第二章「現実」 1
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仕事を終えて家に帰ると、一人暮らしのときを思い起こさせるように、ひっそりと静まり返っていました。金曜の夜にもかかわらず、西荻窪の喧騒とした飲み屋街とは対照的な空間が私を待ち受けていました。先週の今頃は、こんな光景を頭の片隅で想像してみては、そんなことはないと頭で掻き消しては、やはり想像の海に飲み込まれ、この瞬間を受け入れている自分がいるのです。三十六歳になった今でも、押し寄せてくるのは三種類の鈍い
一昨日の誕生日当日、彼は今日と同じように家を空けていました。昨日は家にいたので、細やかではありますがケーキでお祝いして夜の営みに眠りを委ねましたが、今日になってまた、彼は家を空けました。理由は明白で、
その一方で彼は、連日の打ち合わせに嫌気が差している様子はなく、むしろ打ち合わせから帰る度に、表情が明るくなっていきました。何について話しただとか、それがいよいよどのような形で完成を迎えるだとか、そんなことをまたベランダで嬉々として語り合えれば何分平穏を保てたのですが、契約事でありますからそれも叶いません。そもそもデビューするという事実も、公になるのは私の誕生日よりもまだ先の予定で、その時点で彼は私のことを思って打ち明けてくれたのです。それがなければ今頃私は、とっくに彼の留守に心情を圧し潰されていたでしょう。自分の仕事中にも彼の動向が気になって仕方ないのですから、誕生日に独りの夜を迎えれば、何かしらの選択を早まることも充分にあり得た話です。彼がそこまでを想像して、自らの立場の危険を冒し私に打ち明けてくれたのだとしたら、やはり今は、耐えるなんて甘い言葉は言っていられないのです。ただひたすらこのときをやり過ごし、彼の夢が叶うそのときが来るのをこの部屋のように待ち、私の夢が叶うか、それとも覚めるいつかの日を、この部屋のような静寂で受け入れるべきなのです。
私の帰宅から一時間後、彼から「今から帰ります」という連絡が来ました。「夜ご飯もう食べた?」とメッセージを送ると、「途中で食べてから帰ります」という返信が来ました。それを見て、私も夜ご飯を食べ始めました。これで空腹に耐えられなくなって少し手を付けてしまった言い訳を考えなくてもよくなりましたが、用意していたもう一食分が余ったため、自分で食べることにしました。
テレビを見ながら自分で作った夕食を食べていると、唐突に、テレビを消したくなりました。別に番組内容が不快だったとか、こんなところを帰ってきた彼に見られたくなかったわけではありません。なんとなく、静かな夕食を
ですが、彼の小説の物語は、そんな私にとても優しく寄り添ってくれるのです。私が何かに悩んでいると、悩みを一回忘れさせて、お話の世界に没入させてくれます。悩みにもなり切れない何かに
夕食を食べ終え、独りの時間も相応にお開きにして、彼の帰りを待ちました。既に一時間が経ちましたが、彼の帰りを待つことにしました。テレビを見たりお風呂に入るのでなく、彼の小説を読むこともせず、彼を待ち続けました。帰ってきたらすぐに誤魔化せるようにテレビのリモコンを脇に置いて、少しだけこれからの日々を考えながら、ソファに深くもたれかかりました。
彼はもう少しで、小説家としてデビューをする。彼が人生を重ねて描いた物語が作品として評価され、世に形として存在し、人々の心を突き刺していく。
それはつまり、これから彼は小説家として執筆する。自分一人の感性や動機に因るのではなく、誰かから依頼を受け、誰かに届けるために書き、そんな誰かに背中を押されて、執筆をする。毎回ではないだろうし、これから書く作品もほとんどが彼の書きたい作品なのは私も疑っていません。
