第38話
気がついたとき、陽子はベッドに横たえられていた。
病院に搬送されたようだ。狭い病室の中には誰もいない。顔面の鼻から下は酸素供給マスクに覆われていて、口が動かせない。
右手だけがシーツの外に出され、固定されてチューブが刺さっていた。血液が出入りしているようだ。身体の別の部分にも、チューブが挿入されている感触がする。生体検査用ナノマシンが注入され、身体の状況が精密にモニタリングされているに違いない。
窓はないか、遮光されているようだ。陽子の視界には、やわらかく光る天井一面に敷き詰められた発光パネルしか見えないのだ。
(わたしも、感染したの……このあと、どうなるのかしら……?)
ぼんやりと考えていると、ドアが開いて、何人かが部屋へ入ってきた。
「気がつきましたか?」
「……はい」
白衣を着たひとりの男が、声を掛けてきた。
「塚原陽子さんですね」
「そうです」
「あなたの身辺に関する、諸般のデータを精査させてもらったところ……」
そこで語る速度が遅くなる。おそらくは網膜投影の文書を見ながら話を続けているのだろう。
そして、彼のことばは、耳を疑うものだった。
「きみは、潜在ウィルスのキャリアである可能性が高いと思われる」
「……なんですか、それは」
はじめて聞くことだ。
「きみの身体に潜んでいるレトロウイルスが、人間のDNAに影響を及ぼす。きみのある種の『ことば』は、体細胞に反応し、ジャンクDNAからレトロウィルスを分離させ、発症させる」
「体内にウイルスが? 感染するのではなくて?」
「そうだ。生物のDNAの中で身体の複製に利用されているのは、ごく一部。残りはジャンクと呼ばれる利用されない部分だ。そのジャンクの中には、かつて感染したレトロウイルスの残骸が含まれている。レトロトランスポゾンと呼ばれているが、それが特殊な刺激により、もとのレトロウイルスに戻ってしまったのだよ。彼女たちに熱病を発症させたのは、そのレトロウイルスだ。
ウイルスが体内で増殖すると高熱を出してリンパ腺が腫れ、皮下出血を起こす。幸いにして致命的なものではなく、症状そのものは数日で寛解するようだ。
ここ数年、この種の感染症が『東京』都内では散発的に発生しているのだ。そしてその行動をたどってみると、塚原陽子さん、あなたに不審な行動があることが判明したのだ」
「そんな」
陽子は絶句する。
「わたしの体内にウイルスがあって、そのウイルスを発現させてしまったというのですか……」
白衣の男は、もはや質問には答えなかった。
紗絵羅が言っていた「コルグ」と、関係があるのだろうか。
「まさか、あのとき」
「あなたは最近、不審な人物と接近しませんでしたか?」
「それは……」
紗絵羅のことを言っているのか?
「わかりません」
そう答えるしかなかった。それともだれかが、連絡を取っていることを話したのか?
陽子の返事を待たず、男は話を続けた。
「きみは無症候性キャリアの可能性が高い。今後きみは、わたしたちの監視下に置かれることになる」
そういって、男は部屋を出ていった。
無症候性キャリア。病原体への感染が起こっていながら発病せず、結果として病原体を周囲にまき散らす存在である。かつては公衆衛生上の大いなる脅威として喧伝されたこともある。
二〇世紀初頭のアメリカに、メアリー・マローンという家政婦がいた。彼女は腸チフスに感染したが発症することはなく、自覚のないまま菌は彼女の身体に居座り続けた。無症候性キャリアであることに気づかぬまま、彼女は住み込み家政婦としていくつもの家庭で働き、多数の感染者を出した。それは彼女の責任ではなく、腸チフスという疾病に対する知見の未発達によるものとされた。
しかしそれは、公衆衛生学と人権意識の発展と深化によって、克服されたはずだった。あらゆる偏見、差別、いっさいは地球に置いてきたのではなかったろうか。
そんなことを考えていると、陽子はふたたび眠くなってきた。薬が効いてきたのだろうか。
目が覚めたとき、部屋は真っ暗だった。どれくらい時間が経っているのかは、分からない。時間を表示するものが、この部屋には見当たらない。
そのとき、ふと思った。
まさか、紗絵羅が、この件に関係しているのか?
