首尾ふたり

衣ノ揚

1

 その人が良い人とか悪い人とか、好きとかきらいとか。両立しないことがあって当然なのが、どうしてなかなか受け入れられない。人を盲目的に信じたり、人を極端に拒絶したりするうんこマン。そしてそのうんこマンの部屋にはうんこマンの髪の毛がいっぱい落ちていて、なのにうんこマンは素足で部屋を歩き、そのままベッドにダイブしちゃうのだ。

 深夜。寝ようにも寝付けない私の脳内では、もう第何回目なのかもわからない、セルフ義務大反省会が行われていた。体育の感想のプリントを提出しないで持ち帰ったあげく、次の授業でも持って行くのを忘れてしまった。ファイルに入れてたはずの紛失したプリントは、幸い授業が終わって探したら見つかった。ここまで先生に何も報告していないのは論外だが、さておき、来週出すときは一言謝って出さなければいけないだろう。けど、APTアングリーP. E.ティーチャーと対峙するのは考えるだけで身の毛がよだつ。成績とかどうでもいい、単純に怒られたくない。はて、うんこマンはどうしたら良いのかな。てか、うんこウーマンのほうが正しいかも。ずっと言葉の肥溜めでボビングジャンプして時間を浪費して、これだからダメなんだ。

 布団に入って何時間。エアコンは運転をやめて私より先に寝ているというのに、厄介な思考は回り続ける。こういう時は、ラジオを聴いて脳みその隙間を埋めてもらう。スマホを開くとその明るさに「ウッ」となりながらも、パスコードを入力する。暗闇の中では顔認証は通用しなかった。目についたインターネットラジオを再生、ベッドの近くに落ちている接続しっぱなしのヘッドフォンをたぐりよせて聴きはじめた。

 目をつむると、途端に眠くなってきて、もはや内容など入ってこないどころか、ラジオの声が邪魔くさくなってきた。だから、ヘッドフォンもスマホも、ベッド横の脱いだ服の山に放り投げてしまおう。暗闇でよく見えなかったが、ボフッという安全に着陸した音が聞こえた。

 布団を頭の先までかぶって再びぎゅっと目をつむる。瞼の裏がグラグラする。真っ黒になったなにかが縮小して、しわしわになっていく。自分の体が、ホームベーカリーの中で大きくなっていく食パンのようで、やたらベッドが狭いような気がして、縮こまる。時計の秒針の音だけが響く中、うんこウーマンはいつの間にか眠りについていた。もしかしたら、うんちウーマンのほうが響きがいいかもなんて考えても、翌朝にはぜーんぶ忘れてしまう。


 布団が離してくれないなんてよく言えたものだ。寝ている間は布団のことを散々蹴り飛ばしたくせに、恩を仇で返したとんだ責任転嫁である。

 毎日家を出る十五分前に起床する。そして、毎朝もっと早く起きる予定だったと思うのを繰り返し、もはやルーティン。意外とこれでも間に合うから、更に怠けていく。いつもこう、できるだけ苦労せず、常にギリギリであっぷあっぷを繰り返してここまできてしまった。苦労しましたなんて顔だけしてせこい。

 着替えて、顔洗って、ヨーグルトを食べる。水筒引っ掴んで、家を出る。天気なんていうのは、外に出て上を見上げれば予報はいらない。今日は頭が痛くなるような曇りだった。折りたたみ傘はクシャクシャに畳まれてカバンのサイドのポケットに突っ込まれ、必要なときを除いてその存在を忘れられている。


 ポケットの手をぐーぱーしながら、遠くから大きな車が走る音が聞こえてくるのをじっと待っている。肌感覚的には寒くないのに、歯と肋の下のところがガタガタ震えて内臓が萎縮している感覚がある。

 うそ言いました、肌感覚的にも寒くなってきた。完全に舐めていた。手袋も、ネックウォーマーもあろうことかヒートテックも着てこなかった。だって家は暑かったんだもの。うおー寒い早くバス来てくれ。

