空白のアトリエ

平山桂翠

1-1. 絵の具の匂いと、空っぽの椅子

 親父の匂いがする。


 アトリエに足を踏み入れると、いつもその濃密な空気に思考が絡め取られる。

 テレピン油の揮発性の鋭い香り、リンシードオイルの甘く重たい香り、そして何種類もの顔料が混じり合った、土や鉱物のような乾いた香り。それらが、数十年の歳月をかけて染み込んだ木の床や、高い天井を支える太い梁、壁一面のキャンバスの匂いと混じり合い、ひとつの聖域を築き上げていた。

 俺にとっては、聖域であると同時に、逃れられない牢獄でもあった。

 窓から差し込む午後の光が、部屋の中を漂う無数の埃を、まるで星屑のようにきらきらと照らし出している。その光の筋は、部屋の中央に鎮座する巨大なイーゼルへと真っ直ぐに伸びていた。そこには、親父が最後まで手を加えていた未完成の絵が掛けられている。タイトルは、まだない。黒に近い青で塗り込められた背景に、何かが生まれようともがいているかのような、混沌とした白い筆致。それだけが描かれた巨大なキャンバスは、まるで虚空に開いた大穴のようだった。

「化け物め……」

 思わず、口から毒がこぼれる。壁際に立てかけられた完成済みの作品群が、俺を嘲笑うように見下ろしていた。

 燃えるような赤で描かれた闘牛、静寂の青に沈む聖母子、目も眩むような黄金の光輪を背負った自画像。どれもが、神がかった才能の残滓だ。凡人が一生をかけても辿り着けない境地に、あの男は、まるで息をするように軽々と立っていた。

 俺も絵を描く。親父と同じ画家の道を志し、このアトリエの隅で小さなキャンバスを汚し続けてきた。だが、俺の絵は、彼の作品の前では色褪せた模倣品でしかなかった。親父の血を引いているはずなのに、その才能の最も重要な部分は、奇跡のように俺を避けて通っていった。

 俺が描く線は迷い、俺が置く色は濁る。親父は、そんな俺の絵を一度も褒めたことがなかった。ただ、静かに、そして少しだけ悲しそうな目で、俺の背後から作品を眺めるだけだった。その沈黙が、どんな罵倒よりも俺の心を抉った。

 ずきり、とこめかみが痛む。最近、この鈍い頭痛が俺の思考を邪魔する。身体が鉛のように重く、椅子から立ち上がるのにも、まるで深海から浮上するような億劫さが伴った。父という巨大すぎる存在が、俺の肩に重くのしかかっているせいだろうか。

「カイト、またこんな所に籠ってたのね」

 聞き慣れた声に振り向くと、幼馴染の陽菜が呆れたような顔で立っていた。ラフなパーカー姿の彼女は、手に持っていたコンビニの袋を軽く持ち上げて見せる。

「おばさんから連絡があったのよ。『息子がアトリエから出てこない』って。もう三日も顔を見せてないんでしょ」

「……そんなに経つか」

「経つよ。ほら、これ差し入れ。ちゃんと食べないと、また倒れるよ」

 陽菜はそう言うと、慣れた手つきでテーブルの隅を片付け、買ってきたサンドイッチとパックの牛乳を置いた。昔からずっとそうだ。俺が何かに没頭して周りが見えなくなると、決まって陽菜がこうして世話を焼きに来る。その気安さが、ありがたくもあり、少しだけ息苦しくもあった。

「ありがとう。でも、今は食欲が……」

「いいから、食べられる時に食べて。……カイト、顔色が悪いよ。本当に、幽霊みたい」

 彼女の言葉に、俺は曖昧に笑うことしかできなかった。陽菜は何かを言い淀むように視線をさまよわせた後、意を決したように口を開いた。

「あのね、カイト。落ち着いて聞いてほしいんだけど……。さっき、うちのお母さんから電話があって……」

 陽菜の声が、わずかに震えていた。

「カイトのお父さん、今朝、病院で……亡くなったって」

 その言葉は、まるで現実感のない、遠い国の出来事のように聞こえた。

 親父が、死んだ?

 あの、神に愛された男が?

 俺は、イーゼルに掛かった未完成の絵に目をやった。虚空に開いた、黒い大穴。あの穴に、親父は吸い込まれてしまったのだろうか。

 涙は、一滴も出なかった。胸に去来したのは、悲しみよりも、むしろ虚脱感に近い感情だった。あるいは、解放感、とでも言うべきか。長年俺を縛り付けてきた重力の中心が、不意に消滅してしまったような、奇妙な浮遊感。これで俺は、自由になれるのかもしれない。もう二度と、あの才能の輝きに焼かれることもないのだ。

「……そうか」

「カイト……?」

「……いや、何でもない。知らせてくれて、ありがとう」

 俺のあまりに素っ気ない返事に、陽菜は傷ついたような、それでいて何かを諦めたような複雑な顔をした。無理もないだろう。実の父親が死んだというのに、俺はまるで他人事のように振る舞っているのだから。

