花天月地【第20話 澱みと流水】
七海ポルカ
第1話
外回廊に出ると、綺麗に揃えられた小さい薪が並べて積み上げられている。
持って来た朱色の桶に、適量移し替えると、彼はそれを持ち上げて部屋の中に戻ろうとした。
立ち上がると、秋の風が首元に吹き付ける。
「さむ……」
思わず声が出た。
回路には寒い季節の間風よけの軒が増設されて、木製の壁や窓が取り付けられたが円型にくりぬかれた先に見える、眼下の
先だっての
戦線を抱える魏にとって、これから来たる冬は休みの季節だ。
厳しい寒気に晒された各方面の戦線から、多くの兵や将官たちが戻って来ている。
――その帰還した兵達は
表向きは曹操から軍の再建を託されている曹丕がその役を「任じられている」とされているが、それは建前だと誰もが気付いているだろう。
司馬孚は
間違いなく、あの人がこの巨大で強力な都を築いた。
一つの国を生み出すなど、途方もないこと。
誰にもその機会があり、こなせる仕事ではない。
司馬孚は許都に来てから曹操のことを学び直した。
それは彼の生きてきた世界を学び直すことと同じだった。
彼は今まで名門の枠組みの中で、優れた兄弟たちの中で競争からも早くに脱落し、穏やかな学びの道を志していたため、一国の創始になどはあまり興味はなかったのだ。
父や兄が仕える相手として曹家のことは浅い知識としては知っていたが、許都に居を移し、可能性は著しくも曹家の人間と場を同じくすることがあるかもしれないと思った時、
即席で上手い言い返しなど出来ない自分であることは分かったので、せめて知るべきことは知っておこうとそうしておこうと思ったのだ。
知識は自分にとって唯一頼れる盾である。
あとは分を弁え、出過ぎなければとりあえず身は守れるだろうし、兄に自分のことで不必要な恥は欠かせなくて済む。
漠然と知ってはいたが、しっかりと一つずつに目を向けて来なかった曹孟徳の歩みは、振り返れば
先人に敬意を持ちその有難い格言を、ただ有難いと学んでいる自分には考えられないような戦いの人生だ。
どう自分を戒め、あるいは強く肯定すればあんなにも先人に学びながら、その中から自分自身の手法を生み出せるのか。
大きな器だ。
あれぞ、覇王の器なのだ。
感嘆はしながらも司馬孚はこの自主勉強を、兄の司馬懿には一切知られないようにしていた。
曹操と曹丕の仲が容易ならざることは彼も知っていて、また、兄が曹孟徳にその人柄を信頼されず側で重用されなかったことは以前から知っていたからである。
そういう彼を重用してくれたのが曹丕であり、その曹丕が赤壁で父である曹操の撤退を助け守り抜いた戦功があるから今、司馬懿が表の舞台で日に当たっていられるのである。
曹操の時代が続いたら、兄の仕官は許されなかったかもしれない。
曹丕と実兄への感謝と敬意は決して忘れはしないと彼は心に刻んでいて、集めている曹操の戦歴や内政の記録は自分の部屋の一角に隠して、兄が許都に帰って来ている間は決して出さないようにしていた。
……
陸議は眉を顰めるかと思ったが、そうではなかった。
「よく、分かります」
あまり自分から喋る人間ではない陸議が司馬孚の積み上げていた記録を手に取り、文字を目で追いながらそう言った。
「……まず、漢王朝四百年の腐敗があった。
董卓は漢王室の威光に唾棄をし、侵略をしました。
漢王室の威光に従う者は反董卓連合を組み、四百年の重みを侵略者から守る為に戦った。
漢王室の腐敗を見抜いた
それに目を瞑った反董卓連合。
これはどちらが、正しい動きだったのか?
……でも私には董卓が勝ち進み全ての反董卓連合を退け帝位についても、このような整然とした、美しい石の都を築けたとはどうしても思えないのです。
あの男は統治を望んではいなかった。戦いを挑み、勝利で得た褒美を楽しむ以外に興味はなかった。
彼に欲しかなければ、結果は董卓と一緒だったでしょう。
でも
彼は戦場の覇者でありながらも統治者としての資質を兼ね備えている。
自分の得た領地を強力にするという、長の本能の延長かもしれませんが、こうして記録を見ると国としての内政にも強い意欲と意志を感じます。
彼の政には思い描く未来が見える。
強力な軍事力と、内政に守られた、強い基盤の上に建てられた国……。
始まりは、別の人間が始めたことやきっかけを生んだことだとしてでも、彼はその中に身を投じながらも己の強い信念のもとで、正しいと信じる道を選び取って来た。
一つ一つの選択が大きな意味があり、興味深い判断ですよ。
人として興味が湧くのは当然です」
静かな横顔を見せる
「わたしも一度でいいので会ってみたいです」
少し目を見開いて自分の方を見ている司馬孚に気付き、陸議は小さく笑ってそう言った。
「……どんな空気を持った人間なのか、知ってみたい」
司馬孚もそれは思った。
まるで今は雲の上のような存在だから、実際どんな風に喋りどんな空気を纏ってそこに座っているのか知りたいのだ。
子供のような幼稚な願望なので兄には悟られないように注意していたが、いつか叶ったら幸せだとは思う。
(だが、その偉大な時代も終わりへと近づいている……)
漠然とした不安を司馬孚は感じた。
(曹孟徳が死んだら、また、天下は乱れる……)
陸議は大望無き統治者と、統治者の素質を持つ覇者は天と地ほどに違う、と言っていた。
司馬孚もそう思う。
彼が帝位についた後、猛然と取り付かれたように蜀や呉を攻めるとはとても思えなかった。
……いや。
そもそも曹操でさえ長江を越えて、遥か南に位置する孫呉を攻める必要があったのだろうか?