 帰りはもっと寒いだろう。


 いつも、教室に入り着席すると同時にチャイムが鳴るのだが、今日はコンマ一秒間に合わなかった。席の近くまで来たはいいものの、空いてるはずの自分の隣席に見知らぬ人間が座っていて、ワンテンポ遅れを取ってしまったのだ。チャイムが鳴ると、教室にブラウン運動みたいに散らばっていた生徒たちが、バタバタと慌ただしく規則的に並んだ座席へ着席し始める。私も大人しく座った。

 当たり前のように、となりの人間と目が合ってしまう。空を写したような瞳。白い肌に、ふさふさまつげ。薄い唇には、彼女の雰囲気とは少し合わない、パンチの強い赤色の口紅が塗ってあった。ちょうど肩に触れるくらいの髪は金髪。まつげも黄金色なので、おそらく地毛だろうか。あんまりじろじろ見るのも失礼だろうと思って、私は焦点を彼女の眉間に定める。それから、できるだけ口角を上げ、頑張って目を細め、朝の挨拶をしてから尋ねた。

「後期生の方ですか?」

 金髪碧眼の彼女も同じようににこやかな笑顔をして挨拶を繰り返し、頷いた。

「帰国生の桜羽おうはエナと言います」

「春子です」

 お互いに軽く会釈を交し、それ以上の会話はなかった。私自身何を話したらいいのかよく分からなかったので、授業が始まり先生が話し始めてくれたことに少しホッとした。

 緊張でもう名前を忘れてしまったので、教科書をチラ見。エナ、エナちゃんね。


「みなさんは非正規雇用と終身雇用、将来どちらで働きたいですか?」

 授業の流れはいたって単純。先生が話し、私たちはプリントの()で閉じられた空欄を埋める。指示があれば近所の席の人と話し合いをして、意見と感想を書いて提出。そんなふうに進行していく。今日の話合いも、これから始まろうとしていた。

 前から流れてきたプリントを受け取り、記名する。前の席の二人が椅子の向きを変え、こちらを向いた。その二人と、私、隣のエナちゃんで四人班の完成だ。前の二人は私の隣の見慣れない少女に気がつくなり、だるそうに半開きにしていた目を見開き輝かせた。

「えー!!かわいい!」「後期生の子?」「ハーフ?どこから来たの?」

 早速質問攻めにあっているエナちゃんは少し困ったように眉尻を下げた。

「ありがとうございます。後期生です。それから、そう、ハーフです。アメリカの、バージニア州、ロアノークに住んでました」

 エナちゃんは質問に一つずつ、丁寧に回答していく。回答に対する感想を、さらなる質問が追い越していくように、話題がどんどん上書きされていく様子はミルフィーユを彷彿とさせる。

「てか日本語めっちゃ上手だね!」「髪は生まれつき?かわいい〜♡」

「一応、父が日本人で、小さい頃は日本に住んでたので…...髪は地毛です」

「「すごーい!」」

 何がすごいのかよく分からない。テーマが雇用形態から転入生の話題に代替してしまったお話会は大盛りあがりだ。ここで、ちゃんとやろうよ、なんて小学生の優等生みたいに言ったらすぐにでも空気が凍りついて、班での私の存在はエベレストくらい高く浮いてしまう。そしたらもう、地価爆上がりの地上に居場所なんてなくなってしまう。標高8,849メートルから「おうちにかえしてー!」なんて叫びたかないので、黙るが英断だろう。

 私はみんなのペースの早い会話に追いつくほどの技術もないので、ただニコニコを心がけて頷いて、時折「へー!」なんて言ってその場をしのいだ。しかし、いくら自然になろうとしたって、甘く見ても会話に参加できてはいないだろうから、東京スカイツリーくらいは浮いてしまっていたかもしれない。気づけば手汗がびっしょりで、持っていたプリントがちょっとしなっとしてしまった。


 授業終了のチャイムが鳴る。私は急いで荷物をまとめた。ネガティブが加速して苦しくなってきたので、エナちゃんの周りに人だかりができる前に今すぐここから退出してトイレに駆け込みたかった。重たいカバンを持ち上げ担ぎ、早足で教室をあとにしようとした。

「あの!」

 誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえなかった訳では無いが、私には無関係だと思い込んでいた。ここで振り返って自分じゃなかったらまるで自意識過剰じゃないか、ともちょっと思った。

