第59話揺れる心の交差点

四月の終わり。

春らしいやわらかな光の中に、ほんの少しだけ初夏の匂いが混じり始めていた。

中庭のハナミズキが薄桃色の花をつけ、校舎の影から吹き抜ける風が、制服の袖をそっと揺らした。


昼休み、私は一人で屋上に出ていた。

フェンス越しに見える青空は、どこまでも高い。

けれど、胸の奥は昨日までの雨雲みたいに、まだ少し重たさを残していた。


――湊は、ちゃんと「隣にいるから」と言ってくれた。

なのに、どうしてこんなにも心が揺れるんだろう。

その言葉を信じたい気持ちと、信じていいのか迷う気持ちが、心の中でせめぎ合っている。


ポケットの中でスマホが震いた。

画面には「真央」の名前。


『ねえ、さっき職員室に行く湊くん見たよ。何か相談かな?』


短いメッセージが胸をざわつかせる。

――昨日も進路のことを言ってた。

私だって相談したいことは山ほどあるのに、ちゃんと話せていない。


ポケットにスマホをしまい、フェンスにもたれた。

見下ろすと、校庭ではサッカー部が練習をしている。

ボールを追いかける声が遠くでこだまする中、湊の姿を探したが、すぐに見失ってしまう。



放課後。

掃除当番を終えたあと、私はいつもよりゆっくりと帰り支度をした。

窓の外を見れば、昇降口のあたりで湊が誰かに呼び止められていた。

彼は真剣な顔で何かを聞いている。頷いたり、短く返事をしていた。


――話したい。

でも、さっきのメッセージが頭をよぎる。

「職員室に行く湊」。

相談って、何の相談? 誰のための?

私じゃない誰かに向けている時間なのかと思うと、胸がそわそわして落ち着かない。



帰り道。

西日のオレンジが道を照らし、街灯がゆっくりと明かりを灯し始めるころ。

私はひとりで歩いていたが、後ろから駆けてくる足音が近づいてきて、振り返る。


「詩!」


息を弾ませて湊が駆けてくる。

鞄を肩に掛け直し、額の髪を軽くかき上げながら笑顔を見せた。


「……ごめん、待たせた?」


「ううん、別に……」


「よかった。今日、職員室行っててさ。ちょっと遅くなった」


「……職員室?」


「うん。進路のことで先生に呼ばれてて。……オレさ、まだちゃんと決めきれてないんだ」


湊は少しうつむき、歩きながらゆっくりと言葉を選ぶ。


「……自分のことなのに、まだぼんやりしててさ。

親にはいろいろ言われるし、部活の先輩には『続けろ』って言われるし……正直、迷ってる」


彼の声が少しだけかすれて聞こえた。

普段、あまり弱音を見せない湊が、こんなふうに言うなんて。

胸のざわつきが、すっと薄れていくのを感じた。


「詩もさ、迷ってんだろ? だったらさ、オレに話してほしいんだ。……いや、話してくれたら、オレ、たぶん嬉しい」


湊は短く息を吐き、眉間にしわを寄せて、少しだけ笑った。


「……オレ、詩のこと、勝手に知ったつもりになってたかもしれない。

でも本当は、まだ何も知らないんだよな。

もっと知りたいって、最近ずっと思ってた」


その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

彼がそんなふうに思ってくれていたなんて、想像もしなかった。


「……ありがとう。私、昨日……不安でいっぱいだったけど、今は、なんかちょっとだけ楽になった」


「そっか……よかった」


湊は照れ隠しのように後頭部をかき、ほんの少しだけ目を伏せた。


「オレ、詩のこと、ちゃんと隣にいるって言ったけどさ……あれ、本気だからな。

だから、これからも、オレを頼ってくれよ。……頼られたいんだ」


その真剣な言葉に、胸の奥で小さく火が灯るのを感じた。


「……うん。ありがとう、湊」


夕陽が二人を包み、濡れたアスファルトが黄金色に輝く。

その光の中で、並んで歩く私たちの影がゆっくりと近づいていった。

昨日までの不安が、静かに解けていくように。

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