曹操の歩みを眺めて、一番疑問に思うのがそこだった。
孫呉は、南の戦線に異民族との戦いも抱えている。
そんな彼らが天下に号令したいと船を漕ぎ出して、長安に攻めて来るとはとても思えなかった。
曹操が攻めなければ、孫呉は兵を出さなかったのではないか。
長江のほとりに曹魏の手から守られるように国を興した呉。
だがそれは曹魏にとっても同じだったのではないか。
あの大河がそこに在る限り、孫呉の侵攻をまともに受けることはないのだから、何も無理に雌雄など決せずとも、この二国は共存出来たのではないかと司馬孚は思ってしまう。
蜀は違う。
蜀は涼州を経て陸続きだ。
南方に戦線を抱える呉にとっても、確かな同盟が無い限りは蜀は警戒すべき相手のはずだった。
どうせなら手を結んで蜀を叩いた方が曹操と、孫呉の当主である孫権との話になるのではないかと思う。
三つ目の国があるから乱世になるのだ。
特に
その時々で魏とも
何故蜀ではなく、呉を攻めたのか。
偉大な戦乱の覇者にして統治者である曹操が、老年になって決断した孫呉侵攻だけが司馬孚には何か納得出来ず、謎めいたものに思えた。
しかしその大戦のおかげで曹丕に即位の可能性が出て来て、司馬懿が取り立てられているのだから、人生とは不思議なものである。
不思議だと思えば思うほどその曹操という人間の生み出す波紋を、司馬孚は面白く思うのだった。
(呉侵攻は彼が最後に見せた、戦人としての『欲』だったのか?)
それとも統治者として自分の死後を踏まえて、滅ぼしておかねばならないと思わせる何かが、孫呉にあったのか……。
風が吹いた。
背筋がぞわりとして、我に返った司馬孚は急いで部屋に戻った。
手がかじかんでしまった。
まだようやく秋になったばかりだというのに、本当に冬のような風だ。
「駄目だ駄目だ……途方もなく小さなことをいちいち気にするのが自分の悪い癖だ」
もうすぐ
今日は、兄の司馬懿が
兄は陸議を初めてそこに伴ったのだ。
儚い風情の陸議を何も戦場に連れて行かずともと司馬孚は思ったが、もちろん兄が考えあってそうしていることは分かる。
兄は陸議を側に必要としているのだ。
(それに)
陸議が時折見せる思慮深さは、戦場でも司馬懿を落ち着かせると同時に、危機から守ってくれることもあるだろうと彼には思えた。
「いかにせよ、凡人の私には天下の様相などを思うなど分不相応の重荷。私には所詮、この火鉢の中の薪をどれだけ見栄え良く綺麗に重ねられるかを苦心する程度が似合……」
火鉢の炭を整える作業は好きだったので、しゃがみ込んで鼻歌混じりに綺麗に新しく積み重ねていると、ふと、随分時間が経ってから司馬孚は部屋の壁際に人が立っていることに気付いた。
「う、うわあああああああああああ!」
あまりに仰天して、飛び上がった拍子に側に積んでいた薪の欠片をぶちまけてしまった。
ようやく彼がこっちに気付いたので、冷静な顔で一礼した。
「あ、あなたは、
「奥方様から、
最初に
陸議は特に害を与えられなかったが、どうも甄宓は陸議を気にしているようなのだ。
この前の訪問ですっかり終わった気になっていたが、今度は向こうに呼び出されて驚いた。
それに司馬懿も陸議を表にはあまり出していない。快く思わないかもしれない。
一度兄に判断を仰いだ方がいいのではないかと司馬孚は思った。
「はい……あの……、それは大変光栄に……ですが、あの、一度伯言様に相談を……兄も、奥方様にあまりご迷惑になるようなことはと思いますれば……」
ごにょごにょと司馬孚はしどろもどろになったが、曹娟はずい、と二歩近寄って来た。
彼女は顔の半分に酷い火傷の傷がある。
女性なのにこんな傷を負って可哀想だなとすぐに思ったが、曹娟は少しも臆することなく、強い表情で司馬孚を見上げて来た。
「ではご相談なさればよろしいと存じます。けれど、曹丕殿下の奥方様のお招きを拒否するような非礼、なさる方がこの世にはいらっしゃらないと思いまする。
美味しいお茶をご用意してお待ちしておりますとお伝えくださいませ」
「あ、あの……」
「よろしゅうございますね」
キリッと睨まれて司馬孚は慌てて頷いた。
彼女は曹家の一人なのだ。さすがに気迫がある。
こくこくと思わず子供のように頷いてしまう。
「…………ああ怖かった……」
思わず胸を撫で下ろし、司馬家の青年は正直呟いていた。
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