でも、彼はもう、誰か一人のために書くことはない。誰か一人を喜ばせたくて書くことも、誰か一人の感想を聞きたくて書くことも、小説家となった彼には、必要のない時間です。彼の才能を知っているからこそ、彼の物語に誰よりも心を震わせたと人生を懸けて言えるからこそ、私の声は彼に届かなくなると、独りの夜が語りかけてきます。彼を待つ私の時間は、長いようで、あともう
だって、そのときが来れば、彼はもうこの家に、帰る必要などなくなるのですから。
彼のデビューが正式に発表されました。大手出版社の新人賞を受賞したようで、授賞式の準備に一層忙しくなりました。受賞作品はどうやら初めて彼が私に読ませてくれた作品で、彼にとっても初めて執筆したものだそうで、そのことも彼を喜ばせました。
出版社に最終原稿を提出する前、最後のチェックをしてほしいと言って、私に原稿を読ませてくれました。内容は、見事にあの頃のままでした。無論、細かい文章や字句の違いはありましたが、それらも私が下手したら本人よりも読み込んでいたから気付いたのであって、全体としては全く同じと言っていいくらいに一致していました。即ちそれは、私があの頃に受けた衝動と同じものを、新人賞の選考委員の方々は彼の作品に評価として下したのではないでしょうか。私が彼に抱いた小説家としての大いなる才幹を、彼らは可能性として評価したのではないでしょうか。彼は私の家事のために家にいて、たまに気晴らしで執筆するような器の人間じゃない。デビューするべくしてデビューし、評価されるべくして評価され、人々を感動させるべくして、次々と物語を紡ぎ出す。それが、彼の在るべき姿だったのです。
授賞式当日、スーツを身に
もし、後者が
ブルルルルル。ブルルルルル。
実際にはバイブレーションではなく着信音でしたが、スマートフォンからその音が鳴ったのに気付き、慌てて電話を取りました。
「あ、お疲れ様です茜さん。連絡遅くなっちゃってごめんなさい」
相手の番号を確認せずに出たため、彼の声が聞こえて少しホッとしました。
しかし、ホッとしたのは束の間でした。なぜなら、この次に来る言葉によって、私の命運は大きく左右されるのです。
「お疲れ様。……この後はどうするの?」
言葉を待つつもりでしたが、我慢できずにこちらから訊きました。どちらにせよ結果は変わらないのだから、気にするだけ無駄に違いありませんが。
「帰りたいんですけど、ちょっと挨拶しなきゃいけないところがあるので、そこだけ寄ってから帰ります」
「寄る」という言葉と「帰る」という言葉が、望む結果と望まない結果の両方を意味しているようで、まともに聞き取れませんでした。
「……それで、夜ご飯は?」
空のお皿をたくさん並べた机の上を見て、拳に力を込めました。その先のキッチンにある空を埋めるための準備には、目を移せませんでした。
「家で食べたいんですけど、……もしかしたら遅くなっちゃいそうで、それでもいいですかね?」
その言葉を聞いて、一度目を瞑りました。暗闇の中に映ったのは、並べられたお皿に料理が盛り付けられ、料理を前に最後の準備に取りかかる私と、反対側の空席。
「うん、もちろん。……ありがとう」
空席に影がかかり、段々と実体が現れ始めます。
そこにいたのは、私の知っている脚、私の知っている胴体、私の知っている肩幅、私の知っている相貌、血管の浮き出方から陰毛の癖まで、何から何まで私だけが知っている、たった一人の彼でした。
「じゃあ、待ってるね」
しかし、私の知る彼には、次第に影がかかります。影はやがて私から日向を奪い、余った日向を彼の等身大に当て、世の中のために役立てます。そうして私にとっての太陽は、ただ眺めるだけの存在になるのです。
そうなる前に、私は彼を愛します。愛して、知って、夢を夢のまま終わらせます。
愛して、知って、夢は夢だと自覚して、いつの日か、彼を忘れます。