わたしに接近したのは、そんな意図があった?
床の中でぼんやり考えていると、
とんとん。
扉を叩く音がする。
三人の看護師の服を着た女性が入ってきて、陽子に囁く。
「移送です」
「こんな時間に……」
病室の扉が開かれ、陽子を乗せたストレッチャーは、三人の医療スタッフによって運び出された。
ストレッチャーは音を出さずに、照明の落とされた廊下を進んでいく。
「……!」
遠くでなにか、言い争っているような声が聞こえるが、朦朧としてよく分からない。
何かが激しくぶつかるような物音も聞こえる。
エレベーターに乗せられて、扉が閉まったとき、ストレッチャーを押していたひとりの女性が顔を寄せてきた。
そして囁きかける。
「陽子、もうだいじょうぶ」
マスクに遮られて、くぐもった声が聞こえる。
女性か。
「心配しないで。あんたを安全なところへ連れて行く」
寄り添っていた看護師がしゃべった。聞いたことのある声だった。
「――紗絵羅? えっ?」
「しっ」
マスクの上から、人差し指を立てる仕草をした。
地下の駐車場に出る。ストレッチャーごとヴィークルに乗せられる。救急車ではないようだ。
動き出すが、外は見えない。
「どこにいくの?」
問いかけても、傍らの紗絵羅は無言だった。
しばらく揺られた後、ヴィークルはビルに横付けされた。陽子は降りるよう促された。
「ここよ」
ビルの隅にある非常階段を、歩いて昇る。
暗がりで外の景色は見えなかったが、上階だか踊り場だかわからない折り返しが延々と続いた。それを十何回繰り返したところで、陽子は数えるのをやめた。
息を切らしながら、問うた。
「わたしはこれから、どうなるの?」
「すぐに、分かるよ」
「え?」
そして、彼女はいった。
「正直に話すわ。わたしたちは、『叫び』の一員」
「『叫び』……」
それは、組織の名前だろうか。陽子は見当もつかなかった。
「なんですかそれ。聞いたこともない……」
「いずれ、わかる」
息を切らせて、紗絵羅は続ける。
「でも、これだけは知っておいた方がいいかもね。これからあなたは、わたしたちと行動を共にすることになる」
「そんな……どうして」
「あたしたちは、あんたを見ていたのよ。そう、『叫び』はどこにでもいる。街角にも……あんたの学校にも、ね」
「だから、図書館でわたしに声をかけたの?」
それには答えなかった。
建物の内部に通じる扉が開けられ、長く伸びた廊下を歩いていく。
廊下の両側に扉が並んでいる。ホテルか集合住宅のようだ。
「ここよ」
そのひとつが開けられ、中の部屋へ連れ込まれた。
陽子は部屋を見渡した。
部屋には家具もなく、打ち放しのコンクリートで壁や天井が覆われていた。一箇所ある窓のカーテンは閉められ、天井の照明パネルは淡く点っている。昼か夜かも分からない。
空気はよどみ、しばらく換気されていない雰囲気である。
「……どこなの?」
それには答えず、紗絵羅は部屋の向こう側にある窓際まで歩み寄り、カーテンの端を握って、ひといきに引いた。
光が差す。まぶしさに思わず眼を細めた。やがて眼が慣れていくと、その向こうには、くすんだ高層住宅がどこまでも続いているのが見える。どのビルも、同じようなかたちをしている。
遠くに見える高層ビルは、「お台場」のビル街だろうか。
「わたしは、どこにいるの?」
陽子の問いに、紗絵羅は答えた。
「ここは『非L』の街」
「えっ」
「あなたを
陽子は紗絵羅の顔をまじまじと見る。そして紗絵羅は微笑みかけた。
「ようこそ、陽子」
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