第5話 靴の行方

「父さーん!」

「おじさーん!」


 入り口で、店内を見回す新星のおじさん……

 じゃなくて、私は銀星台の生徒なんだから、『理事長』って呼んだ方がいいのかな?


 光汰と私は理事長に向かって、高く腕を上げた。


「あれ? 紗羅ちゃん?」


 私たちの呼びかけに気づいて、理事長は驚きつつも優しい笑顔になった。


「ええっと……もしかして、光汰と約束してたのかな?」

「偶然! 偶然です!!」


 慌てて否定した。

 だって、ふたりで約束して靴屋に来るなんて、それってまるで……


 けれど、理事長のほうは何も気にしていなかった。


「何だ、そうか。ところで、銀星台に編入したんだって?」

「はい。よろしくお願いします」

「こちらこそ。紗羅ちゃんのような子が銀星台の生徒になってくれるなんてうれしいよ。やりたいことを思いっきりやってくれていいからね」

「やりたいことを思いっきり……」


 月ヶ丘で言われ続けた言葉とは真逆だ。


『月ヶ丘の生徒らしい振る舞いをしなさい』

『月ヶ丘の伝統に恥じない行動をしなさい』


 それらの言葉はこの1年間、私を縛り続けていた。

 そんな私が、今さらやりたいことなんて……


 理事長が、特別でもなんでもないことのように言う。


「これからいくらでも見つかるよ。失敗したっていいから、興味のあることに片っ端から挑戦してみたらいい」

「まずは靴だろ?」


 光汰が私の足を指さした。

 まだオレンジのスニーカーを試着したままの。


「おっ、似合ってるね」

「だよな。なのに、紗羅は学校には派手じゃないかって」

「いいや、全然。動きやすそうだし、いいと思うよ」

「ほらな?」


 光汰が『俺の言った通りだろ』と言わんばかりにふんぞり返った。


「銀星台って、すごく自由なんですね」

「そう? ああ、月ヶ丘に比べたらそうかもね。だけど、銀星台の生徒たちは、自分たちでしっかりと考えて行動してるよ。人に迷惑をかけることや、やってはいけないことは決してやらない。その一線を越えたりしないんだ」

「生徒を信頼してるんですね」

「十分それに足る子たちだからね」


 理事長まで、ふんぞり返りそうになっている。


「紗羅ちゃんもその靴で学校に来て、自分で考えて判断して、その中でやりたいように過ごしてごらん」


 銀星台でどんなふうに過ごしたいかなんて、全然イメージが湧かない。

 でも、このスニーカーをはいて学校に行きたい!