「はい。待っててください」
そうすることができたら、私はなんて幸せでしょう。彼を忘れられるのなら、どれほど楽になれるでしょう。
でも、私は、選んでしまった。彼と見る夢の続きを、描いてしまった。
なので、もう少しの間だけ、彼を待つことをお
二人だけの授賞式は、粛々と行なわれました。彼は二十二時半頃に帰宅し、すぐにスーツから部屋着に着替え、いつもの彼に戻りました。私の精一杯のお迎えを快く受け入れ、
彼がお風呂に入っている間、こっそりと彼のスーツを吟味してみると、彼自身のものではないと断言できる煙草の匂いがしました。なにせ彼は、煙草の匂いが大の苦手なのです。
「誰か有名な人とかいた?」
お風呂から上がった彼に、私なりに遠回しを意識した今日一日の人付き合いを訊いてみました。おそらく遠回しの意味を履き違えているので、私の趣旨が伝わることはないでしょうが。
「そうですね。正直僕はあんまり知らなかったんですけど、名前だけ知ってる小説家とか、有名な賞の選考委員やってる人とかいました」
表情も声のトーンも維持したまま、彼は答えを言い切りました。
「その人たちとは喋った?」
「はい、喋りました。なんなら小説家の人にはちょっとだけ行きつけの居酒屋に連れてってもらいました。それで思ったより遅くなったんです」
トーンを若干下げて、彼は言いました。本当はすぐに帰りたかったのだと、暗に主張してくれています。
「挨拶もちゃんとできた?」
「はい。出版社の人とか前回の新人賞の人とか、色々してきました。……途中から誰が誰だかわからなくなっちゃいましたけど」
こうして今日一日の成り行きは、だいたい把握できました。こんなことをしなくても直接訊けばいいのに、なぜか私はありもしない彼の嘘に怯えているようです。その代償に彼を取り調べのような質問の数々に巣食わせていると、気付くのはいつの日になるでしょう。
「明日からは、……少しゆっくりできそうなの?」
だから、こういう肝心な質問が、後回しになるのです。
「うーん……、たぶんあと二週間くらいはバタバタするかもしれないです」
望んだ結果も、すり抜けるように
「そっか。それじゃ……、明日も打ち合わせ?」
彼を困らせるだけ困らせて、自らの手を傷つけるのです。
「はい。……また、一人にしてしまって、申し訳ないです」
彼に、私という十字架を、背負わせてしまうのです。
「ううん、私は大丈夫だよ。なら、そろそろ寝よっか。今日はだいぶ疲れただろうし」
疲れた彼の顔に、優しい笑みが零れ落ちます。
「はい、そうしましょう」
それだけで私は彼の恋人だと、不意に自覚するのです。
「ちなみに明日は、何時に家出る?」
就寝の準備に取りかかりながら、恋人らしく、事務的な事柄を訊き合います。
「八時くらいですかね。起こしちゃったら申し訳ないです」
「結構早いんだね。それなら私も起きる。朝ご飯作るから」
恋人らしく、多少の我が
「いえ、せっかくの休みなんだから、茜さんはゆっくり……」
「寛也君」
でも、私たちには、こういう時間が必要でした。
「さっき、寛也君が自分で言ったこと、憶えてる? 明日の朝起きたら、私、また一人ぼっちなんだよ?」
たぶん、こういうことを言い合えるのは、もうあと僅かな間だから。
「それならせめて、少しの間でも、一緒に居させてほしいんだ。そのためだったら私、なんでもするから」
そのとき、彼は、優しく私を抱きしめました。
「その気持ち、本当に嬉しいです。今までたくさんお世話になった分、少しでも恩返ししたいと思ってたんですが、やっぱり、茜さんには敵いませんね」
そのまま、ゆっくりと、ベッドに倒れ込みました。
「それでも、いつか必ず返します。いつかきっと、僕の人生の結晶を、茜さんのために捧げます」
右手で肩を抱き、左手で背中を包み込みます。
