君の一途な恋心が、私を呪縛から解き放つ

山本 歩乃理

第1話 青天の霹靂(へきれき)ですよ

 お父さんのスマホがテーブルの上で震え始めた。


 ブブブブブ……


 小刻みに振動しながら横に滑っていく。


「お父さん、着信」

「おお、ありがとう」


 スマホが滑り落ちる前に素早くキャッチして、お父さんに手渡したのは、もちろんお姉ちゃん。

 私じゃない。

 私のほうが運動神経がいいはずなのに、こういう場面ではソツのないお姉ちゃんには敵わない。


 お父さんはリビングを出て、廊下で話し始めた。


 お姉ちゃんはその間も、お父さんから目を離さなかったし、姿が見えなくなってからは真剣な表情で聞き耳を立てている。

 お父さんの声は大きいから、聞き耳を立てるまでもないはずなのに。


「誰からだったの?」


 私は声をひそめてお姉ちゃんに訊いた。

 お姉ちゃんなら、誰からの着信だったかチェックしてるに決まってる。


新星にいほしさん」

「ああ……」


 瞬間的に、嫌だなと思った。

 だって、このあとお父さんが荒れそうで。


 新星のおじさんから連絡があったあとは、いつもそうなのだ。

 表面上は仲よしそうに振る舞っているのに。


 廊下で響いたお父さんの声は、リビングにまではっきりと届いた。


「ええっ、そうなんですか? ……時代。ははっ、おっしゃる通りですね……」


 その声色から、ひどくショックな内容だったらしいことが想像できた。


「ご成功をお祈りしていますよ。では、失礼します」


 にこやかな挨拶で締めくくったように聞こえるけれど、それは大間違い。

 ほうら──


「新星のやつめ!」


 お父さんはリビングに戻ってくるなり、スマホをソファに叩きつけた。

 スマホはボフッと鈍い音を立てて、ほんの数センチだけバウンドした。


 キッチンにいたはずのお母さんが、スリッパをパタパタさせながら駆け寄る。


「一体どうしたっていうの?」


 お父さんはさっき叩きつけたスマホのすぐ横に腰かけて、うな垂れた頭を両手で抱えた。


 お母さんはスマホを拾い上げ、自分の膝に乗せながら、お父さんに寄り添うようにして座った。


「銀星台学院が、」


 銀星台学院とは、新星のおじさんが理事長を務めている中高一貫の男子校のことだ。


 そして……

 おおっと、ストップ!

 ふう、危ない、危ない。


 誰かのことが思い浮かびそうになって、それを慌てて打ち消した。


 お父さんが吐き捨てるように言う。


「来年度から男女共学になるそうだ」


 あーらら……


 お母さんもお姉ちゃんも目を大きく見開いた。


 それもそのはず。

 お父さんは、月ヶ丘学園という中高一貫の女子校の理事長だから。

 そして、お母さんは校長なのだ。


 これまでは同じ市内にあっても、銀星台と月ヶ丘では、男子校と女子校という棲み分けができていた。

 しかし、今その境界が崩されようとしているのだ。

 きっと大変なことになる。


 ちなみに私もお姉ちゃんも月ヶ丘学園に通っている。

 私が中等部の1年生で、お姉ちゃんは高等部の2年生だ。


「きっと来年度以降は月ヶ丘の志願者数が減るわよね」


 すでに不安そうにしているお母さん。

 けれど、お父さんはそんなお母さんに追い打ちをかける。


「それだけじゃない。来年度は新入生対象の入学試験だけでなく、全学年向けの編入試験も同時におこなうつもりらしい」


 お父さんのこめかみには、はち切れんばかりの青筋が浮き出ている。


「今後の志願者だけでなく、最悪の場合、在籍生徒まで横取りされるかもしれん」


 私のクラスメイトからも、編入試験を受ける子が出てくるかな?


