09-惣領娘

「何、そのふざけた返事。目上の方にお返事するときは、きちんと『はい』と申し上げないと」


 ――あらやだ。姉上を目上と思っていないことがバレているわ。


「はい。姉上、申し訳ありません。ご指導ありがとうございます」

「あなたが人前でそのような返事をすると、奉家の格が問われるのよ。妃候補の妹として恥ずかしいわ。それに……あなたは華家に嫁ぐ」


 春紅は精緻な扇をゆっくりと広げた。新調したばかりなのだろう。

 散りばめられた希少な貴金属が、室内灯の光を反射してキラキラと揺らめいていた。


「将来、士大夫として栄達される博然様。その方をお支えするのが、あなたの役目です」


 ――まあ、私が支えないと童試にすら受からない男だけれどね!

 内心の毒を押し隠し、メイリンは神妙にうなずいた。


「妃候補に選ばれた私の代わりに、あなたが博然様に嫁ぐことになった。華家の皆様には申し訳ないけれど、美しき者の宿命ですわね」


 扇がふわりと翻り、伏せた長い睫毛が涙を隠す……ように見えた。だが、厚化粧を気にして扇を顔に近づけまいとする様子が、その演技めいた仕草を際立たせていた。


 博然と姉は仲の良い幼馴染みだったが、妃候補の打診があったとたん、姉は迷わず承諾した。

 メイリンはそれを知っている。「姉上、大変なお役目、大丈夫かしら」と、子ども心に思ったものだった。


 あの頃から「姉上は、よく分からないまま動いて、失敗するのだ」とメイリンは気づいていた。

 いま、妃候補を続けながら博然となれ合っているのも……短絡的に欲望のまま動いた結果だろう。


 だから、ただ呆然と姉の自己陶酔を見つめていた。

 ――姉上……そんな状況把握力で後宮に耐えられるのかしら?


 ふと、華家の父と母が涙ながらに懇願してきた時のことを思い出す。


 ***


 あのとき、8歳だったメイリンに、博然の母はすがるように言った。


「あの子はとても良い子なの。知ってるでしょ?」


 ――いや、小狡いイケメンとしか知りません。

 ぞわっと背筋がむずがゆくなる思いを押し隠し、メイリンは神妙に微笑んだ。博然の母は、なおも必死で続ける。


「でも少し不器用で……童試は苦労するわ。どうか助けてやって。あの子の父親や兄のように、きっと立派な士大夫になりますから」


 華家の当主と嫡男が優秀なのはメイリンも認めていた。

 ――博然様と兄君では、母親が違うから……差がついてしまったのかしら。


 ***


 春紅が「妹より姉の自分が勝っている点」についてとうとうと語っているのを、メイリンは上の空で聞き流し、回想に戻る。


 ――童試に受かったとき、華家の皆さまはそれはもうお喜びで……「何でも欲しいものをさしあげる」と言ってくださった。


 その時、春紅が得意げに言ったことに驚いて、メイリンは回想を打ち切った。


「あなた、あちらの家に疎んじられているのでしょう?  隠しても私には分かるの。お衣装も頂けず……姉として不憫で」


 ――「衣装や宝玉よりも書巻を」と華家の父君に願った私の意図、完全に誤解されているわね。

 