「あの!春子さん!」

 また背後から声が聞こえる。自分の名前が呼ばれるのを聞いて私は急いで振り返った。なにか忘れ物でもしてしまったのだろうか。私がシカトしたと思われたらどうしよう。

「よかったら、連絡先交換してくれませんか」

 振り返ると二つの綺麗な青いビー玉に目を奪われた。私を呼んだのはエナちゃんだった。予想だにしない言葉がやっと自分の中で消化でき、じわじわ気持ち悪い喜びが込み上げて、少し遅れを取りつつも二つ返事で快諾した。

「もちろん〜」

 内心、なぜ私?と思いつつも、まあそんなもんかとも思って差し出されたQRコードを読み込んだ。傍から見れば、ヘラヘラしている変な奴だったことだろう。これがエナちゃんと私のファーストコンタクトだった。


 午前の授業をなし終えて、心かろくやすらえば、風は涼しこのお昼。私はいつものように学校を出て、近くのコンビニへ向かった。横断歩道を渡ると、「寒い!」とわたわたする仲良しこよしな学生たちとすれ違う。目的地の前に立つと、自動ドアがゆっくりと開く。開ききるのを待たずして店内に体を滑り込ませた。

 コンビニで買うものはだいたい決まってる。今日もいつもと同じ、ネギトロの巻いたやつをかごに入れた。エアコンに支配された空間はやたら乾燥するので、喉を思いやって飲み物も買おう。お茶が陳列され温められている、冬の人間が代わり代わりに蔓延るコーナーに向かうと、知っている人間が視界の端に写った。慌てて後ずさりして棚に隠れる。

 エナちゃんだ。ちょっと、というか非常に気まずい。さっき「じゃあね」と別れた相手と会うほど気まずいものってある?あるか、普通に。

 相手が誰だろうと、こういう時はいつも逃げるというルールを決めている。しばらくエナちゃんが退くのを待つか。


 と思ってからもう五分は経っただろう。彼女、なかなか暖かい飲み物の前からどかないのである。私も棚の菓子パンを一つひとつ睨みつけて威嚇するのには飽きてきたし、お昼休憩の時間だって有限だ。

 もしかしたらなにか困っているのかもしれない。ほら、彼女帰国したてかもだし、色々慣れないこともあるだろう。仕方ない、私は自分が作った自分のための自分で守ってる自分ルールを自分でしぶしぶ破り、彼女の右隣から声をかけた。

「えーと…...エナちゃん?お疲れ様」

「お疲れ様です!」

 エナちゃんはハッとした顔をしてこっちを見る。随分集中して選んでいたようだ。私は棚から280mlペットボトルのお茶を取ってそっと自分のカゴに入れた。

「お茶、どれ買うか迷ってるの?」

「それもそうなんですけど…...玉露と煎茶って何が違うのかなぁとか、ペットボトルの底の形がお花みたいだったり、弁護士バッジみたいなのあるけどなんでかなぁとか、同じ高さなのに容量違うんだなぁ、とか考えてたら止まらなくなっちゃって」

 素直に感心する。随分知的好奇心が旺盛なタイプのようだ。こういう真剣な子の夏休みの自由研究見たい。

「探究心の塊だね、研究者向いてるんじゃない?」

 適当な返事のつもりだったのだが、私がそう言うと、彼女はただでさえ可愛い顔をもっと可愛い顔にして笑った。

「えへ、ありがとうございます」

 しゃがんでいた彼女はそう言いながら立ち上がり、お茶を一本選んで私に見せた。

「決めました!春子さんとおんなじのにします」

 率直に、あざといな、と思った。

「よかったら一緒にお昼食べませんか?」

「……いいよ」

 ぜひ、と答えられなかったのは私の見え隠れする意地だった。それと、容姿から人柄までよくできた彼女に対するちょっとしたジェラシー。

 それから私たちは横断歩道を渡り一緒に学校に戻って、空き教室で机を合わせた。

「いただきます」

「いただきます!」

 私にとっては珍しいことに、気まずい雰囲気は流れなかった。だからといって特段話が盛り上がった訳でもない。ただ、私たちはお互いのことをよく知らなかったからこそ、話が続いたのだ。Q&Aを繰り返すうちに、時間が過ぎていった。