 この気持ちだけは確かだ。


「はい、これにします!」



 夕食のダイニングテーブルを囲んで家族の団らん……からは程遠い、重たい空気。


「紗羅、今週はどうだった?」


 平日にお父さんと食事を取ることはめったにない。

 つまりこれが、月ヶ丘に編入後、初めてお父さんと一緒に食べる食事ってこと。


「『どう』って言われても、まだ編入したばっかりだし……」

「クラスに、紗羅以外の編入生はいるのか?」

「いる。私含めて女子は5人」

「けっこう多いな……」


 お父さんの顔が険しくなった。


 私は早口に付け足した。


「わ、私以外は公立中学から来たんだって。その中には、1年前に月ヶ丘の入試に落ちたっていう子もいたよ」

「ほお」


 お父さんの機嫌が戻った。


 いいことのはずなのに、なんだか落ち着かなくなる。

 瑞希ちゃんは気にしていなかったけれど、個人的な情報をこんなふうにバラすべきじゃなかった。

 たちまち自己嫌悪に陥った。


「受験生が月ヶ丘を第一志望、銀星台を第二志望にする……そういう未来は悪くないな」

「そうね。むしろ気分がいいわ」


 お母さんもすかさず乗っかる。


 そんな両親の顔をこれ以上は見ていたくなくて、私はコロッケを食べることに集中するフリをした。

 だけど、噛んでも噛んでも味がしない。


「紗羅?」


 お父さんとお母さんは、どうやって銀星台より人気のある学校にするかについて、夢中で話を始めていた。

 私の名前を呼んだのは、お姉ちゃんだった。


「な、何?」


 ただ名前を呼ばれただけ。

 ただそれだけのことなのに、反射的に身構えてしまう。


「授業はどうなの? 先生の教え方とか進度とか」

「そんなの、まだわかんないよ。まだ1回目の授業しか受けてない教科もあるくらいだし」

「それもそうね」


 ほっ。

 お姉ちゃんがあっさり納得してくれてよかった。


 残りのコロッケを口に入れた。

 衣はサクッと音を立てたけれど、相変わらず味はしない。


「紗羅?」


 お姉ちゃんがもう1度私の名前を呼んだ。

 私は口の中のコロッケを、ゴクンッと飲み込んだ。


「な、何?」

「わかってると思うけど、月ヶ丘も真似したほうがいいことを見つけたら、その都度報告しなさいね」

「そんなことくらい、わかってる」

「どうだか」

「……学食があるのはいいと思った」


 私のこのひと言に、お父さんとお母さんも話し合いをストップした。


 月ヶ丘には学食はなく、全員毎日お弁当を食べるのが当たり前だった。

 それに対して、銀星台には学食もあるから、お弁当と学食が半々くらいなのだ。


「利用する生徒はいるの?」

「特に遠くから通ってる子は、お家の人が朝早くお弁当を作るのは大変なんだって。だから学食で食べてるって」


 ペラペラしゃべっていると、自分の身体が削れて薄くなってくる気がした。


 学食があることなんて、別に秘密でも何でもない。

 学校のホームページにだって、写真が載ってるくらいなんだし。


 そんなふうに自分に一生懸命言い訳した。


「保護者のニーズか」

「月ヶ丘も以前と違って、共働き家庭が増えてるしね」

「プレハブで安く建てるか。でもそうすると見栄えが悪いな」

「設備費や人件費も考えないと……」


 お父さんとお母さんは、再び私そっちのけで話し始めた。


 お姉ちゃんが『ふふん』と鼻で笑った。


「その調子で続けなさい。紗羅は銀星台に編入したって月ヶ丘側の人間なのを、くれぐれも忘れないでよね」

「はい、わかりました……」


 もう口の中は空っぽになったはずなのに、コロッケの衣がザラつく感触がした。

 気持ち悪い。


「ごちそうさまでした」


 ひとりで先に夕食を終え、お皿を下げた。



 部屋に戻って、ベッドに倒れこんた。

 そんな私の横に転がっているのは、今日買ってきたばかりのスニーカーの箱。


 上体を起こして、箱を膝の上に乗せた。

 蓋を開け、片方だけ取り出す。


 来週から履いていくには、紐を通さなきゃ……


 紐の先端を穴に通し、腕を伸ばして引っ張った。

 その動作だけを、無心でテンポよく繰り返した。

 スー、スー、スーという小気味いい音が聞こえる。


 そのはずが、急に手が止まってしまった。


 このスニーカーを買うと決めたときは、銀星台の生徒になったように錯覚していた。

 でも、違った。

 確かに、私は銀星台に籍があるかもしれない。

 けれど、銀星台の生徒のフリをしているだけ。

 本当は月ヶ丘のスパイ。


 どうして勘違いしてしまったんだろう。

 私でも学校で自由に過ごせるんだ、なんて。

 私は月ヶ丘が有利になるような情報を探りに、学校に通うんだ。


 スニーカーの紐は中途半端に通したところで中断している。

 それでも、これ以上通すことはできなかった。


 箱の中に戻すと、蓋を閉めた。

 真っ暗な箱の中に閉じこめてしまえば、かわいいオレンジ色ももう見えなくなった。


 私はため息を吐いた。

 諦めのため息だ。

 それからスニーカーの箱をベッドの下に押しこんだのだった。

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