥川賞とも呼ばれる木村伊兵衛写真賞の候補に推薦される可能性が非常に高いということを意味し、そしてこの大きな賞を獲得した暁には、さなえは写真家として堂々と歩んでいくことができるのだ。
カメラ雑誌の編集長は、さなえにこう言った。今回、金賞を取った野良猫の組み写真は、撮影者の野良猫に対する愛情がひしひしと伝わり、そして迫力のあるものだった。それが評価されたので、今度作る写真集もぜひ野良猫に絞ってほしいと。
それはさなえにとって好都合であった。なぜなら、さなえは、他の被写体、たとえば人物にしても風景にしても、あまり得意ではなかったからだ。野良猫だけが、人並み以上にうまく撮影できた。ただ問題なのは、撮影場所である。
さなえは普段、近くの公園や神社仏閣の境内で撮影している。が、それではあまりにも平凡過ぎていまひとつインパクトがない。せっかく写真集を作るのだから、特別な場所がいいだろう。
ちょっと世間から隔離されたような場所で、野良猫を朝から晩まで撮影する、というのが、写真集として、まとまりがあり説得力がある。
──島に住む野良猫は面白いかもしれない──
さなえはふと、そう思った。島は外部と遮断されている。そのため、本土では見かけないような毛並みの猫がいる可能性がある。また、風景自体、本土とは違う。
幸いさなえの住む街から、海はそう遠くない。多島美で知られる瀬戸内海である。
人間が住む島なら野良猫もいるはずだ。
と、さなえは数日間の予定で瀬戸内の島めぐりを開始したのは、四月の下旬のことであった。
旅館が数軒、スーパーマーケットも小中学校もある、なかなか繁栄した大きな島に、木田さなえの乗ったフェリーは到着した。
さなえはリュックサックを背負って上陸した。
港のそばにうどん屋がある。お昼であったので、さなえはその店の暖簾をくぐった。
店の中は地元の人でいっぱいだったが、カウンターの隅に席がひとつ空いていた。さなえはそこに腰を下ろして、きつねうどんを注文した。
うどんは消化にいい。島中を歩くつもりでいたさなえには最適な食事と言える。
因みに、さなえの後ろはテーブル席で、地元の人たちが世間話に花を咲かせていた。さなえはそれを聞くともなく聞いていた。すると、話の中に猫島という言葉が頻繁に出てきた。
さなえは耳を傾けた──どうやら、その島で、明後日、婚礼が行われるらしい。
メルヘンチックなさなえは、小舟に乗った文金高島田の花嫁姿を想像し、猫とともに撮影対象になりそうな予感を受けた。
さなえは早速、スマホのマップで、猫島というのを探した。ところが、どういうわけかそんな名前の島は近くになかった。
まさか遠いところにある島を、地元の人がわざわざ話題にするはずがない。
で、さなえは、食事を終えた後、勇気を出して地元の人にたずねた。
「あのう、ちょっとお聞きしたいのですが、先ほどから皆さんの会話の中で猫島というのがよく出てきますが、その島はこの辺にあるのでしょうか? 地図を見ても載っていないのですが」
その質問に、小柄な地元民が答えた。
「猫島というのは、この辺の通称で、本当の名は○○島というのだよ」。
なるほど、○○島なら、今いる島の隣にある。大きくはないが、ここも人が住んでいる。
「私、その島に行きたいのですが、どこから船に乗ればいいのですか?」
「なんとあなた、あの島に行くつもりかね。それはやめときなさい。行っても大して見るところはないですぞ。凶暴な猫がいるだけじゃ。それも化け猫が」
このとき、どっと店中で笑いが起こった。
化け猫──大いに歓迎。さなえは本土とは違った野良猫を撮るのが目的で島に来たのだ。
「化け猫でもいいです。それと明後日、婚礼が行われるそうですね。私、その婚礼を見てみたいです」
「いやその婚礼がある日が、野良猫が一番凶暴になるのよ。それに婚礼と言っても、人間同士ではないのよ。ひとりは人間だが、もう一方は猫じゃ」
またしても店中で笑いが起こった。
猫と聞いて、さすがのさなえも驚くしかない。
「猫ですか──」さなえはちょっとがっかりしたように言った。
「猫と言っても猫神様だよ。そこら辺にいる猫とは違う。そしてその婚礼というのは、いわゆる祭りのひとつで、三十年に一度という奇祭なのよ。今年が前回から数えて三十年目ということになる。ところがこの祭りの日は、なぜか毎回のように事件が起こる。わしの考えでは、この日は、島中の野良猫が猫神様の護衛をするから、気が荒立っているんだろうね──いや、この話はやめとこう。長くなるからな。とにかくあの島は、あなたのような若い女性が一人で行くところではない。少なくともわしは賛成しない。──しかし祭りは明後日だし、今日行って今日帰ってくる分にはそう危険でもないだろう。もっとも、野良猫にちょっかいを出さなければ、だが」
「はい。分かりました」さなえは、まるで生徒のように答えた。
地元の人は、やれやれといった感じで、船着き場とその時刻をさなえに教えた。
その時刻が迫っている。窓から見ると、小さな客船が防波堤の中に入って来ていた。
さなえは地元の人にお礼を言い、うどん代を払って、すぐに店を出た。