 決して、彼女が私が好きな本をいっぱい知ってて嬉しかったからいつにもなくいっぱい喋っちゃったわけじゃない。うそ言いました、少しはいつもより話したかもしれない。

 理由はともあれ結果として喉が渇いたので、お茶は買っておいてよかった。


 帰りの電車で音楽を聴きながら、エナちゃんのSNSアイコンを眺めていた。三毛猫ちゃんのアイコン......猫好きなのかな。

 今日は人と話す機会が多くて疲れてしまったので、まっすぐ家に帰って横になった。


 今日も私たちは他愛のない話をしながら食事を共にする。

「そういえば、部活どうするの?」

「あー、そろそろ決めないとだよね〜」

 エナちゃんはコンビニで買った昆布のおにぎりを器用に開封して海苔を巻き、それを頬張る。

 彼女がうちの学校に来てだいたい二週間。単位制なので同じ授業とるかはほぼ運ゲーで、重なった授業は月曜一限の公共だけだった。にもかかわらず、私たちは毎日顔をあわせていた。

 お昼休憩になると私はトイレで一息ついた後、コンビニに行ってお昼ご飯を買う。彼女はどことなく現れて、一緒に行きましょ〜とついてくる。そういうのをしばらく繰り返すうちに、自然と私たちは校門の前で待ち合わせするようになっていた。

 頬張ったおにぎりの一口を咀嚼し終えて、エナちゃんは先程の質問に答える。

「そーね、春子さんとおんなじにしようかな」

「......美術部?なんで?」

「?......なんでってなんで?」

 私の質問の意図が分からないというように、彼女は首を傾げた。

「絵描くの?」

「うーん、描いたことないけど、意外とできる気がするんだよね〜。才能開花のビック大チャンスかも!」

 しばらく彼女と時間を共有するようになって、分かったことがある。彼女は自信家で、それからかなりの無鉄砲。この前もコンビニまで早道しようとして塀と壁の間に挟まっていた。

「まあ、今日お試しで美術室おいでよ。それから決めたらいいじゃん」

 彼女の大胆なところは悪くないと思うが、何でもかんでも誰かと同じにするというのは、小学生までだろう。もう少し慎重になったっていいはずだ。

「急がば回れだよ」

 彼女は咀嚼中の口元に手を置いて小言を言った。

「わたしのモットーは善は急げだし」

「この前もそれ言って護岸壁を登って転がり落ちてたじゃん」

「でもめっちゃ無事だった」

 エナちゃんはシャツをまくり上腕二頭筋を見せた。

「結果的に時間の無駄じゃん」

「まあまあ、非効率を愛そうよ」

 結局、結論は急ぐのか遠回りなのか分からなくなってしまった。エマちゃんが言うことだとなんでも正しい気がしてしまう。そのことに何だか腹が立って、私はネギトロの巻いたやつを口に押し込んでお茶で流し込んだ。


「誰もいないんだね〜」

 美術室の引き戸を開けると、ペインティングオイルの匂いがツンとした。でも、気になるのは入室する時くらいで、すぐ慣れる。

 エナちゃんは物珍しそうに閑としている部屋を見渡す。私はイーゼルと椅子を二つずつ並べながら、彼女に説明した。

「美術室は放課後毎日空いてるの。それぞれが好きな時に来て描き進めるシステムなの」

 そうは言っても、文化祭前だっていうのに人が全く居ないというのはちょっと問題なんだけどね、と付け加えた。

 私は彼女に鉛筆画か、固形水彩かの二択を提示した。油絵だと一日じゃなかなか終わらない。彼女は鉛筆画を選んだので、私は練り消しと数本の鉛筆を持ってきてイーゼルの受台に置いた。描きたいものがあるというので、あとは彼女に任せることにした。