「それまでは、茜さんの隣に居させてください」
彼の瞳が閉じると同時に、身体の熱は血潮に溶け込みます。
「おやすみ、茜さん」
そうして、静かな寝息が、私の懐に太平を授けました。
「……おやすみ」
たった今、改めて私は、彼の優しさに気付きました。
彼は、私の不安を知っている。私の葛藤を知っている。私の恐怖を、心から案じてくれている。自分の目標の一つが達せられたことが、自分の本当の夢に近付いていることが、私には別の景色に見えてしまうと、誰よりも理解している。
その優しさは、なんとなく、週末の午後に似ています。ちょうど今くらいの時期の、暖かさの合間に涼しさと、時に永遠を感じさせる、刹那の報いに似ています。彼の才能を知ったからこそ、彼の成功を信じたからこそ、平日は待ってくれないのです。彼の才能も成功も、必要としている人間はたくさんいます。彼が平日に書いた何気ない一枚が、一行が、一文字が、何かを必要としている誰かの、心の傷を癒すのです。
でも、彼はきっと、私がその一人だったことを忘れはしないでしょう。私が彼の物語に救われ、彼の物語を愛し、刹那でも人生を歓びに換えられたことを、忘れはしないでしょう。この二年間の作品は、ある一人の女性の隣で生み出してきたことを、そのたった一人の女性のために、生きがいを捧げたことを、彼はずっと、憶えていてくれるはずです。そんな彼の優しさは、訪れては去り、去ってはまたほんの一瞬だけ訪れる、週末の午後にそっくりです。柔らかなオルゴールの音色が奏でられた喫茶店の窓際の席で、大好きな恋愛小説を一人静かに読み
私もきっと、彼の優しさを忘れません。私が忘れさえしなければ、長い長い平日を乗り越えた先に、その優しさが待っているのです。四六時中でなくとも、満ち足りていなくとも構わない。彼との日々を、それを記憶に留めてくれる彼の優しさを思い出す刹那があれば、どんな現実が未来であろうと、私は後悔しない。
「まだ、起きてます?」
いつの間にか、彼の寝息は止まっていました。
「……考え事してたら眠れなくなっちゃった」
久しぶりに、正直な胸の内を話せました。
「僕もなんだか変な夢見て、それで起きちゃいました」
「どんな夢?」とは、訊きませんでした。自分から話そうとしたら、止めようとさえしていました。
「僕、こういう時間、実は好きなんです」
布団の中で、彼がこちらを向きました。向かい合わせになったお互いの顔が、見えなくなるくらい近付きます。
「変な時間に起きちゃって、二人して眠れなくなる時間?」
「はい。こういう、どんなときより茜さんを近くに感じる時間です」
そのまま強く、私を抱き締めました。
「茜さんは普段、どんな夢を見るんですか?」
「うーん、そうだなあ……」
私の夢。それは、目覚めているときに起きている時間。
「ご飯食べたり、のんびりテレビ見たり、ベランダで話したり、寛也君の小説読んだり……、そんな、当たり前なことばかりかなあ」
そんな当たり前な時間が、これからもずっと続いていくこと。
「それじゃ、僕とおんなじですね」
彼の言葉を聞いて、一瞬、息が止まりかけました。
「僕の夢は、十年後も二十年後も茜さんとご飯を食べて、のんびりテレビ見て、ベランダで話して、僕の小説を読んでもらうこと」
彼の夢。それは、紛れもなく私たちの現実で起きている時間。
「それが、僕たちの当たり前になること」
でも彼は、その時間を当たり前だとは思っていない。
いつか終わりの来る夢であることを、彼もまた、知っているのです。
「おやすみ、茜さん」
それならせめて、夜の間だけでも、同じ夢を見られるように祈ります。
「おやすみ、寛也くん」
白昼の夢では、どうしたって、私たちが
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