2-2. 崩れ落ちた壁
俺は、作業台に転がっていた木炭を、鷲掴みにした。
もう、絵筆を握る指先の震えなど、どうでもよかった。
俺は、黒いキャンバスに向かうと、取り憑かれたように、その上に木炭を走らせ始めた。
書庫で見た、あの幾何学模様。円。螺旋。三角形。親父が、世界の秩序を描こうとした、その設計図。
俺は、それを、ただ模倣するのではない。
祈りだった。あるいは、呪いだったのかもしれない。このアトリエという聖域を守るための、俺自身の結界。高林や法律、そして、あの死の電子音の侵入を拒むための、防壁。
木炭が、キャンバスの上を滑り、乾いた音を立てる。黒い線が、黒い闇を切り裂き、網の目のように広がっていく。
それは、もはや絵ではなかった。
絶望の縁に立たされた人間が、最後の抵抗として、自らのテリトリーに刻みつける、狂気の縄張り宣言だった。
ちょうどその時、陽菜が息を切らして戻ってきた。その手には、湯気の立つ弁当の袋が握られていた。
「カイト、お待たせ……って、え……?」
彼女は、その場に立ち尽くした。
目の前で、鬼の形相で、巨大なキャンバスに意味不明の線を無数に描きつけている俺の姿を、彼女は、ただ、声もなく見つめていた。その瞳に浮かんでいたのは、驚きや心配ではなかった。
それは、理解不能なものを目撃してしまった、純粋な恐怖の色だった。
陽菜が手にしていた弁当の袋が、力なく床に落ちる。ペットボトルが転がる、乾いた音がした。だが、その音は、今の俺の耳には届かない。俺の世界は、頭の中で鳴り響く電子音と、木炭がキャンバスを削る摩擦音だけで満たされていた。
黒い線が、黒い闇を切り裂いていく。それは、闇に刻まれた、さらに深い闇の傷跡のようだった。意味などない。構図もない。ただ、内側から突き上げてくる焦燥と恐怖に突き動かされるまま、俺は腕を動かし続けた。この行為だけが、俺がこの世界に存在している唯一の証明だった。俺が、まだ、消えていないという証。
「……カイト」
陽菜の声が、俺の背中に突き刺さった。震えて、か細く、今にも泣き出しそうな声だった。
「やめて……。お願いだから、もう、やめて」
俺は、動きを止めた。ゆっくりと振り向く。俺の顔を見た陽菜が、ひゅっと息を呑むのが分かった。自分の顔が、今、どんなにひどい形相をしているのか、想像もつかなかった。
「何故だ」
俺の声は、自分でも驚くほど、ひび割れていた。
「何故、やめる必要がある。俺は、戦っているんだ。見えないのか、陽菜」
俺は、キャンバスを指差した。
「これは、壁だ。結界だ。高林も、法律も、頭の中で鳴っているこの音も、ここには入ってこれない。俺が、このアトリエを、親父の魂を守るんだ。この幾何学の壁で」
「壁……? 結界……?」
陽菜は、まるで宇宙人の言葉を聞くかのように、目を白黒させている。
「何を言っているの、カイト。これはただの絵じゃない! そんなもので、法律の手紙から逃げられるわけがないでしょう! 目を覚まして!」
彼女の叫びは、正論だった。正しくて、合理的で、そして、今の俺にとっては、致命的な一撃だった。
俺は、陽菜の視線を追って、自分の手元に目をやった。
指先は、木炭の粉で真っ黒に汚れていた。
そして、キャンバスに目を戻す。
陽菜の言う通りだった。そこに、壁など存在しなかった。あるのは、巨大な黒いキャンバスに、かろうじて光の加減で見える程度の、無数の黒い引っ掻き傷だけだ。俺が必死で築き上げたはずの結界は、ただの、子供の癇癪のような、空しい落書きにしか見えなかった。
ガラガラと、足元から世界が崩れていくような感覚。
守るための壁は、存在しなかった。
戦うための武器も、俺の手にはなかった。
そして、俺の頭の中では、依然として、ピッ、ピッ、と、無慈悲な電子音が、俺の敗北を告げるかのように正確なリズムを刻み続けていた。
「あ……、あ……」
声にならない声が、喉から漏れる。木炭が、力の抜けた指先から、ことりと床に落ちた。膝が、笑っている。立っていることすら、もう、できなかった。
俺は、その場に、ゆっくりと崩れ落ちた。
どれくらいの時間が過ぎたのか。
気づいた時、俺はソファの上に横たわっていた。陽菜が、濡れたタオルで、俺の真っ黒に汚れた手を、一本一本、丁寧に拭いてくれていた。彼女の顔は、ひどくやつれて見えた。
「……ごめん」
ようやく、俺はそれだけの言葉を絞り出した。
「ううん」
陽菜は、首を振った。その目には、もう恐怖の色はなかった。ただ、深い、深い悲しみが、湖のように湛えられているだけだった。
「私が、ごめん。カイトが追い詰められてるのに、きついこと、言っちゃった」
彼女は、俺の手を拭き終えると、床に落ちていた弁当を拾い上げた。もう、すっかり冷めきっているはずだ。
「食べよう。少しでいいから」
「……食欲、ない」
「知ってる。でも、食べないと戦えないよ」
戦う。その言葉に、俺は自嘲の笑みを浮かべた。戦うどころか、俺はもう、指一本動かせそうになかった。
それでも陽菜は、ほとんど無理やり、俺の口に冷たくなった唐揚げを一つ押し込んだ。抵抗する気力もなかった。俺は味のしないそれを、砂を噛むように、ゆっくりと咀嚼した。
食べ終える頃には、俺の意識はひどく混濁していた。疲労の泥沼に、身体がずぶずぶと沈んでいくようだ。
「……少し、寝ろよ」
俺が言うと、陽菜は、疲れた顔で、それでも優しく微笑んだ。
「うん。カイトが眠るまで、ここにいるから」
その言葉を最後に、俺の意識は、ぷつりと途切れた。電子音も、高林への怒りも、何もかもが、暗い水底へと沈んでいった。
俺が浅い眠りに落ちた後、陽菜は、一人、静寂を取り戻したアトリエに佇んでいた。
彼女は、テーブルの上に置かれた法律事務所からの冷たい手紙に目をやった。
次に、イーゼルに立てかけられた、巨大な黒いキャンバスに視線を移した。そこに刻まれた狂気じみた黒い線と、数本の痛々しい生命線。
そして最後に、ソファで時々うなされるように身じろぎをする、幼馴染の寝顔を見つめた。
どうすればいいのだろう。
この、才能と狂気の境界線で、壊れかけている大切な友人を。
彼が見ている世界は、あまりにも遠く、自分にはその入り口すら見つけることができない。
陽菜はただ、為す術もなく、静かに涙をこぼすことしかできなかった。
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