 私も隣に座ってペーパーパレットにかけたラップを剥がす。

 隣を見ると、彼女は真剣な顔つきで既に作業を始めていた。鉛筆の持ち方がとても綺麗だ。私は持ち方が変なので、よく薬指にタコができる。

「何描いてるの?」

「秘密」

 彼女は私の方を見向きもせずに言った。そう答えられてしまったら、詮索するのも野暮かと思い、私もキャンバスに向き合った。


 ふと、時計をみやるともう一時間が過ぎていた。しまった。ずっと無言だった。無言だということにすら、気が付かなかった。ただ、不思議と気まずいなんてことはなかった。少なくとも、私は心地よい沈黙だったと思う。二人でいるのに、まるで一人でいたようだった。

 隣を見ると、一時間前に見た時と全く同じように背を伸ばした姿勢で鉛筆を動かすエナちゃんがいた。彼女の絵を覗き込んでから、私は質問した。

「猫ちゃん好きなの?」

 彼女が書いていたのは、丸まって昼寝をしている猫ちゃんだった。三角形の耳と、まあるいフォルムが何とも可愛らしかった。

 絵を一目見れば、エナちゃんが初心者では無いことは明らかだった。お昼のあれは、彼女なりの謙遜か何かだったのだろう。素人というには無理がある出来だった。光も影も、毛の一本一本もあるべき所にあるというのか、完璧といっても装飾のない作品だった。

 絵を描く人にこれは禁句かもしれないが、まるで写真のようだった。もっと驚くべきことに、彼女は参考画像を何一つ見ていなかった。

「春子ちゃん、いつも同じの食べてるよね」

「え、うん」

 見られていたと思うと少し恥ずかしい。変に映っただろうか。というか、それが猫が好きなのかという質問と何が関係するのだろうか。

「ねぎとろまき、好きなの?」

 少し考えてみる。私はいつも、それが食べたい!というより、「私これ好きだったよな...…」みたいな惰性でネギトロの巻いたやつを選び続けている。

「どうだろう。まあ好きなんじゃないかな」

「私もそんな感じだよ」

 私がネギトロの巻いたやつが好きなのと同じくらい、猫が好きということだろうか。

 私は毎日これを食べてる訳だから、彼女からしたら、すごくネギトロの巻いたやつ好きに見えるかもしれない。と、すると、エナちゃんは猫がとっても好きなのかな。分かったようで、あくまで憶測の範疇から外に出ることはできなかったので、私はぎごちなく頷く他なかった。


 結局エナちゃんは美術部に入部するのを先送りしているのだが、たまに私について美術室に来ては、私と駄べったり猫の絵を描いたりしていた。


「エナさ〜、春子と仲良いよね」

 あれから寒さが益々厳しくなり、冬真っ盛りなある日。三限が終わって数学の教室へ移動中、廊下を歩いていた。ふと、通り過ぎようとした教室から私の名前が聞こえた気がして、思わず立ち止まる。

「まあね」

 エナちゃんの声だ。どうやら、教室の中でお友達と立ち話をしているらしい。盗み聞きは良くない、早く立ち去らなければ。そうは思いつつも、自分の話題かもしれない以上、気にはなる。あと少しだけ、もう少しだけ聞いたらやめよう。

「うちらがお昼誘ってもさぁ、春子と先約があるって断るじゃん?もう誰もエナのこと誘わなくなっちゃったよね」

 背筋が凍る。

「正直さぁ、あの子、空気読めないよね。クラスメイトと会っても自分から挨拶とかしないし、いつも目合わせないじゃん。エナも分かるでしょ?」

「……そうだね」

 動悸がした。だめだ、これ以上はいけない。早く立ち去らなきゃ。吐きそうだ。空気がどんどん薄くなっていくようだ。頭の中を渦が巻いて、指先は小刻みに震えていた。やばい、トイレ逃げなきゃ。そう思っているのに、私はその場に座り込んでしまった。

「でしょー!じゃあさ、なんで、春子とつるむの?」

「......んー、面白半分?都合が良かったというか......まあもう終わりなんだけど」

 つま先から一気に頭の先までビリビリと冷えていくと同時に、心にヒビが鋭く入る感覚がして、冷や汗がどっと出た。私は膝にやっとのことで力を入れて立ち上がり、一番近いトイレに駆け込んだ。

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