書巻令嬢と蔵書閣の学者様
イチモンジ・ルル(「書き出し大切」企画)
第1章
01-謝恩の宴と婚約破棄
帝宮の蔵書閣は、メイリンにとって特別な憧れの場所だ。
読み書きを教えてくれた2歳上の兄、
「蔵書閣は、数えきれない書巻が収められた知の殿堂だよ。皇太子殿下もそこで学ばれていて、治世に役立てると士大夫志望の我々にお話しくださったんだ」
俊熙は、9歳で童試に合格した秀才だった。
その兄が語る蔵書閣のありよう……書巻の知で己を磨き、国を動かす若者たちの姿を思い描き、メイリンは胸を高鳴らせた。
「私、蔵書閣で働きたい!」
しかし、それは叶わぬ夢だった。
「蔵書閣に勤められるのは、科挙に合格して士大夫となる者……つまり男子だけだ」
「え?」
「女にそんな仕事が出来る訳がないだろう。愚かなことを言うな」
メイリンは泣き、父にさらに叱られた。
女子塾では「女は父に従い、夫に仕え、子を育てるのが役目だ」と教わっている。だから、黙ってうなずくしかなかった。
……それでも、言わずにはいられなかった。
「……書巻を、読む生活を、続けていたいんです」
姉の
「でもね、メイリン。女は書巻を読むより、どう愛らしく見えるかを考えるほうが、ずっと幸せになれるのよ」
父は少し表情を和らげ、「そんなに勉強したいか? 女子塾は物足りないか」と、しゃがんでメイリンと目を合わせた。
メイリンは鼻をかみながら、うなずいた。
その数日後、学問好きな娘に許された唯一の道として、華家との婚約が決まった。
相手は、華家の
――お手伝いか……悔しい。でも、これが許された唯一の道なら、全力でお支えするわ。
「博然様の学びを助けましょう。それが賢く生まれついたお嬢様の仕事です。お嬢様が科挙を受けられないのは遺憾の極み。しかし、賢い娘は男を支えるのが仕事、と昔から決まっておりますのでな」
初顔合わせの場で、家庭教師の代表がそう言った。
「とても残念ですが……博然様は、非常に……その……」
場にいた者たちは、ため息をついた。
博然本人とその母だけが楽観していたが、他の関係者は強い危機感をあらわにしていた。
それでも、メイリンはにっこりと笑った。
「私は誰よりもたくさん学び、婚約者を支えたいと思います」
博然の兄が深々と頭を下げて言った。
「メイリン嬢、すまない、弟を頼む。私も役所の合間にできる限りのことをしよう」
博然の父は、メイリンの父と同じく士大夫の要職にあり、兄も新進気鋭の士大夫として名を上げていた。
両家の地位と家格は釣り合い、何より学問の好みで意気投合していた。
華家の家族と教師たちは、メイリンを要に、どうにか博然を形にしようと懸命だった。
けれど、本人の愚かな頑固さと母の過干渉が、何よりの障壁だった。
なだめても振り出しに戻り、諭しても忘れられ、気づけば同じ課題を何度も教えていた。そんな日々が続いた。
それでも皆で気持ちを奮い立たせ、第一関門の童試合格を勝ち取った。
国立学校生員として3年の課程を修了するまで、博然を支え続けた。
***
そしてようやく、今日……修了の宴にまで、こぎつけたのだ。
その甲斐あって所作や礼儀作法は身に付いていた。
今日の宴で、博然は教師たちに流麗な所作で感謝を示し、落ち着いた声で感謝を伝えた。
「皆様のおかげで、ここまで学びを重ねられました」
その姿に、一部の者は「少しは成長したか」と思った。母は感極まって涙すら浮かべていた。
だが、表向きの姿勢が整えば整うほど、内に潜む幼さと愚かさが際立つ。
だから今日も、宴のあとには次の関門・歳試に備えた特訓の予定が組まれていた。
メイリンは表情をほころばせた。ちょっと誇らしい気持ちが、新たな使命感に繋がる。
――ひとまずの節目を迎えられた。今日の宴は、ささやかながらも笑顔で楽しんで、その後特訓ね。
だから祝杯のあと、メイリンは歩み出て、そっと促した。
「博然様、今日はこれで退出いたしましょう。歳試に備え、必ずお支えいたします」
声には、確かな覚悟があった。
どれほど婚約者が幼く愚かでも、軽んじられても、くじけない。
――自分の役目を果たすため、ここまで努力してきたのだ。これからも続けていくわ。
だが、そのときだった。
視界の端に、艶やかな衣装がちらついた。いるはずのない人物……姉の春紅だ。
――姉上? 招かれていないはずなのに、どうして?
嫌な胸騒ぎがした。そのとき、
「メイリン、お前の差し出がましい態度には、もううんざりだ!」
怒声が宴の会場である国立学校講堂の高い天井に響いた。
修了の宴のために飾り付けられた会場を満たしていた和やかなざわめきが、ぴたりと止まる。
声の主は蒼瑛帝国の士大夫を目指す生員、博然。
怒鳴られたのは、その婚約者であるメイリン。彼の隣に控えていた14歳の少女だ。
祝宴の最中、突然の糾弾。誰もが息をのむなか、メイリンは硬直したまま、博然を見上げた。
「書巻ばかり読んで得意気になって、僕や姉君を見下すなんて、到底許されるはずがない!」
突きつけられた指の先……メイリンに、講堂中から一斉に視線が集まる。
全身が燃えるように熱を帯び、毛穴から噴き出す汗で化粧が崩れそうだった。
耳を疑った。目の前の現実が、何かの間違いであってほしいとすら思った。
――はあ? 何それ。
でも、これは現実だ。怒りというより、うんざりする気持ちがこみ上げてくる。
「お前の亡き母君も、どれほど嘆き悲しむことだろう。故に、この婚約は破棄する!」
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