第9話:雨音とちくわぶ
雨は、止まなかった。
夜の屋台は、のれんの端をしっとりと濡らしながら、静かに存在していた。
外の世界では傘の花が咲き、しかし屋台の下では、熱を宿した鍋が今日もゆっくりと、静かに煮えていた。
「雨が続くな」
がんもどきが、だしの波を見つめながらぼそりと呟いた。
「なにか、意味があるのかな……」
もち巾着が、湯気の中から声を出す。
プチ・レッドは鍋の縁に近づいて、雨の音をじっと聞いていた。
「……音が違う」
「音?」
「昨日までの雨音と、今日のはちょっと違う。細かくて、ちょっと鋭い。なんかこう……ぴちぴちしてる」
「耳、いいんだな」
黒はんぺんが感心するように言った。
「ウインナーだからね。音には敏感だよ。焼かれるときの“じゅっ”て音とかさ」
「トラウマじゃねえか」
しらたきが小さく笑った。
だが、プチ・レッドの表情は真剣だった。
「外の世界で、何かが変わり始めてる気がするんだ」
「それは……」
がんもどきが口を開いた、そのときだった。
鍋の底が、ひときわ深く震えた。
「今の……」
「来るぞ」
皆がだしの中心を見つめる。
ぐつぐつと、音が泡へと変わり──
ひときわ大きな湯気とともに、それは現れた。
長く、白く、そして不格好な物体。
「これは……」
「ちくわぶだ」
がんもどきが静かに言った。
「こんな時間に……? もう今日は追加されないって言ってたのに……」
もち巾着が驚く。
「ありえねぇ……今日は具材、補充されてねぇぞ」
「転生、か……?」
黒はんぺんの声が低く落ちる。
プチ・レッドは、身を乗り出した。
ちくわぶは、ゆっくりと姿を起こす。
その表面は、まだほんのりと冷たく、だしを吸っていないようだった。
「お、おれ……は……?」
「大丈夫だよ。ここは、おでん鍋の中。今、君は新しく“転生”したんだ」
プチ・レッドが言葉をかけた。
「おでん……? え、なにこれ、まって……なんで俺、こんな白くてグニャグニャな……」
彼の口調は、他の具たちとどこか違っていた。
「ああ……お前、たぶん……」
がんもどきが目を細める。
「前世の記憶が、けっこう残ってるタイプだな」
「前世……俺、駅前のラーメン屋で……最後に食べたの、うどんだったような……」
「意識あるうちに転生したか。珍しいな」
ちくわぶはしばらく黙っていたが、やがて小さな声で言った。
「……名前、ないと落ち着かないな」
「名乗りたいなら、どうぞ」
ランが湯気の奥から姿を見せる。
「わたしは“ラン”。半熟煮卵よ。よろしくね」
「……じゃあ、俺は……うーん……」
彼はだしの中で自分の姿をぐるぐると回しながら考えた。
「シロブ……とかでいいや。ちくわぶだし」
「シロブか。いい名だ」
がんもどきが頷いた。
「新入り、歓迎するぜ」
プチ・レッドが手を差し伸べる。
「おれ、プチ・レッド。よろしく!」
シロブは少し戸惑いながらも、その“手”を握った。
……そのときだった。
屋台の主の手が、再び鍋に近づく。
全員が緊張した。
串ではない。
だが、おたまがゆっくりと沈められていく。
だしの波が広がり、具たちは慎重に身を引いた。
おたまにすくわれたのは──しらたきだった。
「え、また俺!?」
「昨日もこんにゃくが……」
がんもどきがつぶやく。
しらたきは、鍋の外の景色を見ながら、小さく笑った。
「いいよ、わかったよ。今日の俺、ちょっと煮込みすぎてたしな……」
そして、彼は誰にも告げずに、するりと消えていった。
静寂。
プチ・レッドが、しらたきがいた場所をじっと見ていた。
「……変わっていくね」
「うん。でも、変わるってことは、生きてるってことさ」
がんもどきが答える。
「俺たちは、だしに生き、だしに還る。そういう存在なんだ」
「シロブも、いつかそうなるかもしれないけど」
ランが優しく言う。
「それまでは、ここで一緒に……生きていこう」
シロブは、一瞬黙ってから、ぽつりと呟いた。
「……わかった。俺、ここでやってみるよ」
外では、雨がようやく小降りになっていた。
熱と香り、命と記憶が渦巻く鍋の中で、またひとつ物語が静かに芽吹こうとしていた。
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