 その時だった。アトリエの重い扉が、遠慮のかけらもなく開け放たれた。黒いロングコートを羽織った、神経質そうな顔の男。鼻につく高級な香水の匂いが、アトリエの絵の具の香りを暴力的に上書きしていく。

「やはり、ここにいたか。カイトくん」

 高林圭一。親父と同じ時代に名を馳せ、そして常に親父の二番手に甘んじてきた画家だ。世間では親父の唯一のライバルと持て囃されていたが、その実、彼の作品は常に親父の模倣と酷評されてきた。親父の才能に最も焦がれ、最も嫉妬していた男。

「高林さん……。何の用ですか」

「何の用、とはつれないな。巨匠の訃報を聞いて、弟子として駆けつけるのは当然のことだろう?」

 彼の言う「弟子」というのが、皮肉であることは明らかだった。彼は一度も親父に師事したことなどない。それどころか、公の場で何度も親父の作風を批判していたはずだ。

 高林は俺の返事を待たずにアトリエへ上がり込むと、貪るような目で壁の作品群を眺め回した。そして彼の視線は、中央のイーゼルに吸い付けられた。

「ほう……これが、絶筆か」

 彼は恍惚とした表情で未完成の絵に近づくと、その表面を指でなぞろうとした。

「やめろ! 気安く触るな!」

 俺は思わず叫んでいた。親父の作品は、俺にとっては憎しみの対象であると同時に、誰にも汚されたくない神聖なものでもあった。

「おや、怖い顔だ。だが、君にこの絵の価値が分かるとは思えないがね」

 高林は面白そうに口の端を歪めた。

「結局、最後まで親父さんの猿真似しかできなかった君に、この未完成の傑作をどうこうする権利はない。これは、しかるべき人間が管理し、後世に伝えていくべきだ。例えば……そう、私のようなね」

 その言葉は、俺の心の最も触れられたくない部分を、容赦なく抉った。猿真似。その通りだった。俺は、この男が言う通り、ただの猿真似しかできない三流の絵描きだ。

「このアトリエも、作品も……全て私が然るべき形で管理してやろう。君のお母さんとも、もう話はつけてある。君には、このアトリエを出て行ってもらうことになるだろう」

「なっ……! 親父の絵は、俺が……!」

「君が?君が何をするというんだ。この絵を完成させるつもりか? 笑わせるな。君には無理だ」

 高林の冷たい言葉が、突き刺さる。彼の言う通りかもしれない。俺には、この絵を完成させることなどできはしない。この黒い虚空を前に、俺はあまりに無力だ。

 高林は、勝ち誇ったように俺を見下すと、「また近いうちに来るよ」と言い残して去っていった。高級な香水の残り香が、俺を嘲笑うようにアトリエに漂っていた。

「ひどい……あの人、なんて言い草なの」

 陽菜が、怒りに声を震わせている。だが、俺は何も言い返せなかった。高林の言葉が、全て真実だったからだ。

 違う。

 本当にそうか?

 俺は、戦う前から諦めているだけじゃないのか。

 親父の才能を言い訳にして、逃げているだけじゃないのか。

 俺は、イーゼルの前に立った。

 未完成の、黒い大穴。

 高林の言う通り、俺にはこの絵の価値なんて分からないのかもしれない。だが、これだけは分かる。この絵は、親父の魂そのものだ。これを、あの男の好きにさせてたまるか。

「決めた」

 俺は、傍らに置かれた絵筆を手に取った。

「この絵は、俺が完成させる」

「カイト……?」

 陽菜が息を呑むのが分かった。親父の作品に、他人が手出しすることなど、これまで考えられなかった。それは、神の領域を侵すに等しい、冒涜的な行為だった。

「親父の絵を、あの男から守る。そして……俺が、俺自身の力で、親父を超えてみせる。そのために、この絵を描き上げるんだ」

 それは、虚勢だったかもしれない。長年抱き続けた劣等感の裏返しだったのかもしれない。だがそう口にすることで、俺は初めて、親父とではなく、自分自身と向き合えるような気がした。

 俺はパレットを手に取り、チューブから純白の絵の具を絞り出した。黒い虚空に、最初の光を描くために。

 その時だった。

 絵筆を握る右の指先に、奇妙な痺れが走った。まるで、分地厚い手袋越しに筆を握っているような、鈍い感覚。指が思うように動かない。

「……っ」

 俺は一度筆を置き、指を開いたり閉じたりしてみた。何度か繰り返すうちに、痺れはゆっくりと引いていった。

 スランプのせいか。あるいは、父の死の衝撃が、俺の身体を蝕んでいるのかもしれない。

 俺はもう一度、強く絵筆を握りしめた。これから始まる長い戦いを前に、自分の心が、身体が、悲鳴を上げているようだった。

 それでも、描かなければならない。この空白を、俺の色で埋め尽くすまでは。

 俺は震える筆先を、ゆっくりと、黒いキャンバスへと近づけていった。

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