独裁政権下の英国の暮らしに関する証言集

双ヶ嶺亜励克斯

第1話 ある酔客の懐古

 硫黄の臭いがしたんだ。気が付いたらそこにあった臭いというか。


 その日は夕方に雨が止んでな。濡れたアスファルトはくすんだ空の色をしていた。レンガの赤も、壁の落書きも、そこら辺に散らばっている紙袋も、缶も、オレンジの皮も、全部いいものではないのに鮮やかに光っていたんだ。行ってみるといいさ。


 バスから降りて路地に入るとそうだ。大通りのガラス張りの小綺麗なビルなんて全部張りぼてだ。世界に誇るべき大都市なんて虚飾の塊だ。俺の生活はその裏にあった。貴族や金持ち、役人は庶民の生活なんて見せたくないらしいな。今だって再開発だとか言って貧乏人を見えないところに追い払っていやがる。せっかくお前らも海の外から来てくれたんだ。この街の汚いところも見せてやる。やつらへの当てつけにな。


 俺の家は宿屋兼パブだったんだ。四階建ての店舗兼住宅さ。家族の他に二人、従業員を雇っていたよ。客室はとりあえず寝て起きるのに必要な最低限の広さしかなかったが、むしろ飯屋ってか、パブとしての利益の方が大きいくらいだった。


 家の一階は丁度このパブみたいな雰囲気でな。俺がここによく来る理由はそういったところなんだ。あそこのテッカテカにニス塗りたくった木のカウンターも、ごちゃごちゃした酒棚もさ、少しくらい散らかっていた方がいいんだよなあ。それと、ほら、見てみろよ。そこのカウンターにビールとサイダーのサーバーがあるだろ。分かんねえか。あの金色の蛇口みたいなやつだ。そうそう、黒い取っ手の付いたやつだ。俺の家にもあんな感じのがあって、学校から帰ると親父はいつもビールを注いだりサイダーを注いだりしながら俺に「おかえり、ジャスティン、これで何度目のいらっしゃいませかな」って笑ってくれたんだ。その日もそうだったな。


「さあ、産まれたときから常連だから分かんねえな」


 俺も十五歳だったから、洒落た返事をしようと恥ずかしいことばっかり言っていたもんだ。おかげで酔っぱらいが冷やかしてくるんだよ。


「俺の方が長え」


 そいつはいつも昼間っから飲んでいた。ダニエルっていう名前だ。そいつが何をして生きていたかって? さあな。


「にしても、こんな安宿にその制服は似合わねえなあ」


 そんな無神経なことばっかり言うから、俺だけじゃなくて皆ダニエルには呆れていた。

「言いやがって。ここ、俺の家なんだが?」


 俺がダニエルを睨んで、親父が溜息を吐くものだから、ダニエルは「違え、違え」って慌ててさ。イラっときて「何が」って言ってやったよ。そしたら、ダニエルは親父をチラッと見ながらビールを一口飲むのさ。


「こんな街から高中に編入された奴がいるのが誇らしいんだい」


 高中、高等中学ってのは、大学入学資格を取るための学校だ。お前の国でいう高等学校ってやつだな。パブリックスクールとグラマースクールの制度を統合することを目指していたが、実質は公立学校潰しと、ごく限られた人間しか大学に進めない世の中を作ることを目的とした政策でな。当時は金持ちか役人の子くらいしか行けなかったよ。そこに、背が小さくて煤けた野郎がいるんだから、不釣り合いな制服を着ているって感想を抱くやつがいるのも当然だった。ダニエルはそこをごまかそうとしたんだな。


 まっ、そんなこと言っても無駄でな。親父は「お世辞を言っても、ビールはタダにならないぞ」って澄ました顔で流すんだ。それで当のダニエルは「大将が怒ってないか見てんだよ。出禁にならねえようにな」ってジョッキの中をジッと見ている。


「親父の機嫌をとるならそんなこと言っちゃダメだろ」

「いいんだ。ダニエルはずっとこんなやつなんだ」

「知ってるよ。俺が小っちゃなころからずっとそうだ。この前なんか俺のことを乳のついた男とか言いやがったんだよ。そんときはさすがにジョッキで頭カチ割ろうかと思った」


 客同士で喧嘩するならそりゃ追い出すが、ダニエルくらいのやつなら大目に見るさ。むしろそのまま何杯でもビール飲んで金落としてくれりゃいいやと当時の俺は思っていたしな。


「まだ引きずってんのかよ」

「別に。次は一体何だろうなって話だよ。それじゃあごゆっくり、飲んで肝臓壊して死ね」

「愛想もねえ」

「売り切れだ」


 いつもなら客や親父と一言二言交わしたらホールを抜けて自分の部屋に戻っていたんだが、その日は何となく、階段の先がやけにしんとしていて、カウンターから離れたくなかった。


「親父、何か手伝うことあるか?」

「いつも通り、ない。お酒なんて注がず、遊ぶか勉強するかしてなさい」


 さっきからずっと表情を変えないまま、親父はライムを切ったり搾ったりするだけだ。


「いつも思ってんだよ。お店手伝わねえのもなあって。俺の友達、みんな働いてるんだしさ」

「勉強してくれるだけで十分だ」

「掃除とかは?」

「アイザックに頼んだ」

「帳簿は?」

「お前がつけると税理士に怒られる」

「いや、そんなことじゃなくて、俺も下町育ちだからさ」


 俺とそんなやり取りをしているうちに、親父はライムソーダを一杯拵えて、「ダメだ。大学に行きたいんだろ?」ってさ。しょうがないからグラスを受け取ってさ。


「行きたいけどさ」

「今の学校、二十位以上の成績をとれないとどうなる?」


 俺の顔が不満そうに見えたんだろうな、実際そうだった。いつもだったらここで話を切り上げるはずなのに話を続けてきた。


「奨学金打ち切られて通えなくなるな」

「お前の同級生は、貴族、地主、資産家、官僚、医者、弁護士の子ばっかりだよな」

「そうだな」

「パブの店員をやりながら勝てるか? そいつらに」


 ここまで言われるとお手上げだよ。「わーったよ。勉強に専念する」って……。お? 今の発音分かりにくかったか? 「分かった」か「悪かった」のどっちかだって? 下町言葉だと早口になるし、一音一音しっかり発音しねえからな。音だけじゃなくて意味も似ているし……。気持ち的にも両方の意味で言ったとも……、な。


「それがいい。山に登るなら道は選んだ方がいい。頂上に辿りつけるように、帰れるように」

「何だい、お前さんたち、山にでも登るってのかい」

「難しいことにチャレンジするならやり方を考えろ……、ってことだよ。あ~あ、この制服好きじゃねえんだよなあ。さっさと着替えよ」


 わざとらしく言ってみせると、親父も「そうだな。特に首の周りが苦しそうだ。空気だってそうだろ」ってさ。分かっているみたいだ。実際、あそこの空気は綺麗すぎる。周りは鼻につく上流階級の訛りで喋るし、歩くにも、座るにもマナーマナーで体中ガチガチさ。


「まったくだ。やっと息ができる」


 ネクタイを解いて、シャツの一番上のボタンを外すと、親父は苦々しく「あのなあ、そういうことは客のいないところでやれ。男だろうが女だろうが、こんなところで脱ぐ奴はいない」と窘めてくる。


「親父だってシャツ着崩してるだろがよ」

「着方の問題ではなくて、脱ぐという行為の話をしているんだ」

「親父、それは屁理屈だ」

「ダニエルの顔を見てみろ」


 スケベな目をしていたよ。何を言っても、ダニエルだけはどうにもならねえ。クソ野郎だ。引き下がるしかなかったよ。


 ただ、少しばかりの抵抗に「承りましたわ……、ってね」と、貴族の喋り方を真似てみせた。それがツボに入ったらしく、ダニエルなんてビールを噴きだして、むせながらゲラゲラ汚く笑いやがって、俺は「自分で拭けよ!」って怒鳴っちまった。それでもヘラヘラしてやがる。俺も半分くらいウケを狙って言ったから責任がないわけでもなかったが……。


 親父はというと、苦笑いしかしねえが……、それでよかったんだ。


「それじゃ親父、無理すんなよ」


 話をしている間ずっとソーダを持っていたからさ、これ以上ダラダラ話してぬるくなったら堪ったもんじゃない。暖房ガンガン焚いて湿気ていたから、グラスも汗かいて手が濡れていたし、これで切り上げることにした。


「ジャスティンもな」


 あそここそが俺の安全地帯だったというか、今でもそう思うんだがな。もうそんな家にも十何年も帰れていねえ。それで俺はここで飲んでいるのさ。

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