その際、さなえは店の隅にいた若い男性のことが気になった。というのは、男性は日焼けをした精悍な顔をしていたが、なぜか眉間に皺を寄せて、じっとさなえの顔を見ていたからだ。
猫島行きの発着場は、港の一番外れにある。人間のみが乗れる小さな客船で、ぽんぽん音を立てていた。
それはほんの短い船旅だった。
船窓から眺める猫島は、幅・八百メートルほどのいびつなおにぎりのような形をした島で、切り立った崖が多く、砂浜はあまりない。
船は防波堤の中に入った。
民家は港の周辺に密集していた。平地はわずかしかないので、家は後方の山の中腹に向かって建ち並んでいた。
小さな島であるから飲食店はなく、食料・雑貨兼用の店が一軒あるが、おそらくそれも、米や缶詰など長期保存が利くものばかりで、野菜やフルーツなど新鮮なものはあまり置いていないのだろう。
上陸したさなえは、すぐにリュックサックからカメラを取り出して、首にかけた。これはさなえにとっての戦闘態勢である。もっとも、さなえは今まで野良猫から攻撃を受けたことは一度もない。猫も賢いから、自分に危害を加える人間かどうか瞬時で分るのだ。
また本土の猫は、さなえと顔なじみであるから、かなり接近した距離で撮影ができ、それが迫力となっていた。
さなえの猫島に降りた第一印象は、やはり猫が多いことだ。視界のどこにでも猫の姿がある。
ただ、地元民が言ったような凶暴そうな猫は見かけない。少なくとも港周辺にいる猫は、本土の猫より、のんびりしているようにさなえには見えた。
のんびりしているのは、猫だけではなく、島の老人たちも、三、四人、ベンチに腰を下ろして、ぼうっと海を眺めていた。大変のどかな光景であった。
しかし気になったのは、老人たちがみな手に頑丈そうな杖を持っていたことだ。もちろん老人が杖を持つのはしごく当然なことではあるが、さなえはなぜか武士が刀を持っているような、そんな印象を持った。
港の片隅に、島の案内板がある。鳥観図であるが、それを見ると、この小さな島にも民宿が一軒あるようだった。
島の中腹に民宿と書いて、点がうってあるのだが、しかし、こういうところは、夏のシーズンしか営業しないところもあり、泊まるには予め確認をする必要があった。幸いなことに電話番号が記されていたので、さなえはその場で電話した。
中年の女性の声で、宿泊は可能、ということだった。
さなえは、親切に忠告してくれた地元民には悪いが、明後日の午後までは、この島にいることにした。
田舎の祭りは、たいてい明るい昼間に行われる。とくに婚礼は。だから、その夕方の船で隣の島に移れば、本土に向かう最終フェリーに余裕で間に合うのだ。
三十年に一度の奇祭を見逃す手はない。格好の被写体になる可能性があるのだから。
因みにこの鳥観図には、鳥居のマークがある。山のてっぺんにあるということは、ここに猫神様が祀られているのだろうか。
さなえは民宿に着いたらまずリュックサックを置いて、そのてっぺんへ行ってみよう、と心に決めた。
猫島は、アスファルトで舗装された道は港周辺のみで、その他の道はモルタルか未舗装である。車自体皆無であり、自転車も坂が多いため使用されることもなく、あるのは猫車とリヤカーで、それで十分な島の広さではあった。
民宿への道は、モルタルの比較的緩やかな上り坂で、その坂道において、さなえは何度も野良猫とすれ違った。本土の猫と変わらない可愛らしさで、はたして本当に化け猫がいるのだろうか、とさなえは訝った。
坂道をある程度上ったところで、さなえはふと思い出したように後ろを振り返った。
海がキラキラ輝いている。どの民家の屋根にも猫が寝そべっている。これだけ猫がいれば、もう他の島へ行く必要はない。三日間この島にいれば、持って来たフィルムを全部使い切るだろうと、さなえは計算するのだった。
柑橘系の段々畑の中に、民宿・島猫亭と看板が掛かった白い瀟洒な建物が見えた。平屋だが山の傾斜に沿って奥行きがある。土地が狭いためか屋上が物干し場となっていた。
さなえは玄関で声をかけた。
すぐに奥から中年の女性が現れたが、この女性が電話に出た民宿の女将だった。色の白いぽっちゃりした顔立ちで、赤縁眼鏡をかけていた。
「はいはい、先ほどの方ですね。お一人様ですか?」
「はい一人ですが、いいですか?」
「もちろんいいですよ。今はシーズンオフですから、釣り客以外はめったに来られません」
「では二泊ほどしたいのですが──」
「二泊とは珍しい。──この島に何か目的があって来られたのですか?」
「はい。野良猫の写真を撮るためです」
「へえー野良猫の」女将はちょっと笑って、「それはとても変わったお客さんですね。まあこの私も猫が好きで、島猫亭と名前を付けたほどですが。しかしこの島の猫はちょっと危険なところがありますから、写真を撮る際は十分にご注意ください」
「化け猫がいるとか──」
「ははは、どこからそんな話を」
「隣の島の人から聞きました。それと、明後日この島で猫神様の婚礼が行われるそうですね」
「そうなのよ。まあ立ち話はなんですから、とりあえずお部屋のほうに上がってください」
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