第36話

 店を出て、歩きながら、紗絵羅は言った。

「ところで、陽子」

「えっ」

 下の名前で呼ばれて、陽子はすこし面食らった。

「いきなり、距離を詰めてくるのね」

 苦笑する陽子に、紗絵羅は問うた。

「あんたのお父さん……いつごろ会った?」

「入学するとき、それが最後」

「どんな研究をしているのか、知ってる?」

「言語学……ですよね?」

「それだけ?」

 すこし不満げに応える。陽子はことばを返した。

「うちじゃ、仕事の話なんて、しなかったもの……わたしも小さかったから、興味もなかったし」

「ふん」

 紗絵羅は言った。

「じゃあ、『コルグ』も知らないんだ」

「なに、それ?」

 陽子は眼をぱちくりさせた。

「……これよ」

 そういうなり、陽子の耳に口を近づけて、何ごとかを囁いたのである。

「……!」

 そのとき、何かが閃いたように思えた

 陽子の視界が光で包まれる。

 そして、意識がふっと遠くなっていった――。


「――――」

 陽子は、ヴィジョンを見ていた。

 闇の中。

 いや。

 闇は、闇ではなかった。

 何もない空間は、ごくごくわずかにゆらいでいる。冷え切っているように見えて、かすかに熱を帯びている。絶対温度三度の宇宙放射。

 もっと、もっと微細に――

 どんどん階層を降りていく。原子より、素粒子よりも小さく。プランク長さを下回る極微の領域では、空間はエネルギーのせめぎ合う大海原だった。

 ディラックの海。

 物質とエネルギーの狭間で空間が揺れている。波立っている。

 波頭が砕けてしぶきが飛び散るように、粒子が波としてポテンシャルの壁を越えるトンネル効果で、新しい宇宙が生まれた。

 チャイルドユニバース。虚無のなかにエネルギーに満ちた小さな宇宙がいくつもいくつも生まれ、そのうちのひとつが、インフレーションを起こす。

 恐ろしい勢いで膨らんでいき、はじけ飛んだ。

 希薄化する宇宙で超ひもは冷えて折りたたまれていき、この宇宙に存在するかたちの「物質」となる。クオークが集まって素粒子になり、素粒子が集まって原子になる――

 ――ビッグバン。

 光が生まれた。エネルギーは物質となり、物質は組織化され、暗闇の中に星が輝く。

 陽子はいま、宇宙の開闢を目の当たりにした――。

 空間はどんどん広がり、希薄になっていく。温度が下がる。波長が伸びて3Kにまで下がった。

 宇宙と自分の境目が曖昧になる。星間物質よりも希薄に――。

 こんどは、降下していくのを感じる。自分の身体が小さくなるようだ。

 原子――素粒子――もっと小さな構造の中に入り込んでいく。プランク長さを下回り、粒から、波になった。そしてせめぎ合いの海へと消えていった――。

 網の目はどこまでも稠密に、フラクタル構造の網の目がプランク長さに達したとき、一気に裏返って、宇宙ぜんたいに拡がるのだ。

 宇宙ぜんたいに拡がる網の目。 

 それは銀河の分布を表したものか、ダークエネルギーの粗密差なのか

(過去……未来……)

 そのとき、陽子にははっきり分かったのだ。

 時間は、網の目のようにこの宇宙に張り巡らされている構造。空間はそれにへばりついた泡のようなもの。

 わたしたちには、「宇宙」のほんとうの姿は認識できない。今見ているそれが真の構造だというときに気がついた

 今、宇宙のすべてを、見通してしまったのか――。

 暗闇の中に星が輝く。ひときわ明るいのは、太陽か。

 やがて小さな青い点(ペイル・ブルー・ドット)が見える。それはどんどん大きくなっていく。青い円盤。

(火星……?)

 いや、火星なら、赤いはずだ。

 これは、どういうことなの……。


 その次の瞬間、視界がブラックアウトした。

 ふたたび見えてくると、そこは先ほどと変わらない、カウンターだった

 陽子の意識は、この世界に戻ってきたのだ。

 自分が見たのは、はるかな未来なのか。それとも、異世界の光景なのか――。


(なぜ……)

 なぜ、わたしがそれを見たのだろう。紗絵羅がそれを見せたのだろうか。

「……なんなの? あなた、なにをしたの?」

 さっき飲んだものに、妙なクスリが入っていた?

「あたしは、なんにもしてないよ。うふふ……」

 顔を上げると、紗絵羅と眼が合った。彼女は意味ありげな笑みを浮かべた。そしていった。

「陽子。あなたは、コルグしたのよ」

 はじめて聞く単語だ。

「コルグ? どういう意味?

「そのうち、わかるよ」

 はぐらかされる。

「でもこれだけは言える。『ことば』に縛られている限り、もうひとつの扉を開くことはできない。それを開ければ、いろいろなことがわかる。人間の真実も、この社会の正体も、ね」

「?」

「いい時間だわ……またどこかで会いましょう。じゃあね」

 渋谷の駅前で、紗絵羅は去って行った。


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