03-婚約者(元)の母

 講堂にふたたび怒声が響いた。


「どうしてもっと上手くやれなかったの! 博然は賢い子なのに!」


 今度は博然の母、華夫人がメイリンを鋭く指差した。

 その顔は紅潮し、こわばった頬に浮かぶ皺がひきつり、血走った目が異様に見開かれていた。


「……お前が邪魔をしたのね……ああ、そうよ、呪われた血の娘……」


 会場は凍りつき、卒業生の親たちはそれぞれ気まずそうに目をそらした。


「お前は、早死にした母親の不吉な星のもとに生まれた、魔女のような子……博然の言うとおりよ。母親を苦しめ涙させる鬼子」


 その言葉に、メイリンは小さく息をのんだ。

 ――魔女? 呪い? 母の話まで……?


 感情を顔に出さぬよう、静かに立ち尽くす。乱れそうな足元に力を込め、ふっと口角を上げる。

 ――なるほど、呪いの血筋、ですか。愚かで奇天烈な理屈。さすが博然様の母君、論理より感情に傾くのは筋金入りです。


 母が亡くなったのは、メイリンを産んだその日。

 けれど、父と兄、そして乳母たちの愛を受けて育ってきた。

 姉とはそりが合わなかったが、それなりに、愛してきたつもりだ。


 だが実際には、春紅のような華やかさも才気もなく、神経質さだけを残したような人だった。しかも、それがいちいち可愛げもなくて、顔を合わせるたびに、うんざりさせられた。

 ――会うたびに嫌な思いばかりしたわ。あんな母は……要らない。


 博然の成績が上がれば、目を細めて賛辞を並べ、少しでも下がれば……血相を変え、声を荒げる。

 ――まるで、赤子に振り回される未熟な少女のように。


 メイリンは気を取り直して背筋を伸ばす。


 ――心中の皮肉は口に出しちゃだめ。逆上させないよう、無表情で。


 それでも夫人は、その静かな反応が気に食わなかったのだろう。

 メイリンの沈黙が、夫人の錯乱をさらに煽った。


「可愛い博然がこんな目に遭うなんて! 奉家の不吉な力が、華家を破滅に追いやったのよ!」


 夫人の叫びが講堂に反響するたび、場の緊張はさらに増していった。

 若者たちは小声で囁き合い、その冷たい視線の多くが、なぜかメイリンに向けられていた。


 一方、博然と春紅は沈痛な面持ちを装っていた。

 だがその口元には、場違いな笑みがわずかに浮かんでいた。


 そのときだった。


「母上……もうおやめください!」


 凛とした声が、講堂の空気を鋭く裂いた。


 博然の兄だった。

 士大夫の正装をまとった姿は整い、毅然とした声には迷いがなかった。


 ひるんだ夫人は動作を止めた。

 だがその目はなお血走り、忌々しげに細くつり上がっていた。


「誰よりも博然に尽くしてくださった方に、礼を失するのはお控えください」


 その言葉は、重く張りつめていた心を、わずかにゆるめてくれた。


 けれど夫人は、長男の進言すら拒むように首を振り、膝を折ってその場に崩れ落ちた。

 そして、うわごとのように「……魔女」と繰り返しながら、自らの指を握りしめた。

 血がにじむのにも気づかぬ様子だった。


 誰もが、その異様な光景に言葉を失った。


 メイリンはそっと目を伏せて息をついた。

 華家の誰とも視線を交わさなかった。

 とくに、自分をかばってくれた博然の兄からは、そっと視線を逸らした。

 これ以上の騒ぎを招かぬようにと決めた、無言の意志だった。


 ――兄君には、かつて書巻について語り合ったとき、敬意を示していただいた。その記憶だけは、そっと胸に残しておこう。


 ふと、華家の父子に贈った詩賦注釈のしおりがみを挟んだ書巻の感触がよみがえる。


 ***


 メイリンの自室の本棚には、ひときわ目を引く装丁の書巻が並ぶ一画がある。


 冊子の小口には、上質な数多あまたの栞が顔をのぞかせている。

 頁を静かに紐解けば、博然の父と兄、それぞれの注釈が栞に書き記されていることがわかる。

 栞はかすかに揺れ、静かに知を語る。


 それは、恋でも同情でもない。

 知と知の交わり。

 互いを尊重した証し。

 姉も、博然の母も、いや博然自身も、決して理解しないつながりだった。


 博然の兄のような人物がいたことが、今はほんの少しだけ、心の支えになっていた。


 ***


 その直後、講堂はさらに騒然となった。


 ガツン。

 途方にくれて座っていた夫人が、頭を床にぶつけて昏倒したのだ。


「誰か! 医者を呼べ」

「医務室に運びますか?」

「いや、動かさないほうがいい!」


 人々が駆け寄るなか、博然……実の息子は、驚くほど冷淡だった。


 心配そうな素振りすら見せず、春紅とともに講堂から立ち去った。

 見ていた者によれば、「ちょうどいい」とでも言いたげな薄笑いを浮かべていたという。


 だが、後にそれを知った者たちは、誰ひとり驚かなかった。

 ただ、呆れたようにため息をつくだけだった。


 博然の恩師はこう呟いたという。


「人の尊厳を踏みにじっておいて、何も感じぬまま笑って去るとは……」


 ***


 講堂をあとにして、メイリンは夜風の中をとぼとぼと歩き、学校が手配してくれた輿こしに乗った。


 歩みを止めても、花盆底の硬い靴を長く履いた足はじんじんとうずいた。

 けれどそれ以上に痛んだのは、数年かけて積み重ねてきた役目のための努力が、無に帰したという事実だった。


 ――私が悪かったわけじゃない。そう、気にしちゃ駄目。でも……。


 胸のざわつきは、後悔ではなく、むなしさだった。


 帰宅し、父の執務室から聞こえる落ち着いた声に、わずかに心が和らいだ。

 自宅ここでは、理不尽に責められることはないだろう。


 だがメイリンは、ふうっとため息をつき、眉をひそめながら歩いた。


 ――理不尽は、きっとまたやってくる。次はどんな名目で、どんな顔をして現れるのやら。


 その予感だけが、妙に確かだった。

 メイリンは振り払うように、そっと首を振った。

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