 華家から贈られた書巻の数々は、自室の書棚に丁寧に収められている。

 とりわけ、華家父子が考察を書いた栞を挟んだ詩賦や論策は、メイリンにとって何ものにも代えがたい宝物だ。

 その考察に目を通すたび、鋭い視点と繊細な言葉選びに心を打たれ、胸が自然と高鳴る。

 ――私を「役に立つ存在」と認めたうえで、知を分かちあってくださった。なんて尊く、かけがえのない贈り物なのだろう。

 春紅には……理解できないのは間違いない。


 そして、ひとつ最近の春紅にツッコミどころに思い当たる。


 ――本来なら、私の衣装を整えるのは惣領娘である姉上の役目のはず。


 けれど杏杏が頼んでも、ほとんど用意してもらえない。


 唯一、新調されるのは礼装一式。

 成長に合わせて仕立て直される。

 それも、式典の場で不格好にならないようにという、体裁のためにすぎない。


 蒼瑛帝国の正式な場では、中衣なかごろもを身に着け、くんを巻き、飾帯しょくたいで帯を締める。

 その上に刺繍入りの上衣うえごろもを重ね、薄絹の披帛ひはくを肩に羽織る。

 髪は飛天髻ひてんけいに高く結い、歩揺ほようを飾る。

 足元には、華やかな花盆靴かぼんぐつを履く。


 メイリンの礼装は地味な色合いと素材が常ではあるが、縫製は丁寧で、仕上がりには満足している。


 ただし、それ以外は安物ばかり。8歳の頃から着ている普段着もある。

 ブカブカで飾帯で調節していた服は、だんだん余裕がなくなってきている。

 買い足し半年ごとに一揃えの安物……博然にはからかわれるし、逆上する杏杏をなだめるのがひと苦労だった。


 メイリン自身は、清潔で傷んでいない服が3組あれば十分だと思っている。だが、杏杏が気にかけてくれるなら、応えてやりたい。


 だが帳簿を見ているメイリンは、奉家の服飾費がすでに過剰だと知っていた。


 春紅は、自分こそが「愛され女子」だと信じきっている。

 家の予算を当然のように自分の装いに注ぎ込みながら、それを「役目」と信じて疑わない。


 自身の立場、背負うべき責任……どれも、春紅の目には映っていない。

 たしかに、美貌としたたかさには目を見張るものがある。だが、教養となると話は別だ。


 それでも本人は、完璧に取り繕えているつもりなのだろう。澄ました表情には、そんな自負がにじんでいる。

 けれど、見る人が見れば一目で分かる。妃候補としての教育でも、その浅さはきっと見透かされているはずだ。


 そんな春紅が、似たような性質の博然と結ばれても、互いの弱点を補えない。

 ふたりで手を取り合ったところで、士大夫への道を歩むなど夢物語だ。


 メイリンの支えがあってもなお、博然の未来は不安定にゆらゆらしている。

 少しの油断で転落しかねない。

 春紅では……歳試の手助けはできない。


 華家は皆、博然の将来を案じている。春紅が嫁げば、必ず反対される。

 なにより博然の母と兄君の妻は、衣装代を惜しまず請求するような次男の嫁をきっと疎む。


 ――けれど、姉は、その誤解に気づくことすらないだろう。


 ***


 壺と矢の箱を抱え、博然が嬉しそうに現れた。


「春紅様、お待たせしました。それでは一勝負、いかがです?」


 春紅はにこやかに寄り添う。優雅に矢を構え、ふわりと放つ。だが矢は壺の縁をかすめ、床を転がる。


 博然は笑いながら自分の矢を持ち、狙いもせず、やけに力強く投げた。

 奇跡のように、矢は壺に収まる。


「これが、天賦の才というやつかな?」


 得意げ、かつ、軽薄に言う博然に、春紅の目はさらに輝いた。矢を投げただけなのに、まるで英雄を見るようだ。


 ――さっき詩を読んでいた時のように、博然様はやればできる。投壺の複雑な規則もお手の物。でも、面倒なことには集中できない。姉上も……たぶん同じ。


 遊びに夢中なふたりに丁寧に挨拶し、返礼もないまま、メイリンは客間をあとにした。

 ――――努力を嗤い、偶然を才覚と呼ぶ。そんな人たちを世話するために、尽くす人生は……これからも続くのかしら。

 しかし、メイリンはふっと深い息をついて、微笑んだ。

 ――でも、誰にも必要とされなければ、私は家の書庫にすら、居場所を見つけられなくなってしまう。


 その夜、壺に矢が落ちる音と歓声は、日付が変わるまで響き続けていたという。


 ***


 春紅への当てつけのつもりで、メイリンはいつもより淑やかに自室へ戻った。


 だが、ただの意趣返しではない。小さな反省もあった。

 指摘しても理解しない姉を、心のどこかで侮っている。まだまだ自分は子どもだ。

 ――士大夫の妻になるなら、本心を表に出してはいけない。気をつけよう。


 そんな殊勝な気持ちは、部屋の戸に手をかけたところまでだった。


 戸を開けた瞬間、視界に飛び込んできた光景に、思わず叫び声が出た。


「ああ! もう! やられた!」

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