第7話「潜入」
■2023年7月30日 13:00 武蔵ノ宮病院
武蔵ノ宮病院は、政治家や財界人、芸能人の利用が多いことで知られる都内有数のセレブ病院だった。全室個室の入院病棟はVIPに配慮した堅牢なセキュリティシステムで守られており、外来に関しても紹介状と事前予約が必要だった。
南野陽康は、初めて訪れた武蔵ノ宮病院の会計窓口で診療費の支払いをしていた。
会計係の女性に「御大事にどうぞ」と声をかけられた後も、陽康はしばらく所在無さげに留まっていたが、「どうかされましたか?」と再び声をかけられたタイミングで、思い切って聞いてみた。
「入院病棟はどこですか? 知り合いの見舞いに行きたいんです」
「正面玄関を出て右手にあります。1階に面会受付カウンターがあるので、そちらで手続きを行って面会証を受け取ってください」
事前に病院のWebサイトをチェックしてたので、入院病棟に入る際に面会証が必要になることは知っていた。面会証を発行してもらうには、入院患者の家族や関係者であることの証明書類が必要であり、重病人以外は患者自身の許諾も必要だった。
陽康は面会証も証明書類も持っていなかった。どうしたものかと逡巡していると、静かな待合スペースに甲高い声が響いた。
「南野先輩!」
陽康がビクッと体を震わせて振り返ると、黒いジャケットを羽織った藤本美喜雄とTシャツ姿の安倍冬美が立っていた。その背格好の差から、二人は親子のようにも見えたし、美喜雄の長い髪のせいで姉妹のようにも見えた。
「先輩も来てたんですね」
陽康は、駆け寄ってきた冬美に新しいギブスで固定された右手首を見せた。今、陽康の右手首に青い石のブレスレットはなかった。白い包帯の上では目立ちすぎると思い、数日前から左手首に着けるようにしていた。
「骨折の治療で来たんですか?」
「そ、そうだよ」
白地に黒の細いボーダーが入ったTシャツとデニムスカートを合わせていた冬美は、先日会ったときと同じようなメイクをしていた。休日の彼女は常にこんな感じなんだな、と陽康は思った。
美喜雄が陽康に声を掛けた。
「三号館の屋上以来だな。まあ、あのときお前はすぐにいなくなってしまったわけだが」
陽康が三号館から落下したあの日、屋上にいた陽康の姿をもっとも近くで目撃していた美喜雄は、教員や警察から何度も事情を聞かれた。陽康の挙動を遠目でしか見ていなかった美喜雄には、それが事故だったのか、自殺を意図した行動だったのか、正直なところ分からなかった。
それでも美喜雄は周囲に対して「事故にしか見えなかった」と説明した。陽康のその後を考えた場合、事態がどのように転んだとしても、そのように伝えておいた方が賢明だと判断したからだ。
美喜雄は陽康の右腕のギブスを見ながら尋ねた。
「南野、お前の自宅は新中野だったな。わざわざここまで通っているのか?」
「…いや、ここに来たのは今日が初めてで」
美喜雄は周囲を見回した後、小声で続けた。
「お前のところにも例のメールが届いたんだな」
陽康は黙って頷いた後、さっとスマホを弄って美喜雄に見せた。
『ニシユルの生き残りは武蔵ノ宮病院の709号室にいる。彼女は7月30日に殺される。その前に病院の外に連れ出してほしい。この件は大人や警察には話すな。もし話せば、彼女をさらなる危険に晒すことになるだろう。』
陽康が最初にこのメールの存在に気づいたのは、NIF初日の7月22日、ユルノアナで出会った冬美と別れ、地下鉄のホームでスマホを弄っていたときだった。
最初はくだらないスパムメールだと思いすぐに消去したが、次の日も同じ文面のメールが届いた。
薄気味悪さを感じた陽康が『あんた誰だよ』と返信したところ、1時間も経たずに『藤本美喜雄と安倍冬美にも伝えてある。』という返信が届き、背筋が凍った。
美喜雄や冬美がこんな悪戯をするとは思えなかったので、当初は心無いクラスメイトの仕業ではないかと考えた。ただ、陽康はこの怪しいメッセージがメールで送られてきたことが引っ掛かっていた。
仲間うちの連絡であればLINEのようなメッセージアプリかSNSのメッセージ機能を使うのが通例であり、陽康自身もメールアプリを使うことはほとんどなかった。もしあの日、前日にECサイトで購入した商品の配送状況を確認するためにメールアプリを開かなかったら、今でもこのメッセージの存在を知らずに過ごしていたかもしれない。
その後、陽康はメールの文面内容そのものが気になり始め、ネットで武蔵ノ宮病院について調べた。武蔵ノ宮病院はJR市ヶ谷駅から徒歩数分圏内に立地し、ニシユルの五人が最初に運び込まれた東京女子医大病院からも、そう遠くない位置にある。また、政治家や芸能人の利用が多い病院であることもわかった。ただ、「宝田舞が東京女子医大病院から武藏ノ宮病院に転院した」という情報は、どれだけ探しても見つからなかった。
陽康は、武蔵ノ宮病院の公式サイトに記されていた大代表に電話を掛け、「709号室に入院している患者さんを教えてください」と尋ねてみたが、『お電話でお答えすることはできません。ご家族の方でしょうか?』と、冷静に聞き返され、怖くなって電話を切ってしまった。
一旦、美喜雄や冬美に相談してみようかとも考えた。ただ、美喜雄には落下事故の件で迷惑を掛けていた負い目があった。冬美とはNIFで気まずい空気のまま別れてしまったこともあり、連絡を取りづらかった。
そんな感じでグズグズしているうちに、例のメールに記されていた7月30日が迫ってきた。
陽康は「いよいよ自分で確かめるしかない」と思い、もともと骨折治療のために通っていた病院の担当医に「通院先を変えたい」と伝え、武蔵ノ宮病院への紹介状を無理やり書いてもらったのだ。
冬美は声を震わせながら言った。
「やっぱり先輩のところにも同じメールが届いてたんですね。ここに書いてある『ニシユルの生き残り』ってマイマイのことですよね。本当に、ここにいるんでしょうか…」
「一応来てはみたけど、どうせくだらない悪い悪戯だよ。もし本当に宝田舞がここにいたとして、何で殺されなきゃいけない? どうしてオレたちに知らせた? なんで警察に話しちゃいけない?」
「そうですよね。きっと…イタズラですよね」
二人の話を聞いていた美喜雄はキッパリと言い放った。
「さあ、入院病棟に行くぞ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます