第7話桜の木の下で
週末、天気は晴れ。
春の陽ざしが、町全体をやわらかく包んでいた。
「天気いいし、どっか行かない?」
「じゃあ、駅前の公園とか?」
そんなふうに、クラスの友達と自然な流れで
“花見”に行くことになった。
何人かが集まり、パン屋で好きな菓子パンを
買って、川沿いの遊歩道を歩く。
気づけば、湊もその中にいた。
喋る相手は特に決めていない感じで、時折クラスの子たちと軽く言葉を交わしながら、最後尾を
ゆっくり歩いていた。
私は少し前を歩きながら、ときどき振り返ってしまう。
湊は、変わらず自然体だった。
やがて、みんなが「ここにしよう」と立ち止まった先は、小さな公園だった。
ブランコとすべり台がぽつんとあるだけの、こじんまりとした場所。
でも私にとっては、強く記憶に残っている場所だった。
「……ここ……」
思わず足を止めていた。
「あれ? 詩、どうした?」
後ろから声がして、振り向くと湊がいた。
「ここ、なんか懐かしい気がしてさ」
言葉を濁しながらも、私の視線は1本の大きな桜の木に向いていた。
その木の下で、あの日、彼は湊は、私に「バイバイ」と言った。
何も言えなかった私を残して、振り返らずに去っていった背中。
ずっと、忘れられなかった場所。
湊は、ゆっくりと私の隣に並び、空を見上げた。
「……この公園、たしかに、来たことあるかも。よく遊んでた気がする」
私は、小さくうなずいた。
「うん。……ここで最後に、“バイバイ”って言ったんだよ、湊」
その言葉に、湊の目が少しだけ見開かれた。
「……そっか。やっぱり、君だったんだな」
「え?」
「小さい頃、よく一緒に遊んでた女の子。ずっと名前が引っかかってた。
記憶はぼんやりしてたけど……桜を見たら、急に思い出した」
私は、思わず息を止めた。
まさか本当に、本当に、覚えててくれていたなんて。
「ほんとに……覚えてたの?」
そう尋ねた声は、少し震えていた。
湊は、少し照れたように笑った。
「全部じゃないけど。たぶん、大事なとこは、忘れてなかった」
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
ああ、ダメだ。
泣くつもりなんてなかったのに。
じんわりと、目の奥が熱くなる。
ぼたぼたと泣くわけじゃない。
でも、抑えきれない涙が、静かににじんだ。
「……詩? 目、赤いよ。大丈夫?」
湊の声が、思いのほか近くて優しかった。
私はあわてて顔をそらして、手の甲で涙をぬぐった。
「うん……なんでもない。たぶん花粉。ちょっと目にきただけ」
「……そっか」
湊は、それ以上なにも言わなかった。
私の嘘を信じたのか、気づいて黙ってくれたのかは、わからない。
でも、その優しさが、また胸に沁みた。
桜が風に揺れて、ひとひらの花びらが私の肩に舞い落ちる。
その小さな重みが、なんだか泣きたくなるくらい愛しかった。
言いたいことはまだ言えない。
でも、今日はちゃんと伝わった気がする。
「君だったんだ」
その一言が、私の心にそっと灯をともした。
そして、これからきっと少しずつ、
「湊」と「詩」の時間が、もう一度始まっていく
そんな予感がした。
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