第1話:黒髪の赤ん坊

 次に意識が浮上した時、俺は赤ん坊になっていた。


「おぎゃあ、おぎゃあ!」


 自分の意思とは無関係に、か細い産声が漏れる。状況は最悪だが、頭は妙に冴えていた。前世――黒江葉だった頃の記憶は、26年分、そっくりそのまま残っている。だが、身体は生まれたての赤ん坊そのもの。手足を動かすことすらままならず、ただ泣き叫ぶことしかできない。この無力感は、前世で幾度となく死線を潜り抜けてきた俺にとって、屈辱以外の何物でもなかった。


(異世界転生……。まさか、アークスの野郎が言っていた与太話が、本当だったとはな)


 あの男、とんでもないことをしやがる。組織の目的は、十傑と呼ばれるトップメンバーしか知らない。だが、俺が独自に調べていた仮説――異世界で力を得て、それを持って帰還する。それが、この組織の戦力増強の秘密だったというわけか。俺は、そのための実験台、あるいは新たな駒として、この世界に送り込まれたのだろう。


「まあ、なんて元気な子でしょう。あなた、見てください。あなたの目にそっくり」


「おお、本当だ。俺たちの子だ……。ありがとう、ミリア。よく頑張ってくれたな」


 優しい声がすぐ側で聞こえる。温かい何かに抱かれている。これが、俺の新しい両親、トマス・ゼーヴァルトとミリア・ゼーヴァルトだった。父のトマスは、日に焼けた腕にたくましい筋肉をつけた、快活そうな男。母のミリアは、出産直後で疲れているだろうに、俺を見つめるその表情は慈愛に満ちていた。


 そして俺は、ノエル・ゼーヴァルトとして、この世界に生を受けた。


 この世界の名前は『テラ・スフィア』。俺が調べていた、あの与太話に出てきた名前と、奇しくも同じだった。そして俺が生まれたのは、アシュタロテ大陸の片田舎にあるリーフェンという小さな村。木と石で造られた家々が並び、窓の外からは鳥のさえずりと、家畜の鳴き声が聞こえてくる。前世で見てきた、コンクリートと硝煙の匂いが支配する世界とは、あまりにも違う、のどかな風景だった。


 父のトマスは元上級冒険者で、今は村の用心棒のような仕事で生計を立てている。母のミリアは没落した中級貴族の家の出で、今は村の薬師として、その知識と人柄で村人たちから深く信頼されていた。二人とも、絵に描いたような善人だ。傭兵として汚れ仕事ばかりしてきた俺には、少し眩しすぎる。


 この世界には、独自の暦が存在していた。ノエルが生まれたのは五雄暦812年とのことらしい。


「今年は豊作だといいんだが」


 ある日、父が窓の外を眺めながらそう呟いたのを聞き、俺はこの世界の時間の流れを知った。


 そして、この世界には『魔素』が存在した。

 大気中に満ち、あらゆる生物が体内に宿すエネルギーの源。人々はそれを『魔力』に変換し、『魔法』として生活のあらゆる場面で利用していた。

 俺が少し大きくなったある日、父のトマスが手のひらに小さな火の玉を灯して見せた。


「すごいだろ、ノエル!これが『火』の初級魔法さ。お前も大きくなったら使えるようになる」


 自慢げに笑う父。俺はその光景を、冷静に観察していた。ゆらめく炎は、科学では説明できない熱量と光を放っている。これが、魔法。


(現世の十傑たちが使う力の正体はこれか。大気中のエネルギーを、体内で変換して放出する……なるほど、効率的だ)


 俺は、自分の体に意識を集中させてみる。すると、体内に温かいエネルギーが循環しているのを感じた。これが魔素。黒江葉だった頃の体にも確かにこの感覚はあったが、その量は比較にならないほど少ない。この世界は、魔素で満ちている。呼吸をするだけで、体内に力が満ちていくのがわかる。


(なるほどな。アークスが俺を送り込んだ理由が分かった気がする)


 この世界で力をつけ、組織の駒として戦え、ということだろう。不本意ではあるが、悪い話ではない。黒江葉として生きた26年間、俺は常に力を求めていた。それは、生き抜くための術であり、空虚な自分を埋めるための唯一の手段だったからだ。


「どうした、ノエル?ぽかんとしちゃって」


「……うー、あー」


 心配そうに顔を覗き込む父に、俺は意味のない声で応える。思考は大人でも、身体は赤ん坊。このもどかしさにも、いずれ慣れるのだろうか。


(まあ、いい。利用できるものは何でも利用するさ)


 神か、悪魔か、あるいはアークス・レオンか。誰の掌の上だろうと関係ない。

 俺は、ノエル・ゼーヴァルトとして、この世界で最強になってやる。

 異世界での新しい生。それは、退屈な日常の終わりと、新たな戦いの始まりを告げていた。

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