 このときはまだ、そんなふうにどこか他人事のように考えていた。


「月ヶ丘も共学にしたら?」


 お母さんからの提案に、お父さんは首を横に振った。


「来年度には到底間に合わない。それに後追いで共学化したところで、奪われた生徒をどれだけ取り戻せるのか……。何しろ、うちは校風がな……」


 文武両道な銀星台を共学にするのは簡単そう。

 それに対して月ヶ丘は……というと、うーーん……


 世間からは月ヶ丘の生徒といえば、大和撫子ってイメージをもたれてる。

 そう、ちょうどお姉ちゃんの外面みたいな。


 お姉ちゃんは月ヶ丘のアイコン。

 全生徒の憧れであり、目指すべき理想なのだ。


 そのお姉ちゃんが内面のほうをさらけ出して、こう言った。


「男子でも、月ヶ丘のほうがいいって受験生、一定数は出てくると思うな。元気が1番みたいな銀星台のノリについていけないとか、月ヶ丘の方が通学しやすいとか……。ねえ、どうせ後追いになるなら、後追いのメリットを享受するべきなんじゃない?」


 お父さんは顔を上げた。

 お姉ちゃんの話に興味を引かれたようだ。


「後追いのメリット?」

「銀星台が共学になってどう変わるのか、調査するの。で、評判のいいところはパクるし、逆に評判の悪いところは真逆のことをして、それをウリにすればいい」

「それはいいな」

「さすが未来の理事長だわ」


 お父さんもお母さんも、お姉ちゃんを褒めそやす。

 こういうとき、決まって私は部外者で、のけ者で、蚊帳の外。


 つまらない気分で、ぼうっとしていた。


 ところが、ところが!

 そんな私のほうに、お姉ちゃんが顔を向けてきた。


「紗羅がいいわ」

「えっ、な、何が!?」


 思いがけず仲間に入れもらえて、うれしいよりも戸惑いのほうが大きい。


 お姉ちゃんはそんな私の様子に気づかないはずがないのに、にっこり微笑んで続けた。


「紗羅が編入試験を受けて、銀星台の生徒になればいいのよ」

「えーっ! それって、私にスパイさせるってこと?」

「人聞きの悪いこと言わないでよ。紗羅は銀星台で、普通に学生生活を送ればいいの。ただ、友達やクラスメイトは学校のどんなところを好きだったり、不満に思ったりするのかだけ調べてきて」

「それをスパイっていうんじゃないの? そんなこと、言い出したお姉ちゃんがやってよ」


 お姉ちゃんの笑顔はすーっと能面に変わった。

 月ヶ丘の生徒の中で、私ただひとりが知っている、本気で怒っているお姉ちゃん。


 背筋がゾクゾクして、私は縮こまった。

 こうなったお姉ちゃんに逆らうことは不可能だ。


「私は来年度で卒業するの。たった1年だけのために編入するなんて、おかしいじゃない。それに私は月ヶ丘に相応しい生徒なのよ。周りから浮きまくってる紗羅と違って。銀星台で心機一転やり直せるなんて、紗羅にとってもチャンスでしょう?」


 お姉ちゃんは最後に鼻で笑った。


 ぐうの音も出ない。

 月ヶ丘の校風に合わなくて、うまく馴染めていないのは真実だから。


「そうだな。お姉ちゃんの言う通りだ。第一、お姉ちゃんは将来お父さんの後を継ぐんだから、月ヶ丘を卒業するのがいい」

「紗羅、あなたはさっそく今日から編入試験の勉強を始めなさいね」


 お姉ちゃんに逆らえない、もうひとつの理由がこれだ。

 お父さんもお母さんも、いつだってお姉ちゃんに同意する。

 私の味方をしてくれたことなんてない。


 私に許されている返事はこれしかない……


「はい、わかりました」


 これ以上リビングにいても、いいことなんて、ひとつもない。

 勉強するために自分の部屋へ行くことにした。


 けれど、まだ私に言い足りないらしかった。

 背中に、これっぽっちも優しくない言葉が投げつけられる。


「編入試験で恥ずかしい点数を取るなよ」

「嫌ねえ。紗羅だって、そこまで頭悪くないわよ」

「そうよ。一応私の妹なんだから」


 ヒドい言われよう……

 確かに毎回学年トップのお姉ちゃんには及ばない。

 だけど、私だって20位以内はキープしていて、地味ながらもそこそこ上位なのに。


「まさかと思うが、試験を棄権したりもしないこと!」


 月ヶ丘に残りたいわけじゃない。

 だけど、銀星台にも行きたくない。

 絶対に会いたくない人がいるから。

 できることなら、答案用紙を白紙で提出したいくらい。


 それでも、こう返すしかなかった。


「はい、わかりました」


 かくして私は、銀星台学院の編入試験を受けることになったのだった──

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