雨と傘

田波 霞一

第1話

 ——雨宿り——


 灼熱の太陽が、容赦なく地上を焼いていた。陽炎に揺れるアスファルトは、熱を吸い込んで鈍く光り、足元から立ちのぼる蒸気が視界をぼやかしていた。通りを行き交う人々は、皆どこか急ぎ足で、影を求めるかのように身を縮めている。


 その日、彼は所用で出かけた帰り道、昼前の陽射しの中でふと歩を緩めていた。頭上にはまだ青空が広がっていたが、南の空には不穏な雲が立ち込めていた。そんなことを思った次の瞬間、空が急に鉛色に染まり、風向きが変わる。大粒の雨が、まるで音もなく降り始めた。


 アスファルトを叩いた雨粒は、白い煙を立ち上らせた。熱を帯びた地面が、慈雨に冷まされてゆく。土埃と混じったあの特有の匂いが、乾ききった空気を湿らせ、どこか懐かしいような感覚を呼び起こした。


 ふと気づくと、自分のすぐ隣に、一人の女性が、まるで吸い寄せられるように同じ庇の下へと歩み寄っていた。路地裏の喫茶店の前、古びた軒先の庇の下に、二人して立ち尽くしていた。肩から濡れた白いブラウスはしんなりと肌に張りつき、細い紐が布越しにうっすらと浮かんでいた。湿った生地は、まるで彼女の体温そのものを伝えてくるかのように生々しかった。濡れた髪は背中に張りつき、そこからぽたり、ぽたりと雫が落ちてゆく。


 彼女は手元の小さなハンドバッグを抱えたまま、何も言わずに雨の帳を見つめていた。その横顔には化粧がほとんど流れていないのが不思議なほど、淡い美しさがあった。声をかけるつもりなどなかった。だが、その静かな佇まいと、無言の存在感に惹かれ、自然と口をついて出た。


「いきなりの雨で、まいったね」


 彼女は少し驚いたように顔を上げ、すぐに小さな笑みを浮かべて頷いた。


「ほんと、予報は晴れだったのに」


──それだけの会話。それだけのすれ違い。


 雨脚がやや落ち着き、彼女は空を仰いだ。まだ小さな滴が落ちてはいたが、傘も差さず、彼女はこちらに軽く会釈をしてから、駆け出していった。濡れたシャツの裾が揺れ、足取りは軽やかで、その背中はすぐに街角に消えていった。


 昼を少し回った頃、職場に戻った彼は、濡れたシャツを自然乾燥させるしかなかった。冷房の風が背中に直撃し、不快な湿り気がじわじわと身体を冷やしていく。仕方なくコーヒーを淹れ、午後の打ち合わせの準備に取りかかる。いつものルーティン。いつもの午後。……のはずだった。


「午後の予定、何かあったっけ?」


 隣の同僚に尋ねると、「15時から、○○商事さんとの打ち合わせっすよ」と返ってきた。まだ時間には余裕がある。コーヒーをすすりながら、プレゼン資料を開き、社名やポイントをメモ帳に書き出す。徐々にシャツも乾いてきた。


 時計の針が15時を指そうとしていた。朝のうちに「今日の午後」と確認していたことを、彼は思い出す。どこか胸の奥がざわつくのを感じながら、彼は会議室に入り、先に着席して待機していた。


 数分後、扉が開き、取引先の一行が入ってくる──その中に、彼女がいた。


 一瞬、時が止まったように感じた。白いブラウスではなく、今は黒いスーツに身を包んでいたが、間違いなく、あのときの彼女だった。彼女もまた彼に気づき、柔らかな笑みを浮かべて軽く会釈した。まるで「さっきはどうも」とでも言うように。


 その後ろから現れた男性が、「すみません、ちょっと遅れてしまいまして」と場を和ませるように言う。席に着く前に、互いに名刺が差し出された。


 彼が手にした名刺には「営業部 主任 佐原奈津美」と記されていた。


 打ち合わせが始まると、彼女は終始、ビジネスライクな表情で、端的かつ丁寧に説明を続けていた。提案内容や納期の確認、仕様変更の相談など、要点を押さえた話しぶりは堂に入っていた。彼はその声を聞きながら、内容よりも、その声の余韻や表情の変化に耳を傾けてしまう。まるで、朝の出来事などなかったかのように、彼女は一貫して冷静だった。


 最後に、「それでは、二週間後の火曜、再確認のために、また改めてうかがいます」と彼女が言った。彼もそれに応じて「はい、こちらでも準備を進めておきます」と答える。その横で、彼女は淡く微笑んだまま、軽く頭を下げた。まるで、なにかを伝えたいのを押し隠すかのように──


 ほんの一瞬の雨の出会いが、こんな形で再び交差するとは思いもしなかった。偶然にしては、あまりにも出来すぎている。だが、この再会が何かを変えるのか、それともただの一過性の接点に過ぎないのか、それはまだ、誰にもわからない。


 ただひとつ言えるのは──彼の中に、確かに残ったのだ。雨に濡れた彼女の笑顔と、その柔らかな会釈が。

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